写真への苦悩
昇降口に向かうと、何人か見覚えのある顔が待ち伏せていた。
半澤の顔がひきつり、一歩、後退った。
「……なんで、あなたたちがいるんですか」
それは中学のときも一緒だった、写真部の先輩だ。半澤にとってはトラウマに等しい存在である。
「半澤、おれたちと一緒にまた写真を撮ろう」
「その件は何度もお断りしたはずです」
「あのときのことは悪かった。おれたちは……」
「言い訳なんていりません。別に僕はあなたたちに怒りを抱いているわけではありません」
「だったら一緒に」
すがりついてくる先輩たちから顔を思い切り背ける。その表情は今にも泣き出しそうに歪んでいた。
この人たちから写真を撮るという言葉を聞きたくなかった。自分から写真を撮ることへの希望を失わせたのは、紛れもない、この人たちだ。──写真部の先輩たちは、中学時代、半澤が父から譲り受けた大切なカメラを壊した。故意にだ。それから、半澤が撮った写真を最悪だと評し、半澤自身も自分の写真を認められなくなった。もう人様の前に出せるような代物ではなくなった、と、半澤は人前で写真を撮るのを控えるようになった。それでも撮っていることはあるが。
先輩たちは、あのときは半澤の才能に嫉妬してあんな行動に出たのだという。半澤は決して、怒っているわけではない。ただ、怖いのだ。自分の撮った写真が誰かを傷つけるかもしれないということが。
実際、誰より半澤自身が傷ついた。自分の写真の醜さから、リストカットを始めるくらいには。
それでも半澤がカメラを手放せないのは、写真を撮るという行為そのものが父との思い出で、どうしたって簡単に手放せるものではないからだ。
佳代には根っからの写真好きなところが父に似ていると言われていて、それを誇りにすら思っている。半澤にとって、父という存在はそれだけ大きいのだ。母は顔も知らないうちに死んでしまったらしいから、半澤にとって家族は父ただ一人なのである。それは今共に暮らしている新田家とどこか距離が開いてしまう理由でもある。
同じ屋根の下で暮らしていても、どう足掻いたって血の繋がりは発生しない。そんな現実がただそこにある。だから半澤は新田家には馴染めないのだ。
「だが、写真が好きなのは変わっていないんだろう? だったらおれたちと」
「誰が」
ふつふつと沸き立つものが半澤の中に生まれた。
何をのうのうと、写真が好きなのは変わらないと語れるのだろうか。
「誰が僕から写真を引き剥がしたんですか」
それは怒りとも呼べた。半澤の静かなる怒り。だが、怒りというよりは嘆きの方が近い。
以前にはデジカメを学校に持ってきていた半澤を寄ってたかって責め立てた。それは紛れもないこの人たちだ。それが今更掌を返して、今度は一緒に写真を撮りたいと? ──どう受け止めろというのだ。
手首を切るほどに半澤は苦しんだ。いくら大好きな写真を撮っても笑えない日々が続いた。美好という救いが現れてからはいくらか楽になった。けれど、この人たちを前にして、写真の話をするのは苦行以外の何でもない。
「僕は、僕は、写真が好きですよ。今も、昔も、これからも、きっとずっと好きなままです。誰に貶されたって、傷つけられたって、僕が写真を好きなのは一生変わらない現実です。でも、でも、僕はもう人に見せるための写真は撮らない。撮りたくない。そう思わせたのは誰ですか? ──他でもない、あなたたちじゃありませんか。……僕はあなたたちと一緒には写真を撮ることはできません。あなたたちが僕をそうしたんです。だからもう、放っておいてください」
これ以上の言葉はない。交わしたくもない。早く視界から消したくて、下駄箱から乱雑に靴を取り出し、上靴を仕舞った。それから、写真部の一同を一顧だにせず、半澤は足早に学校を出た。
苦しい。苦しい。苦しい。もう死んでしまいたい。あんな風にこれからもつきまとわれるくらいなら、自分という存在がこの世から消え去ってしまうのが一番早いような気がしてきた。頭ががんがんと痛む。もう、嫌だ。
嫌だと何度も言っているのに、何故あの人たちがこんなにもしつこいのかわからない。突き放したのはあちらだろうに。
自転車が和気藹々と喋りながらこちらに向かってくる。半澤の姿には気づいていないようだ。半澤は避ける気も起こらなくて、そのまま歩いていた。
ごっ、と鈍い音がする。自転車に撥ね飛ばされる半澤。自転車の一同は一旦止まり、それからぎょっとしたように半澤を見つめ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。謝罪の言葉などない。教育のなっていない中学生だ。だが、半澤はそんなことは気にせず、ゆらりと起き上がる。
痛む体を引きずりながら歩いていく。ふと、毎日転んで怪我する美好のことが頭をよぎった。いつも、こんな痛みを抱えながら歩いているのだろうか。
半澤は痛みなんて今更どうでもよかった。どうせこれから家に帰ればリストカットをするのだ。リストカットの痛みは心を落ち着けてくれる。単に頭から血が抜けるだけかもしれないが、半澤はそれでいいと思っていた。
消えたい。死にたい。消えたい。
そればかりが頭の中でぐるぐると渦巻く。死んだら、楽になれるだろうか。
「死ぬな」
美好の声が耳元で響いた気がした。
「そういえば、僕にそんなことを言ってくれるのは、海道くんだけだな」
他の誰も、半澤がこれほどまでに追い込まれていることを知らない。知ったところで、心からそうやって止めてくれる人間などいるのだろうか。
交差点に差し掛かると、信号は赤色だった。向こうからものすごい勢いで大型トラックが走ってくる。今、道路に飛び出せば、死ねるかもしれない。リストカットなんて面倒なことをしなくても……あの謎の包帯を生み出す不気味な血を流さなくても、その加護を受ける前に簡単に死ねるのではないだろうか。なんて名案だろう。半澤は視界が開けたような心地がした。
トラックは信号が青だから、止まる気のないスピードでかっ飛ばしている。今なら……
半澤は一歩、踏み出そうとした。
そのとき。
ずきん、と左手首に走る痛み。思わず踏み出しかけた足を後ろに退いて、たたらを踏むような形になり、尻餅をついた。周りには誰もいない。だが、確かに手を引いて止められたような気がした。
「……海道くん……」
握られていないのに、その体温を感じるような気がした。
「死ぬな」
そう言われているような気がした。
じわり、と涙が溢れてくる。
そこにいるはずはないのに、半澤はどんなに離れていてもやはり、美好の存在に支えられているのだ。
それを実感して、半澤はその場に崩れ、嗚咽した。
「海道くん、海道くん……」
一緒に帰ればよかった。傍にいてほしかった。それなのにそれを振り切ってきてしまった自分の愚かしさを呪った。
信号が青に変わる。けれど、半澤はその場に踞ったまま動けなくなっていた。
「海道くん、ひどいよ。でも、優しいよ。苦しいよ。ねぇ、僕はどうすればいいの……」
誰も答えない問いかけが雑踏の中に掻き消された。




