モデル
土曜日。いつも通りに学校へ向かい、日課の花への水やりをしに行った半澤だが、その日はいつもより心持ち緊張していた。
何故なら、半澤の学校に行く用事は水やりだけではなかったからだ。
振り返れば昨日の放課後、半澤は花隣に呼び出しを食らったのだ。
「さわくん、明日暇?」
「え、暇だけど……」
「じゃあ、明日、美術室に来て」
「え?」
「時間はいつでもいいから」
言われて来たはいいものの、花隣が半澤を呼びつける理由がわからなかった。人に呼び出されたことがないわけではないが、あまり呼び出されていい思いをしたこともない。溜め息を吐きたい気分だった。
何故呼び出されたのかもそうだが、昨日の花隣の様子から見るに、なんだか二人きりにされるような予感があるのだ。片想い中の人物と二人きりなんて、普通なら両手を上げて喜ぶところだが、相手の考えが読めないのが怖い。それに、半澤は花隣に嫌われているのだ。嫌な予感以外しない。
授業以外で美術室に行く機会は少ない。これが初めてかもしれない。花隣のように、美術部ならば、毎日のように来るのだろうが、生憎と半澤は帰宅部だ。
こんな土曜に校内にいるのは教師と吹奏楽部くらいしかいない。人が疎らな校内というのはなんだか新鮮な気がした。人が少ないため、グラウンドで部活をしている運動部の声がやけに明瞭に聞こえた。「さっこーい」と言っている。意味はわからない。自慢ではないが、運動部に所属したことなど全くない半澤には専門用語がわからない。なんとなく、「来い」という意味なのだろうか、と解釈するくらいだ。
半澤の今の気分を照らし合わせると、とても「さっこーい」なんて爽やかな掛け声が似合うような状況ではなかった。緊張感が漂う中、片想いの相手に呼び出されて会いに行く。字面だけ見ればロマンチックだが、相手は自分をノーマークときている。下手な希望は持たない方が身のためだ。
人が疎らなので、目的地にもすぐ辿り着いてしまう。もう少しゆっくり歩けばよかっただろうか、なんてよぎるが、ゆっくり歩いたところで先に待つ結果は同じなのだ。先送りにするよりはよかったのかもしれない。そう思うことにした。
美術室の前で、深呼吸をする。誰にも聞かれてはいないし、見られてもいないだろう。覚悟を決めて、美術室の扉をノックする。はぁい、と朗らかな声が聞こえた。ほぼ毎日聞いているからわかる。花隣の声だ。
「さわくん、入って大丈夫よ」
「え」
名前を当てられ、ぎくりとする。花隣がくすくすと笑うのが聞こえた。
そろそろと扉を開けると、夏服の花隣がそこにいた。今日は土曜日だからか着崩していて、リボンをつけていない。ふと視線をさまよわせると、リボンは鞄の持ち手に巻きつけられていた。
「緊張しなくても大丈夫よ。土曜日に美術部に来るなんて物好き、私くらいしかいないもの」
……やはり、二人きりということらしい。むしろ緊張する。なるほど、来るのが一人だけとわかっているなら、人の特定をできても何ら不思議ではない。
「それに、美術室をわざわざノックして入ってくるなんて、美術室に招かれた人くらいでしょう」
確かに、その通りだ。ということはやはり、どうあっても二人きりということになるらしい。好きな人と二人きりというシチュエーションは喜ぶべきなのかもしれないが、半澤はそれより、花隣がキャンバスを開いていることが気になった。
花隣はなんでもないことのように言う。
「適当に座って。デッサンするから」
「ええ!?」
花隣の口から放たれた言葉に驚愕するしかない。
美好からよく聞いていることなのだが、花隣は人をモデルにデッサンすることが多いという。主に美好だ。きっと、美好のことが好きで、美好を描くのも好きだからだろうと推測している。半澤が美好を写真に収めたい理由とよく似ている。
ただ、半澤と花隣は違う。花隣は美好のことをモデルという以上に思っている。だから、美好しか描かない。そうだったはずだ。
けれど今、確かにデッサンすると言った。呼びつけて座れと言っておいて、その辺の机をデッサンするなんてことはないだろう。つまり、半澤を描こうとしているのだ、花隣は。
