絵と写真と
写真部の先輩からしつこくせがまれて、フラストレーションが溜まり気味な半澤は、このところ、毎日リストカットをしていた。美好と出会ってから落ち着いていたのが、ぶり返したようだ。美好に相談はしているし、美好は真摯に話を聞いてくれる。けれど、他人に話すだけでは半澤の憂鬱が晴れることはなく、結局、家に帰ってからリストカットをして、あの謎の包帯を増やす日々が続いていた。美好がその傷を心配してくれているのはわかるのだが、それでも、そう易々とやめられるものではなかった。時には無意識でやってしまっていることもある。それでも死なない自分は何なのだろう、と思い続ける日々。
夏がやってくる。制服は衣替えになり、ジャケットは着なくても良いことになっている。それどころか、半袖シャツを着始めているものまでいる。
そんな中、半澤はシャツの上から学校指定のカーディガンを羽織っていた。色は嚥脂。赤に近い色であることが半澤の身につける理由となっていた。
半澤は、爽やかスマイルが売りの少年だ。そんな定着したイメージを今更変えるつもりなんてない。……誰にも知られたくなかったのだ。自分がリストカットをしていることを。
自殺志願者、リストカットは差別的な目で見られる場合が多い。そういう目で見られるのが、半澤は怖かった。
だから、嚥脂のカーディガンを放さないでいる。手首を少しでも隠すように。周りからは特に何も言われない。「むしろさわくんはカーディガンのイメージ」と言われるくらいだ。世の中、わからないものだ。
さて、夏となると、やはり夏休みを跨いで行われる絵画コンクールというのが話題に挙がってくる。当然、美術部でも精鋭の花隣の名前が挙がると思っていたのだが。
美術の授業でのこと。
「夏休みに絵画展に出す絵を描きたいという人はいますか」
授業終わりの先生の問いかけに、誰も反応しなかった。半澤も当然のように、反応するつもりなどなかった。
ひそひそと話す声が聞こえた。女子だろうか、となんとなくそちらを見やると、女子のうち一人がにやっとして声を上げた。
「半澤くんがいいと思います」
「えっ」
驚く本人をよそに、女子は続けた。
「半澤くん、絵が上手いんですよ、先生」
「そうなんですか」
教師の目が半澤に向く。半澤は顔の前で手を横にぶんぶんと振った。
「ち、違うんです。僕のは美術的な絵じゃなくて、あの、その……」
「自由帳に描いてた絵、上手かったじゃん。あのキャラクターのやつ」
「あれはイラストで」
「イラストと絵って何か違うっけ」
「違いますよ」
芸術は嗜好品であり、イラストは大衆向けのポップなものだ。半澤はそう考えている。
故に、イラストと美術で習う絵は違う。
だが、それに納得しない声が上がった。
「半澤くん、風景画も描いてましたよ」
「そ、園崎さん」
誰よりも絵が上手いはずの花隣が目をかけたとあっては誰も黙ってはいない。
「そのちゃんが絵を褒めるなんて相当だよ」
褒められているわけではないと思うが。
園崎は淡々と説明する。
「鉛筆絵なのに、色がついて見えるんです。繊細な色使いができるんじゃないかと思います」
「えー、さわくんすごいじゃん」
「いや……」
花隣の冷静な声が痛い。怖い。中学時代のあの一件以来、誰かに自分が作ったものを見せるのは恐怖でしかなかった。評価されるのが怖いのだ。
ただ、あの絵も既に花隣を傷つけているのにはちがいないが……
「半澤くん、今度、何か描いてきてくれないかな」
教師までそう言い出す始末。半澤は俯き、嗚咽を飲み込む。……こんなの、嫌だ。
「僕は」
掠れた声が教室の中に落ちる。
半澤は意を決して言った。
「僕は、描きたくありません。こういうのは本来、生徒の自主性を重んじるはずですよね? だったら、僕じゃなく、描きたい人が描くべきです」
