ループする世界にて
──果てしなく続く空は、どこまでもどこまでも青かった──
「痛みなんてそんなもの、空想の産物に過ぎないのです」
「先生、では何故、痛みという言葉が存在するんですか?」
「いい質問だね。実はね、この幸福な世界に生まれたのに、『痛み』という妄想病に取り憑かれてしまった少年が一人いるんですよ……」
だんっ、と煉瓦の壁を叩く音。
「るさいっ!」
あまり語調がよろしくなく、建物から聞こえてくる授業とおぼしき内容を否定する声。
拳は微かに震え、苛立ちを表している。──怒り。幸福なこの世界にあってはならない感情である。
整った黒髪の下から、紫の目がゆらりと燃え立つように揺れる。そこには怒りが燃えていた。だが、彼はその怒りを煉瓦の壁にぶつけても、人にはぶつけない。それが無駄であると知っているからだ。
幸福なこの世界。そこには怒り、悲しみ、憎しみ、戦争、王国、独裁、不運、神、心配──それから、痛みが存在しなかった。
この世界は幸福で幸福でないものは存在しない。それがこの世界の謂れであり、教えである。今、建物の中で大人が子どもに教えている通り、痛みという言葉が妄想という言葉で片付けられるほど、この世界は「幸福」で満ちていた。
少年が怒っていたのは、彼が世界で唯一痛みを感じる「可哀想な子ども」だからではなく、痛みを否定されているからではなく、──これが何度も何度も繰り返されているからである。
少年が生まれて十五年、きっかり。それくらいの時間が経つと、この世界はこの少年が生まれる頃に巻き戻る。少年だけが何故だかその事実を知っている。記憶を持ったまま、巻き戻されるのだ。
少年はこれをもう、何百回、何千回、はたまた何万回も繰り返しているのかもしれない。両の手で足りなくなった時点で数えるのはもうやめた。痛みと同様、他者と共有できないものを数えるのは無意味だと、何十回目かで悟ったのだ。
最初は、両親に言ったりもした。だが、周囲はそれを戯れ言と唾棄した。両親すらも信じなかった。医者にかからせられたくらいだ。
少年は自分の知識や記憶は病気でもなければ、幻でもないことを自覚していた。だが、それをこの世界の誰もがわかってくれないのだ。
学校を離れて、商店街に出る。商店街というのもおかしいか。この幸福な世界には金銭という概念も存在しない。損得感情くらいは申し訳程度にあるようだが。商店街には日用品から雑貨まで、様々なものがある。だが、それは金銭で取引されるのではなく、物々交換や善意で譲るという行為で成り立っている。……異常だと思う。
価値観なんて人それぞれのはずなのに、価値観すら統一されて、欲しいものは対価を払えば手に入る。そんなご都合主義な世界があっていいものか、と少年は思うが、今現在現実としてそこにあるのだから仕方ない。ショーウィンドウの鳥の羽ばたく姿をモチーフにした飾りがあった。今にも飛び立ちそうな臨場感。少年はふと、その飾り物の鳥がもし飾り物でなかったら飛び立つであろう空に目をやった。
雲が少なく、胸の透くような青が広がる空。それがこの世界の基本的な天候で、変わることは滅多にない。曇りや雨も不幸を連想させるものだから少ないのかもしれない。
胸の透くような空の青が少年の目に染みた。胸がじくじくと痛んで、思わず胸元を押さえる。この世界の他の誰もが感じない痛みが、少年の中にだけはあった。
何故、青空を見ると胸が痛くなるのかわからない。どうしようもなく苦しい。……あの空が、恋しいのかもしれない。
少年は繰り返し続けるこの世界をループと呼んでいる。もっとも、そう呼ぶのは少年だけだ。……この終わりのないループをいつまで続けなければならないのか、と思いを馳せる。その解答は道端には転がっていない。
だが、時に思う。もし、ショーウィンドウの鳥のように空に羽ばたくことができて、あの青い空の向こう側に行けるとしたら、もしかしたら、このループから脱出できるのではないか。
けれど、残念なことに、人間に空を飛ぶための翼はない。そもそもこの世界の人間はこの世界を幸福だと満足している。他の世界に行こうだなんて、突飛なことは考えないだろう。
はあ、と溜め息を吐き、少年はショーウィンドウに目を戻す。すると、そこには、赤毛にハットを被ったボサボサ頭のピエロの人形が置かれていた。
それを認識し、少年は呟く。
「ああ、そろそろなんだな」
赤毛のピエロの人形は、少年が世界ごとループする前兆のように少年の前に現れる。少年の齢は十四。もうすぐあのループする十五歳のときがやってくるのだ。ピエロ人形には罪はないが、その人形を見つけるたびに、少年は憂鬱に苛まれる。またか、と思う。憂鬱。それもまた不幸な感情で、幸福なこの世界にはあってはならない感情だった。
既に数えきれないほど、この世界をループしている少年は諦めと共に、憂鬱を飲み込んだ。
世界はまた、繰り返されるのだ。幸福な世界の中で異端である自分を取り残して。
少年はショーウィンドウのピエロ人形に目をやった。
「お前には、いつも会うな」
特に意味のない言葉を残して、少年はその場を去った。
あの人形が現れたということは、少年の十五歳の誕生日は近い。というか、明日だ。
家に帰り、自室から夜になった空を見上げる。深い闇の中に青を孕んだ空。その中に、星が満天にちりばめられていた。
胸が痛い。何故空はこんなにも胸の痛みをもたらすのか。ただ一つ思うのは、これがループ前の最後の空なんだな、ということ。
眠って、目覚めたら、またループしているのだろうか。また痛みを感じるのだろうか。
少年は心の中で葛藤していた。幸福なこの世界に違和感を抱く自分と、もういっそ、この世界に馴染むふりをしてしまえばいいのではないかという自分が混在している。
だが、少年は馴染むことを選ばなかった。
間違っているような気がしたのだ。
世界からすれば、少年が世界の矛盾を抱えているように見えるだろう。だが、少年からしたら、矛盾しているのは世界の方だ。
幸福な世界、幸福な世界、とは言っているが、では不幸と思われることがない世界というのは、果たして、幸福な世界なのだろうか。
光には影があって、影は光がなければできないけれど、逆に、影がなければ光の存在を肯定することもできないのだ。
そういう点で考えると、この世界は光にばかり満ち溢れ、影のない不自然な世界のような気がする。……まあ、そんなことを説いても、この世界の人々は「幸福」に満ち溢れたこの世界に何の疑問も抱かない。先程の授業だってそうだ。幼少から、この世界には不幸は存在しない、あるのは幸福だけだ、と一種の洗脳を受けているようなものだ。大人は洗脳しているつもりなど、微塵もないだろうが。
少年は薄々気づいている。この世界において、自分は異端なのだと。痛みを感じ、この世界にはあってはならないあらゆるものを知っている。教えられたわけでもない。ただただ知っているのだ。
だが、何をどうすればいいのだろうか、と考えながら、少年は布団にくるまって眠った。