信条と写真と
美術室に取り残された花隣は、ぼーっと半澤のいた場所を見つめていた。
ひどいことを言ったという自覚はある。自分が言われたなら、あれは最上級の侮辱だろう。半澤はきっと、美好から聞いて花隣の信条を知っているはずだ。だからこそ、なおのこと傷ついたことだろう。
絵は心を写すもの。その絵に描けないということは、心がないと言っているようなものだ。ひどい悪口である。
「……みーくんが心を開くような子に心がないわけないじゃない……」
ぽつりと呟きが静寂の中に落ちていく。とても虚しく響いた。
景色が滲んできたところで、がらりと教室の扉が開く。花隣は驚いて、目尻を拭ってからそちらを見た。
「あ、やってるやってる」
「先輩」
入ってきたのは美術部の先輩だった。毎回ではないが、よく来る先輩だ。
花隣のことをよく気にかけてくれている。
そんな先輩が、美術室全体を見回してから、およ? と首を傾げた。
「園崎さん、そこの机のデジカメって誰のかな? 園崎さん、写真なんて撮らないよね」
言われて花隣もはっとする。デジカメが机の上に置いてあった。
写真、と言われると、今頭に思い浮かぶのは一人しかいない。苦々しい思いが込み上げてくる。
「知り合いのです。忘れてったみたいですね」
「ん? 知り合いっていうと、あれか。いつも来てる、海道くんだっけ」
「あ、ええと……」
「ま、大切なものみたいだから、早く届けてあげなよ」
先輩の進言に素直に従おうとするが、そこでふと気づく。
「何故、大切なものだとわかるんですか?」
すると、先輩がくすくすと笑う。
「女の勘」
「……真面目に聞いているんですが」
「それ、二、三年前のモデルなのに、傷一つないじゃない。でも、使われてないってわけじゃない。シャッターのところを見るとわかると思うけど、ちょっとボタンが傾いてるんじゃない?」
言われてカメラを手にする。確かに先輩の言った通り、傾きというか、磨り減ったようなへこみが見られた。
「よく一目でそこまで」
「美術部伊達にやってませんよ」
胸を張る先輩。ごもっともだ。
絵を描くには観察力が必須であるのは言うまでもないことだ。しかし、カメラの年式まで知っているとは。
「でも、二、三年使ったくらいで大切だなんて」
「何言ってるの。シャッターが磨り減るくらい使い込んで壊れてないんだから、充分大切にしてるでしょ」
反論できなかった。
「……そっか」
だが、半澤にとってそのカメラがどれほど大切なものであろうと、先程ひどい別れ方をした手前、半澤に手渡しに行くのは気が引ける。
少し悩んでから、花隣はワンクッション置くことにした。
「で、俺が呼ばれた、と」
「そ。みーくんなら、さわくんの家くらい知ってるでしょ」
「お前が知らないことの方に俺は驚きなんだが」
学校に呼び出したのは美好だ。半澤の家には何度か行っていると聞く。彼なら半澤にカメラを届けてくれるだろう。
「お前が直接渡すという選択肢はないのか、って何笑ってんだよ」
昇降口前、自転車を引いた私服姿の美好は、ぼさぼさの頭に木の葉や枝がついていて、明らかにこけた感じになっていた。これが笑わずにいられようか。
まあ、簡潔に説明するならば、例によって、今日もまた美好はこけたのだ。
「だって、みーくん、面白っ」
「……ふん」
美好は不機嫌面で花隣の手から半澤のカメラをぶんどった。
「とにかく、これを半澤に届けりゃいいんだろ? 俺、私服だし、さっさと行ってくら」
「うん、よろしく」
また、不機嫌にさせてしまった、と思いながら花隣は美好を見送る。少しよろけながら自転車に跨がって漕いでいく。美好の背中は向こうにすぐ消えた。
それから花隣は俯いた。花隣は見てしまったのだ。カメラの中身を。その中には瑞々しく咲き誇る草花の他に、綺麗な少年が写っていた。彼は埃まみれで、頬に葉っぱや花びらをつけているのに、不思議と汚れている感じがしない。……そのモデルが誰かは、今目にしたのだから間違えようがない。美好だ。
美好が写った写真は、どれも美好が爽やかに笑っていた。とても先程の不機嫌面と同一人物とは思えない、屈託のない笑顔。そんな写真を見せつけられて、花隣は悔しかった。花隣は何度も何度も美好を描いてきた。けれど、その中であれほど自然に美好が笑う姿なんて、描いたことがない。花隣が描くのはいつもどこか遠くを見つめている美好や、先程のような不機嫌面の美好ばかりだ。……あんな綺麗な笑顔の美好なんて描いたことがない。そもそも、美好が花隣の前で笑うことの方が少ない。
だから、悔しかった。幼なじみで、過ごしてきた時間は圧倒的に多いはずなのに、笑顔を描けない自分と、いとも容易く美好の笑顔を引き出す半澤の技術が。
……何より、あの写真は花隣の信条である「写真はありのままを写すもの」という概念を覆してしまっている。確かに、美好のありのままではあるのだろうが、あの写真は楽しんでいる美好の心までをも完璧に写し取ってしまっている。……そんな写真、許せなかった。
だから、カメラを尚更自分では返せなくなってしまった。花隣の中のプライドが半澤と会うことを拒んでいる。拒んだところで、半澤は同じクラスなのだから、平日になれば嫌でも顔を合わせることになるのだが。
花隣は顔を歪めた。今度の月曜日、自分は半澤とどう顔を合わせたらいいのだろうか。これは花隣の個人的なプライドの問題であって、半澤は何も気にしていないかもしれない。屈託なく笑って、「こないだはありがとう」なんて言ってくるかもしれない。女子に人気のあの爽やかな笑顔で。
「……さわくんは、ずるいや。筆も何もないところでばっかり、絵になる笑顔を浮かべて、誰にも描かせやしないんだ。
その割、自分はいい絵ばっかり撮って……」
ずるい、ひどい、と花隣は繰り返す。しばらく美術室には戻れそうにない。涙はそう簡単には引っ込んでくれそうにないから。
「よ、半澤」
「海道くん? どうしたの?」
「ああ、届け物」
「じゃなくて、見た目」
「え?」
「土まみれだよ」
あ、嘘、とか言いながら、玄関から出て埃を払う美好。半澤はくすくすと笑いながらそれを見ていた。
「海道くんって時々抜けてるよね」
「デジカメ忘れるお前に言われたくないやい」
半澤は目をぱちくりしてから、海道が差し出したそれを受け取る。半澤が苦笑した。
「……千切れてたんだ。ネックストラップ」
「おいおい、不吉だな」
「僕は脈なしってことかなぁ」
美好がクエスチョンマークを浮かべるのを見、半澤は再び笑った。
「海道くんは今のままの海道くんでいてね」
「? ああ」
鈍くてもなんでも、半澤は美好のことが好きだから。友達として。きっと、相手が美好だから、失恋も嘆かずに済むのだろうと思う。
「上がっていきなよ。お茶くらい出すから」
「佳代さんは……」
「今、買い物。ほらほら上がって」
「おう」
誘われるまま、半澤の家に上がる美好。
美好は半澤とのこの関係が、ずっとこんな感じで続いていけばいいと思う。半澤と過ごす時間は、ちょっと愉快で、かけがえのないものなのだ。半澤といると幸せで、半澤が笑うと少し嬉しい。
そうやって、半澤が笑うことが多くなればいいと思っている。もう、リストカットなんてしなくて済むように、幸せな日々が訪れて、続いてくれれば、それだけで美好は幸せだ。




