第1話 道を拓いた先にあったもの
ハッ……と見開かれた男の目に、真っ白な天井が映った。
(ここは……?)
起き抜けのぼうっとした状態のまま、男はじっと天井を見つめている。
寝過ぎた時のように頭が重く、身体を動かせば、ギシッ……とベッドが小さく軋む。
手足頭に何かが巻かれており、ピッ……ピッ……と電子音が一定のリズムを刻んでいる。
――長い夢を見ていた
夢の内容はすぐに忘れると言うが、その夢だけは決して忘れることはないだろう。
それでなくとも、あれは現実に起ったことだ。
白い無機質な天井から目線を動かし、かろうじて見えたカレンダーに男は重い溜息を吐いた。
(また夏が来るな……)
自分は“三月十四日”に事故に遭い、ちょうど一カ月後に目が覚めた――。
全治何か月かの大怪我であるらしいが、目覚めた時には大きく治った状態であった。
その回復力は医者も目を見張るほどで『このペースなら退院も早いだろう』と言う。
鈍く重い瞼をシパシパとさせ、ベッドを軋ませながら、ゆっくりと身体を起こす。
質素な病室だ。室内にはベッドが三つ並び、その真ん中に自分は養生していた。
チェストテーブルがベッドの右脇に置かれており、ベージュ色の天板の上には『神室進次郎』と書かれたコップが置かれている。
その向こうには、白いカーテンで覆われたベッドが望む。
(そろそろ開いてくれてもいいものだけど……)
そこに居る人は、目覚めてから一度もお目にかかったことがない。
昼間浮かぶシルエットと、時折聞こえる小さな悲鳴のような声からして女だと分かる。
そしてその正体も――。
いい加減会いたい。進次郎はずっと考えていた作戦を決行すべく、枕元にあるボタンを押した。
すると、すぐに“彼専用”の女医が飛んでくる。
「――進次郎さん、どうされました!」
長く美しい金髪の彼女は目を輝かせ、やって来るなりカーテンをシャッと閉めた。
横の女が慌てて身を起こしたのか、ベッドが大きく軋む音がした。
「クリスティーナ――いつも思うんだけど、他の仕事はいいの?」
「もう! 私は外国人っぽいですけど、日本人って言ってるじゃないですかー」
そう言うと、ベッドに手をやり胸を強調するような姿勢で名札を見せる。
名札には【栗栖 汀奈】と書かれているのだが、名前部分が読めなかった。
「下の名前が読めない」
「――『くりす ていな』、ですよ」
「…………」
「……何か?」
彼女は不満気に唇を尖らせた。
「あ、安直ぅぅ……」
「……これから医療ミスしまーす。マスコミの前で深く陳謝しまーす」
「止めろよっ!? 洒落にならない職権乱用するんじゃないよっ!?」
「いいえ、脅迫です」
「より性質悪いわっ!?」
進次郎の前に悪戯な笑みを浮かべる女――彼女こそが、“クリスティーナ”であった。
本当の性格はこっちなのだろう。リーランドで会った時と同じ顔だが、そことは性格がまるで違っていた。
事故で瀕死の重体に陥っていた進次郎の治療にあたったのが彼女であり、またその直後にやって来た、“急患”の治療を行ったのも彼女なのである。
そして、“魂”を抜き取り、リーランドの“進次郎”を作ったのも彼女だろう。
「――で、“例の事件の通り魔”ってまだ捕まってないの?」
「みたいですね。被害者は身元不明の外国人……怖いです」
「ちょ、ちょっと!?」
クリスティーナは進次郎の股間に手を伸ばし、ゆっくりと撫で上げ始める。
人は彼女を『白衣の天使』と口を揃えるが、進次郎からすれば『悪意の堕天使』なのだ。
「私もこの凶器に刺されちゃいそうです」
「アホかっ!?」
彼女は、隙あらば進次郎を誘惑しようとしてくるのだ。
男にとってはありがたい“誘い“であるものの、彼女が何かをしようとした途端、隣から強烈な殺気が放たれるため、進次郎はいつ刺されるか分からない恐怖を覚えてしまう。
なので、いつもは拒否するのだが――。
「でもまぁ、今日ぐらいは“通り魔”でもいいか」
「あらあら、今度は私が逝かされちゃいそうですね。ふふっ」
大人二人の重さに、ギイィッ……とベッドが大きく軋みをあげた。
兎を捕らえた狼のように、クリスティーナの口元が妖しく歪む。
舌舐めずりした彼女が掛け布団をズラした時……隣のベッドのカーテンが開かれる音が部屋に響いた。
「…………」
進次郎のベッドを囲っているカーテンの隙間から、鋭く恐ろしい目が覗いている。
目だけで男を殺すとはこのことか。赤く長い髪の女の眼には、恐ろしいまでの殺意が込められていた。
「あら? 覗かれながらってものもいいですね、さっとズッポリやっちゃいましょうか」
「ズッポリいった瞬間に、ザックリいかれそうなんだけど……」
その女の左手には果物ナイフが握られ、刃がふるふると震えているのだ。
浮気したらどうなるか……進次郎は強く心に刻みつけた。
目的は達したが、クリスティーナの手は止まらず、ゆっくりと胸元を撫であげてゆく。
「く、クリスティーナ? 天岩戸は開いたし、もういいから」
「見られているぐらい、問題ないですよ。
ほら、向こうでやった時みたいに、ねっとりと――」
「やってない!? 絶対にやってな――クレアッ、そこで止まれッ!?」
そこに立っていた赤髪の女・クレアは、更に一歩踏み出していた。
「私、ここで、“この世界”の標語を勉強したんだよ。
『飛び出すな、“殺意”は急に止まれない』って――いい言葉だよね」
「違うっ!? 車だし、殺意持った車はあのクリアスだけでいいからっ!?」
すると今度はクレアの恐ろしい瞳が、唇を尖らせるクリスティーナに向けられた。
「これまで放置しておいて、今ごろ彼女面するの止めて貰えます?」
「アンタが『一ヶ月は行くな』って言ったんだろう!?
