お嬢様 vs 使用人四天王
広い邸宅の一室で、私はうんざりしていた。
もう十日近く外に出ていない。それというのも両親が私の外出を禁じたからだ。
これ以上家の中にいたら私は腐ってしまう。そうなれば私は怪奇事件の渦中の人物として世間を騒がせるだろう。
お母様は頑なに私を家で大人しくするよう言うし、お父様は仕事しか興味がない。お兄様は話が長いので顔を合わせないようにしているからよくわからないが、きっと外出したいと言う私を長口上で窘めるだろう。
とにもかくにも私は、家に篭もりきりの日々に鬱憤が溜まっていた。
もういい、逃げてやる。こうなったら脱出よ。
「さあ、逃げるわよー」
さっそく部屋から出ようと、ドアノブに手をかけた。
その瞬間、この世で最も恐ろしい感触に悲鳴を上げた。
「ひぎゃうわあああああ」
よく見ると、ドアノブはぬるぬる、ねばねばとした何かの液体で濡れていた。それを掴んだ私の手は、当然ぬるぬる地獄。
あまりの苦痛で、その場に蹲る。
三度の飯抜きよりもぬるぬるが嫌いな私には、痛恨の一撃だった。いつもならここで諦めるところだが、今日の私は一味違う。
ドアノブと手を丹念に拭いてから、そっとドアを開けた。
人の気配を確認する。よし、ない。
私は一気に駆け出した。計画なんて洒落臭い、ここは力尽くで押し通す。
「あ、お嬢様! また壁や天井をカサカサ這おうとしてるんですか!」
しまった、早くも侍女に見つかった。こうなっては仕方ない、彼女にはしばらくじっとしていてもらおう。
「お嬢様アタック!」
「ぎゃあっ」
私はすかさずメイドに体当たりした。
「くっ……なかなかいい一発で、す……」
「ごめんね」
最初の障害はなんとか乗り越えた。早く脱出しないと。
それにしてもこの靴走りにくいなあ。もっといいのないのかなあ。
「どこへ行くというのです?」
その声に私ははっと顔を上げた。
そこには四人の使用人たちが待ち構えていた。男女二人ずつ、そのどれもが私の知った顔である。
この人たち暇なの?
「ふっふっふっ、この屋敷から抜け出そうなんて甘い。ここは私たち使用人四天王が守っているですから」
「し、使用人四天王……!?」
強そう。かっこいい。
だが私もここで引き下がる気など毛頭ない。
「いいでしょう、四天王よ。おめおめあなたがたにやられるほど、私の覚悟は半端なものではないわ」
「威勢のいいお嬢さんですね、くっくっくっ。さあて、いつまで虚勢を張ってられ」
「お嬢様アタック改!!」
私は、有り余る力を込め、先頭に立つ使用人の頬を平手打ちした。
「ひん!」
犬のような声を上げ、使用人その一は呆気なく倒れた。
「うわああ、四天王の一人が!」
「なんて女だ!」
「安いよ安いよ! 今なら安いよ!」
残る三人は怒りの叫びと共に、私へはっきりと敵意の眼差しを向ける。
「一人倒したくらいでいい気になるんじゃないわよ!」
「我々三人が本当の恐ろしさを教えてやる!」
「安いよ安いよ! 今なら安いよ!」
なかなかの迫力だ。
私が息を呑んで佇んでいると、三人のうちの一人、若い女が前に出た。
「まずは私よ。──私は洗濯娘のアリエール」
「洗濯娘のアリエール……!?」
前半部分は初めて聞いた。
「驚いたか。そうだ。星の数ほどの汚れを落とし、彼女に落とせぬ汚れはないと言われた、あの洗濯娘アリエールだ」
そうなんだ。
家庭的な攻撃力に敵ながら感心する。いやあ、ご立派!
「私の技を見て、恐怖に慄くがいいわ……奥義! 高速洗い!」
彼女は足元にある桶の中で、その洗練された技を私に見せつけた。
次々と洗われる衣類たち。黄ばみや黒ずみが、あっと言う間に消えていき、真っ白な存在に生まれ変わる。
これが、洗濯娘アリエールの力……!