半澤の意見に教師がうーん、と唸る。期待していた生徒たちからはえー、とブーイングが巻き起こる。それをいちいち気にしていたのでは、話にならない。
半澤ははっきりと、嫌です、と告げた。
「僕が絵を描くのなんて、授業だけで懲り懲りです」
「……まあ、そこまで言うのなら、無理強いするのもよくないでしょう」
教師が頷くと、半澤はこくりと頷いて、俯いた。教師の目線は、後方の花隣に投げかけられる。
花隣は真っ直ぐ教師と目を合わせ、頷いた。
「私は美術部なので、出そうとは思っています」
教師が大きく頷いた。
「まあ、このクラスの代表は園崎さんでかまわないでしょう。半澤くん、大丈夫ですか」
「……はい」
半澤は俯いたまま、顔を上げようとはしなかった。
終業のベルが鳴り、生徒たちは先程のことなど忘れてしまったかのように授業からの解放感に身を委ね、教室を出ていく。
半澤はその人混みに紛れる気にはならず、最後尾にちょん、とついて、教室を出る。
憂鬱だった。花隣が半澤の絵のことを話題に出した理由はわかる。当てこすりだ。半澤と実力比べをしたかったのかもしれない。半澤と絵で勝負して、自分の実力を確かなものだと証明したかったのだろう。半澤からすれば、そんなことしなくたって、花隣の絵の腕は本物だと思うのだが。
それに、半澤と花隣では、元々の土俵が違う。絵と写真だ。それを比べるのはよくないことだと思う。花隣が「写真はありのままを写すもの、絵は心を写すもの」という信念を掲げているのなら、尚更。写真と絵を比べてはいけないのだ。
誰にでも、負けたくないことの一つや二つはある。それが花隣にとっては絵なのだろう。花隣の信念から取るなら、半澤の絵はその信念にそぐうものなのだろう。だから、負けたくないなんて思うのだ。
けれど、やはり土台が違う。写真を見つめ続けてきた半澤と、絵に向き合い続けてきた花隣とでは根本が違うのだ。
半澤は花隣を傷つけたくなかった。だというのに、花隣は自ら傷つきにいこうとする。それが花隣と半澤の擦れ違いで、噛み合わない一線だ。
けれど、少し考えればわかりそうなものだが……
教室に戻る最中、手首を掴まれる。半澤にそんなことをするのは美好くらいなものなので、びっくりした。
振り向くと、花隣の強気な目がそこにあった。
「さわくん、逃げたでしょ」
逃げという言葉が胸に突き刺さる。
けれど、半澤とて言いたいことがあった。
「あれは逃げたんじゃないよ。僕はコンクールとかそんなところで持て囃されたり、褒めそやされたりしたいわけじゃないんだ。絵は本当になんとなく描いているだけ。趣味の領域から逸脱したところに行きたくなかったんだ」
それを聞き、花隣が俯く。
「……あんなに」
低い声で紡がれたのは恨みがましい言葉だった。
「あんなに綺麗な絵を描いておいて、何を言うの? 趣味から逸脱したくない? 自分勝手すぎるよ。私があの絵を見ただけで、どれだけの敗北感を覚えたか、あなたにはわからないでしょう」
花隣の強気な言葉に半澤も黙ってはいない。
「僕は絵に青春をかけようなんて、これっぽっちも思っていないんだ。僕の中で大切なのは、写真だよ」
花隣の意気に釣られて思わず本音をこぼしてしまった。あまり知られたくない事実だというのに、言ってしまった。
花隣が意外そうに目を見開く。
「さわくん、写真撮るんだっけ」
「……そうだよ」
今更引き下がれないので、開き直る。
「僕はね、写真が好きなんだ。絵を描くのは気紛れ。写真はいつも撮りたい。それくらい好き。デジカメだって、持ってるんだよ。……僕は園崎さんと同じ土俵に立つつもりはないし、立てないよ」
花隣が視線を落とす。
「そこまで言い切るのね」
それから顔を上げると、今度は真っ直ぐ半澤を見た。
「なら、わかった」
ただし、と付け加える。
「私がさわくんの絵を警戒しているのは変わらない事実だから、忘れないでね」
半澤は軽く唇を噛んで、顎を引いた。