ほら、どいたどいた! しっ、しっ!」
進次郎の上に乗っかった猫を追い払うように、クレアは手を大きく振り掃った。
すると、クリスティーナは不満そうに眉を中央に寄せながらベッドを下りる。
「むう……仕方ないですね。
ですが、傷口開きますから、“激しい運動”はまだダメですよ?
特に進次郎さんはギリギリですし、ヤって死にかけても、次は助けませんよ」
クリスティーナはふんっ、と鼻を鳴らしながら荒々しくカーテンを直し、病室を後にした。
残されたのは半身起こした進次郎と、ナイフを握り締めたままのクレア――彼女はじっと進次郎を見下ろしている。
「やっぱりクレアだったか……」
「いると分かってて、泥棒猫とあんなことしようとしてたんだ?」
「さっきのは、お前を引き出すための芝居――待て、まずナイフを下ろせ!?」
クレアは顔を伏せ、すっとナイフをテーブルの上に置くや――がばっと進次郎に抱きついた。
「お、おいっ――」
「だって……だって、ずっと、ずっと会いたかったんだからっ!」
涙声のクレアに、進次郎は強く抱きしめ、互いを確かめ合うかのように唇を求めた。
“花とミツバチ”の間柄は変わっていないようだ。
病院着がはだけ、鎖骨が露わになってもクレア直そうともしなかった。猛禽類の爪のように互いの頭をしっかりと掴み、獣のような吐息を漏らしながら、唇を食むように求め続ける。
また進次郎も止めるつもりはなかった。彼女の目元にできた涙の筋を親指で拭いながら、離すまいと強く引き寄せ続けた。
・
・
・
求め合うのはキスだけに留まっていた。
もしクリスティーナに言われていなければ、あのまま肌と粘膜を触れ合わせていただろう。
彼女の言葉通り、身体は完全に回復していないのだ。
それは一緒のベッドに入っているクレアも、身体に残る痛々しい紫の痣や傷跡に顔を曇らせ、言葉を失ってしまったほどである。
「……治るまで、しばらくかかるのかい?」
「骨折やら大きなのは治ってるらしいから、後はこの打ち身と内蔵系だけだな」
「そう……」
クレアは少しでも早く治ることを祈るように、そっと傷痕を撫でた。
傷以外の身体も元に戻っていない。それは、男にとって嬉しい“誤算”のままである。
クレアの肩の刺傷も薄っすらと残るようだが、『アンタの面倒を見た勲章だよ』とカラカラと笑った。
「――で、どうだ? “こっちの世界”は」
「うーん……今のところ半分後悔、ってところだね。
血管に針や管を通して、液体を流し込むとか……未だに怖くてたまらないよ……。
食事もあまり美味しくないし、リュンカのところに比べたら辛気くさいし……」
「ま、それが病院だからな……。
だけど、医療系が発達したおかげで、この国のジジババがやたら長生きなんだぞ」
「ふふ、それならアンタと末永く一緒にいられそうだね。
ああそうだ、アンタが目が覚めたら聞こうかと思っていたんだけど……」
「ん、なんだ?」
「あの黒い板って、アンタの部屋にあったのと同じやつかい……?」
「黒い板……?」
クレアが恐る恐る指差したそこには、小さめの液晶テレビが置かれていた。
どうしてかと尋ねると、どうやらそこに映る世界が、“さまざまな世界を映す果実”のように見え、怖くなってしまったらしい。
「まぁ、『世界中に繋がっている』ってのは、あながち間違いでもないけどな。
とは言っても、“この世界”だけ――流石にクレアの居た“世界”までは映さないぞ」
「え……だ、だって、前に見た時……リーランド城が映ってたよ?