「ふっふっふっ、さあ、これに敵う者が果たしているかしら」
不敵に笑うアリエール。
思わず、悔しさに歯噛みする。
この強敵を打破するには一体どうすれば……。
……そうだ。
彼女の強みは、この洗濯後の美しさ。
ならば!
「ふん!」
私は真っ白に洗われた衣類を奪った。
そして、困惑するアリエールを横目に、それで壁を拭いた。
「な、何を……!」
驚きに目を見張るアリエールから、更に洗濯後の衣類を奪う。今度は床を拭いた。
「わ、私がせっかく洗った物を……」
わなわなと震えた彼女は、壁に縋って、何とか立っていたが、
「ほーらご覧なさい、もうこんなに真っ黒。おほほほ」
私が床や壁を拭いたそれの汚れを見せた途端、彼女から全ての力が消えた。
「……ぐはっ」
戦意喪失したアリエールは、とうとう地面に伏せた。
「あっアリエール!」
四天王仲間が倒れたアリエールに駆け寄る。
「起きてアタック!」
「そんなっ、嘘だろトップ!」
「負けないでボールド!」
「……あ、アリ、エール、だから……」
倒れた彼女はもう完全な敗者であった。
「こんな、反撃……ありえない、わよ……」
その台詞を最後に、アリエールは力を手放す。
「そ、そんな……あのアリエールが……」
「大したことないわね洗剤も」
「許さぬ……絶対に許さぬ……」
アリエールの元へ真っ先に駆け寄った男が、深い恨みの声を漏らす。
「私の奥義を見てただでいられるとは思うなよ! 秘技! 食器磨き!!」
近くにあったワゴンから食器を手に取った男は、それを磨き出した。
「ま、眩しい……っ」
堪えきれず目を閉じるが、光は強くなるばかり。
このままでは負けてしまう……!
「お、お嬢様ドロップ!」
私は無我夢中でワゴンの上にあった食器を、床に叩き落とした。
落ちたそれは音を立てて割れ、散らばるのは鋭利な残骸だけであった。
「だ、旦那様たちの食器が……かふっ」
食器磨き男はあまりの衝撃に口から血を吐き出し、アリエールの隣に倒れた。
なんとか勝った。
安堵する私の前で、男が哀しみに顔を歪ませながら苦しげに言う。
「すまないアリエール……せめて私が、お前の敵を取ろうと思ったのに……これでは、いつまでたっても父親を名乗ることはできないな……」
「お、お父さん……?」
アリエールが震える声で問うた。
「アリエール、まだ意識が……!?」
「お父さん、なの……? 五歳のときに行方をくらませた、お父さん……」
なんということか。
この二人は、アリエールが幼い頃に生き別れた親子だったのだ。衝撃の事実。そしてよりにもよって今ここで明かされるところにも驚いた。
「わ、わたし、ずっとあなたがお父さんだったらって考えてた……まさか、本当にお父さんだったなんて……」
「アリエール……」
そこにあったのは、驚きに勝る大いなる喜び。
よくわからないが、今私の目の前で親子の絆が強さを創り上げていた。
「えっと──よ、よかったね、再会できて。それじゃ」
私はこの隙に先を進もうとした。
が、一人の使用人が私の前に立ちはだかる。
そうだった。まだ一人残っていた。
敵はにやりと笑い、私に向かって挑戦的な言葉を叩きつける。
「安いよ安いよ……今なら安いよ……!」
この男、只者ではない。あらゆる者を圧倒する、この雰囲気。
一瞬たりとも気を抜けない。厳しい戦いになりそうだ。
「……あっ、お父様、いらしてたの!」
「えっ?」
彼は私の言葉に背後を振り返った。
今だ!
「おりゃあ!」
「ごふっ」
みぞおち目掛けて拳を入れると、敵はうめき声を上げたきり、動かなくなった。
かくして壮絶な試練は何とか終わりを迎えた。
その後私は見事脱出に成功したが、半日足らずで見つかり家に連れ戻された。
その陰で使用人たちは密かに次なる闘いを期待しているが、決してそれを口に出すことはなかったため、私がそれに気付くことはなかった。
(完)