絆されてゆく
後日談。
仕事から帰った慶次は、自宅の前に立って少しばかり気怠そうに鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。
ガチリ。
鍵を摘んだ指先を90度左に回し、右に同じだけ回してからそっと鍵穴から引き抜く。
キーケースを仕事カバンの定位置にしまい込み、家のドアノブに手を掛け扉を開ける。
長年変わらぬいつもの自分の行動と、その先に見えるいつもの光景に混じる、最近『いつも通りになったもの』。
「慶次さんおかえり。今日もお疲れ様、お仕事どうだった?ご飯そろそろできるけど、お風呂とご飯、どっちが先がいい?」
「…ただいま。ご飯がいい」
「わかった。急いで仕上げるね」
家の中から履いたスリッパをぱたりぱたりと鳴らしながら出てきて慶次に声を掛けたのは、エプロンを身につけた一回り以上年下の、今ではしっかり慶次の恋人をしている祐一だった。
初めて交わった"あの日"の翌日のこと。
起きた直後の慶次の脳は、いろいろと情報が詰め込まれ混乱していたせいか、それとも祐一の美しい笑顔に絆されていたのか、『祐一と恋人になる』ということに対して少し前向きに考えてしまっていたのだが。
混乱がある程度おさまったところで、まあ腹も減っただろうと差し出された祐一の作った粥をいただきながら、彼の身の上を聞いた。
その中で慶次にとって無視できない点があった。
祐一はまだ大学生だったのだ。
まず思ったのは「まだ学生である祐一となんてことを」。
次に考えたのは「社会人と学生が恋人同士だなんて」。
焦った慶次は動かない身体に鞭を打ち、引き止める祐一を無視し、一目散に家に帰った。
そして祐一の家近辺、つまりあの夜二人が出会ったあたりにさえ近づかなければいつか縁も切れると思った慶次は、それ以降あの付近に立ち寄ろうとしなかった。
もう二度と、会うつもりはなかったのだ。
しかしその翌週の金曜日。
会社の社内電話で受付から「知り合いという男性が…」と入り、会社の受付まで向かってみれば、そこにはあの夜と同じ綺麗な笑顔を浮かべ、こちらを見つめる祐一がいた。
「名刺、一枚もらった!会ってくれなさそうだから俺から会いにきたんだぁ」
語尾を甘ったるく伸ばし、たしかに名刺を見せつけながらこちらに擦り寄る祐一に受付の女性の困惑が酷くなったのを見てつい「親戚なんです」と言ってしまったが、正解だったのかそうでないのか。
そのときの受付嬢の顔は、到底信じられないと語っているかのようだった。
あまりにも似てなさすぎるのに、無理があった。
それを横目に、とりあえずあとで会おうと一言告げ、祐一を会社から追い出し仕事に戻ろうとすれば、祐一は慶次の両手を握ってこう言った。
「絶対、迎えにくるから」
真剣な目で見つめられ、どこかがきゅん、としたような気がしたが気のせいだと思いたい慶次は、曖昧な笑みを浮かべ頷いた。
にこりと笑って手を離した祐一が会社から出て行くのを見送ったが、そういえば連絡先も知らないと思ったところで手の中にある紙切れに気づいた。
書いてあるのは11桁の数字、ああなるほど、電話番号かと合点がいき、そして呆れる。
なんと用意周到なことか。
逃げたことが余程堪えたのだと気づいてため息を一つ落とす。
慶次は順調に絆されていく自分に気づきつつ、大人しく仕事に戻った。
単純すぎる自分にはため息すらでやしない。
仕事が終え、会社を出たところで電話をかけてみるとワンコールで祐一は電話に出た。
ひょっとして彼は携帯を握り締めて待っていたのか、と自然とこぼれた苦笑いはそのままに、「今会社を出た」と伝えると、「今から行くから少し待ってて」と返ってきた。
少し?どのくらいのことなんだ、と首を捻ったところで声が掛かり、その方へ向けば祐一がいた。
もしかして近くでずっと待っていたのかもしれない。
笑顔でお疲れ様と声を掛けられ、くすぐったさを感じた慶次は、帰るぞとひとことかけて家路を急いだ。
「上がってもいいの?」
慶次の家に着くと、今更何を気にするというのか祐一は慶次の家に上がるのを躊躇っていた。
慶次がひとこといいから早く上がれと言ってやれば、嬉しそうな顔をしていそいそと靴を脱いでついてくる。
身体は大きいが、後ろを嬉しそうにちょこちょこ付いてくる様はまるで小動物だ。
先日の獣のような雰囲気は皆無で、実はあれは幻だったかのようにすら思えてくるのだが、彼が今ここにいることが証明になるだろう。
彼がここにいるのは慶次と恋人だからであり、恋人になったのはあの日2人が寝たからであり、そしてあの日2人が寝たのはあの日の夜2人が出会ったからであり、出会ったのは…そうだ、自分が酒に酔っていたからなのだ。
酒は飲んでも飲まれるな、なんてよく言ったものだ。
2人は慶次の家の一室で向かい合って座り、そして朝まで話し合った結果、しっかりと恋人になったのだった。
祐一が頑として引かず、泣き落とそうとまでしてきたので慶次が渋々妥協したというのは伏せられるべき事実である。
それからというもの。
祐一は健気に慶次の気を引こうとした。
毎日メールをしてきたり。
ある日は慶次の仕事が終わる頃に会社近くまで来て一緒に慶次の家に帰ろうとしたり。
慶次の家に泊まった日は必ず手料理を振る舞ったり。
例の小動物のような可愛らしさで合鍵が欲しいと強請ったり。
合鍵を与えたあとは、家事をしながら慶次の帰りを待っていたり。
祐一が家にいることが多くなり、生活の中に祐一がいることが当たり前になっていった。
それと同時に慶次の家には祐一の私物が増えていった。
最初は寝間着だった。
次には歯ブラシだった。
続いて下着、洋服、携帯の充電器、寝具など。
気付いたときにはもう遅すぎた。
祐一は慶次の家に完全に住みついていた。
慶次の知らぬ間に祐一は借りていた家を出ており、慶次の家の同居人になってしまっていたのだった。
追い出すにも、さっさと借家も解約した、行く宛などないと言うから。
そう、仕方なく慶次は彼を家に置いてやっているだけで。
はじめはそう思っていたのだが、今では祐一がいない生活は考えられなくなっていた。
家に帰れば美味い飯がある。
家に帰れば洗濯も掃除も終えた素晴らしい部屋が待っている。
そして。
家に帰れば、優しくてあたたかいことばと笑顔に迎えられる。
いつから触れていなかっただろうか。
慶次はどうやら人の温もりに、自分が思っていた以上に飢えていたらしい。
それは慶次にのみ与えられ、そして甘い毒のようにやさしく慶次を飲み込んでゆったりと溶かしていった。
慶次は悟る。
もう、この温もりを自分から手放すことはできない。
たとえこれがどんなものであったとしても。
「ゆう」
「なぁに慶次さん」
「明日は唐揚げが食べたい」
「…いいね、おれ、明日も頑張るね」
「頼んだ」
祐一のふにゃりとした笑顔がおれの脳味噌をどろりと溶かしていくのを感じた。
そもそもおれは自分が交際に関して"彼がまだ学生だから"ということでしか拒んでいなかったのだと気づくことはない。
男の子だからとか、どこが嫌だとか、彼自身を拒むことは言ってないんですよね、ということで。
ありがとうございました。