鳥の目で見ているように、空から……ひっきりなしにそれやってたから、間違いないよ」
「ははっ、まさか。ドイツとか、ヨーロッパ圏の国の特集とかだろう?」
進次郎は『目覚めてからテレビ見てないな』と、リモコンのスイッチを入れた。
パッと明るい光が灯ると、すぐさま灰色の枠に色鮮やかな“世界”が描かれる。
『先日、突如として太平洋側に現れた島についての続報です。
調査に向かった米軍の調査船が拿捕され、その時の映像が公開されました。
ここに映っているのは巨大な金属生命体と推測され、拿捕した船の他に各国の戦闘機も見受けられ――』
『島の名は【リーランド】と呼ばれ、文明レベルは中世前後かと推定されます。
先日、イケメン王子ことエミリオ国王との熱愛が報じられたスウェーデン人女性、シルヴィ――』
『ご覧ください! 可愛らしい二足歩行のワンちゃんたちが集まって来ています!
そして空想の生き物とされてきた《ケンタウロス》までいますよ!
わぁー、イケメン・マッチョとの噂の通り――』
『島からやって来た毛むくじゃらの男は、『プラスチック』とやらの作り方を教えろと警察署に乗り込み――』
『先日、女子高に侵入し捕えられた男は、このリーランド島の出かと思われ、『我が理想郷!』と叫んだのち、生徒と警備員と娘らしき女の子に袋叩きにされ――』
『犬の種族のリーダーが着ている着ぐるみは、警視庁が処分したはずのピーポー――』
『Youは何しに――』
進次郎はテレビの電源を切ると、クレアを抱き寄せて目を閉じた。
「し、しっかりするんだよ!? ここは現実、現実だからねっ!?」
「嫌だっ、信じたくないっ!?
これがクリアスの最終目的だったのか、なんて考えたくないっ!
あいつは<巨神兵>、《コボルド》、《ケンタウロス》、ドワーフその他もろもろを使い、最終的にここ“日本”を乗っ取ろうとしてるかもなんて考えたくないっ!」
「な、何だってえッ!?」
「あいつ……日本語も読めるし、戦争でも戦力温存してたし、おかしいと思ったんだよ……」
クレアも何か思い当たることがあったのか、急に蒼ざめ始めた。
「も、もしかして、私があの入口の前に【横断歩道】描いたのが原因……かい?」
「いや、俺が帰るために用意しろって言われたカードだ。
落ちたシールの光を道標に……クリアスに思い知らせたくて、残ったペンキ缶で『クリアス進入禁止』って描いたが……あいつ字を消しやがったな」
クレアは気が抜けたように、へなへなと進次郎に頭を預けた。
「あ、あぁ、よかった……。
私まで、とんでもない<“世界の介入者>”になるところだったよ……」
「だけど、まさかあんな所に【横断歩道】を描いているとは思わなかったぞ」
「う、だ、だって……私がその、アンタに心奪われた原因だからさ……」
心から心に渡る。世界から世界を渡る――。
進次郎も、考え方によってはこれで良かったかと思っていた。
「まぁこれで、クレアにも故郷ができたし、いつでも向こうに横断できるな」
「そう言えばそうだね。
イヴやワンコも来ているみたいだし、あの様子じゃリュンカやトマス氏も来られるかもしれないしね。
それにその……ベッドも、だしさ……」
やはり、故郷を捨てることに迷いがあったのだろう。
それが解消されたと分かると、ほっと安堵の表情を浮かべていた。
進次郎は『ベッド』と聞き、にチェストテーブルに目を向けた。
「指輪、返さなきゃな」
「ん? ああ……いらないよ」
「なっ、ど、どうして?」
「だ、だって……こっちでも恋人、やりたいしさ……」
行き場のない恥ずかしさに耐えかねたのか、クレアは不意に進次郎と唇を合わた。
『本当に一方通行な女だ』と思うと同時に、『それがクレアの可愛らしいところか』と進次郎は思っていた。
しばらく甘い空気に浸っていた二人であったが、クレアは急に『ああそうだ』言うと、進次郎の顔をじっと見つめた。
「どうしたんだ?」
「アンタが目が覚めたら、言わなきゃって思っていた言葉があるんだよ」
クレアはニマりと笑みを浮かべ、ゆっくりと言葉を続けた。
「おかえりなさい、シンジ」
愛する者が帰る場所――それを確かめ合うかのように、二人は永い口づけを交わし合った。
※【道を拓け、ドカタの異世界インフラ整備事業 ~仕事して、恋もして、路銀を稼いで帰路につく~】
は、これにて完結となります。
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