「どうしたの? 好きな席に座っていいのよ」
「いや、あの」
話が色々と唐突すぎて、半澤の頭が追いついていけない。
「園崎さん、なんで」
そこまで言うと花隣も察したようで、こう紡いだ。
「前にね、みーくんに言われたの。俺以外は描かないのか? って」
美好は花隣の想いにこそ鈍感だが、幼なじみなだけあって、花隣のことをよく気にかけている。いつもいつも自分ばかりを描いているのでは飽きないのか、疑問に思ったのだろう。
「それに対して私はこう答えたわ。『私はみーくんが描きたいの』」
花隣の言葉に半澤はほんのりと笑った。花隣が言いそうなことだ。
「でも、一応とばかりに例えば誰とか聞いてみた。そしたらね、みーくんってばあなたの名前を真っ先に出したのよ」
「そうなんだ」
拳を握りしめ、それを見つめる花隣は続けた。
「悔しかった」
「へ」
「咄嗟に名前が出てくるほど、みーくんの身に馴染む存在ができたなんて。幼なじみの私を差し置いて先に。……さわくんは、そんなつもりはないでしょうけど」
半澤は黙っていた。今は何を言っても慰めにはならないだろう。
「でもみーくんは絶対私の気持ちになんて気づいてくれない。だからね、私、開き直ることにしたの」
「開き直るって……?」
「さわくんを描いてみたら、何かわかるんじゃないかって」
「海道くんじゃなくて?」
「そ。みーくんがあなたに惹かれる理由がわかるかなって思ったの」
「惹かれるだなんてそんな」
半澤が俯くと、床に一つの影が迫ってきた。驚いて顔を上げると、目の前に花隣の顔があり、どきりとした。
ただ、やはりどうあってもロマンチックなシチュエーションにはなり得ないようで、こんなにも近くにある花隣の目はわかりやすく据わっていた。
「あなたのそういう謙遜、嫌い」
面と向かって言われると、ぐっさりくる。嫌い、嫌い、嫌い……花隣の声で何度も反芻されていく。
最初からわかっていたことだが、やはり諦めきれない部分というのはあるもので、半澤はきゅ、と手を握りしめた。涙を流さないようにだけ気をつける。
「好きっていう言葉の意味が単一でないように、惹かれるっていう言葉の意味も単一じゃないのよ。……まあ、みーくんの場合、さわくんには『好き』って意味で惹かれてるんだろうけどね」
「それは友達としてで」
「わかってるわよ」
肩を殴られた。
「言ってるだけで私は惨めなんだから、これ以上惨めにしないで」
「……ごめん」
半澤は黙り、俯く。今のところ、花隣を傷つけてしかいないような気がする。
花隣はゆっくり深呼吸をした。呼気が震えているような気がしたが、何も言わない。
花隣はゆっくりとキャンバスの方へ戻った。半澤もそれに釣られるようにして、適当な席に着く。
キャンバスの前に座ると、花隣は眉をひそめ、鉛筆を握る。その目はじっと半澤を見据えていた。
半澤は努めて無表情でいた。表情を表していい資格など、半澤にはない。少し悲しい気もしたが、花隣と目を合わせないように目は花隣の握る鉛筆に据えていた。
が、少ししておかしいことに気づく。
花隣の手が一向に動く様子を見せないのだ。しかも、しまいには鉛筆を置いてしまった。
「園崎さん?」
声をかけると、花隣は半笑いを浮かべていた。
「さわくん、難しいね」
「え?」
「あなたはみーくんみたいに感情が透けない。言い方が悪いけど、人間らしくない」
ずきん、と胸が痛んだ。だが、それだと、花隣の手が動かないのも納得がいく。
絵は心を写すもの。だとしたら、心のないものを描けるはずがない。
いつか、美好が言っていた。絵描きは絵に自分の思いを託すのだと。花隣の言う信念が、ゴッホがひまわりに、ピカソがゲルニカに託したものだとすれば、全ての道理が通る。
つまり、花隣は半澤に何の感情も抱けないということになる。
「……ごめんね」
半澤はそれだけ呟いて、教室を後にした。
悲しすぎて、花隣の顔をとても直視はできなかったから。




