第10話 返される指輪
進次郎は大慌てで“女の園”に向かっていた。
城に戻ろうとするクリアスに『形勢が悪くなればなるほど、間者の独壇場になりますよ』と言われたからだ。
このような有事において、クレアは部屋に引きこもるような性格ではない。
責任感の強い彼女であれば、絶対に表に立って“組織”を守ろうとするはずなのである。
その予想は的中した。“女の園”への通路を守る衛兵が倒されており、進次郎の通行を止めた彼らも、苦悶に顔を歪めたまま床に横たわっていたのである。
最奥にいた兵士はまだ息があり『ファー様が急に……』と言ったため、首から背中が凍り付いたかのように冷たくなった。
(クレア――!)
クレアと“繋がっている”と言う表現が正しいかどうか、進次郎には彼女の“存在”がハッキリと分かる。
死んではいない。しかし、彼女の無事な姿を見なければ安心はできず、焦燥はますます高まってしまう。
厨房の前にさしかかり、そこにいるはずの角を折れると――
「く、クレアっ!?」
「し、シンジぃ……う、うぅ……」
振り返ったクレアは、今にも泣き出しそうな表情だった。
進次郎は顔色を失った。金槌を片手に、左手をさする彼女の前……赤絨毯の上に、ファーと思われる男が突っ伏している。
「クレア、ど、どうしたっ、どこか怪我を――」
「ゆ、指輪……っ」
「指輪……?」
「指輪ぁ……壁に擦っちゃった、んだよぉ……っ!」
ハンマーを振り抜いた直後、大事な指輪を壁に当ててしまったようだ。
その言葉を証明するかのように、回廊の壁には、左下から右上にかけて真新しい傷が走っている。
半泣きで差し出した彼女の左手を見ると、左手の第二関節のあたりが少し擦りむいているくらいだ。
指輪もダイアモンドは欠けていないようだが、リング部分にガッツリと傷が入っているのが分かった。
「あー……これはテンション下がる……。
新車買って、三日目ぐらいで自爆して傷入ったような感じだろう?」
「そ、そう! よく分からないけど、きっとそう――って、ちょっと……!」
進次郎は堪えきれなくなり、クレアを強く抱きしめた。
クレアも手にしているハンマーを赤絨毯の上に落とし、その手を背中に回す。
赤く染まっており、進次郎は『絶対に喧嘩しないようにしよう』と心に誓う。
「物の傷は治るし、イヴに直してもらおう」
「……きっと高くつくよ」
「クレアが喜んでくれるなら安いもんだ。大きな怪我が無くて本当によかった……」
「う、うっ……」
胸の中でクレアは華奢な身体を震わせ、小さく嗚咽を漏らした。
本当はクレアも怖かったのだ、とそこで初めて気づく。
彼女の震えを止めようと強く抱きしめたその時――進次郎の背後にいた侍女が小さく悲鳴をあげた。
何事か、と振り向こうとした瞬間――真っ先に気づいたクレアが、進次郎を横に払いのけるように投げ飛ばした。
「――ぐぅッ……!」
進次郎は回廊の壁に背中をぶつけ、一瞬のあいだ世界が揺れた。
「う、くっ……!?」
「く、クレア……ッ!!」
それが治まった時、進次郎は何が起こったのか理解したくなかった。
声のした方からには、死鬼のような形相のファーが立っている。その正面には、今まさに崩れ落ちようかとしているクレアがいた。その左胸付近に、鈍く光る細いナイフを突き刺さった状態で――。
進次郎は咄嗟に彼女の身体を支えた。力が入らないのか、すべての体重がその腕にかかった。
何かの冗談であって欲しいと願ったが、それをあざ笑うかのように灰色の作業服に、赤黒い液体が広がってゆく――。
「クレア――ッ!? おいっ、クレアッ!!」
「ぐっ……だ、大丈夫……だよ……!」
「どうしてだっ!? 俺に何かあっても、“この世界”じゃ死なないって分かってるだろう!!」
「は、ははっ……どうしてだろうね……。
つい、身体が動いちゃったよ……アンタの面倒を見てやるって言ったせいかね……」
苦悶の表情の中で、クレアは力ない笑みを浮かべた。
ナイフは小さく、左肩に近い位置に三センチほどのナイフが突き刺さっている。
それを見て、進次郎は下衆な笑みを浮かべるファーに強い憎悪を抱いた。
クレアが落としたハンマーはすぐそこだ。相手は立つのがやっとの状態なので、すぐにでも“報復”ができるだろう。
「く、くそっ――」
しかし、進次郎は手を離すことができなかった。
クレアと繋がっているためか、一度経験している感覚が、じわじわと這い寄っているのが分かったからだ。
「く、くく、いい気味だ……お、お前もまとめ――」
それを見たファーは、足下に落とした己の愛剣を拾おうと身をかがめたその時――突如として、渡り廊下に差し込む西側の光が遮られた。
ファーは剣を拾い上げる姿勢のまま、そこに目を向けた瞬間――閃光と爆発音が起こり、頑丈な石壁が木っ端微塵に吹き飛んだ。
大小様々な瓦礫が舞い散る。僅かな間をおいて、ファーの悲鳴が廊下に響き渡った。
「――う、腕が……私の腕がぁぁぁぁぁッ!?」
一瞬、何が起こったか分からなかった。
もうもうと立ち込める土埃の中で、巨大な赤い瞳が光った。
「せ、セルクル……なのかッ!?」
土埃が晴れてくると、そこには丸みを帯びた身体を持つ<巨神兵>・セルクルがいた。
片手にはいつぞやのショットガンを手にしているが、今回は“暴徒鎮圧”ではない。
ミニグレネード弾でも撃っただろう。右肘から下を失い、のた打ち回るファーを尻目に、セルクルは穴をゴリゴリと広げながら、進次郎に向かって強引に左腕を押し入れてきた。
「――『乗れ』? 今はそんな……違う、クレアと!?」
セルクルは『急げ』と言わんばかりに、指をくいくいと動かした。
迷っている暇はない。弱々しい息を吐くクレアを抱きかかえ、セルクルの手の平に飛び登った。
<巨神兵>は神の遣い――進次郎はまさに、神にも祈るような気持ちであった。
◆ ◆ ◆
その<巨神兵>が去った後、“女の園”は騒然としていた。
利き腕を失い、苦悶の呻き声をあげるファーに恐怖する者、彼女たちの精神的支柱となっていたクレアの身を案じる者……そこに、戦争に勝利した喜びに浸る者は誰一人としていなかった。
たった一人、涼しい顔をしてやって来た者を除いては――。
「あらまぁ、大変なことになってますわね」
「く、クリアス女王陛下っ!?」
クリアスは鎧を脱ぎ、シンプルな薄紫のローブ姿であった。
その後ろには、水を張ったボウルを手にしたコーニーが控えている。
「緊急事態とは言え、あの子達も無茶苦茶しますね……。
まぁ、あまり時間もないですし、仕上げに取り掛りましょう――コーニー」
「はっ――」
コーニーはボウルを傍らに置くと、すっと腰に携えている短刀を差し出した。
クリアスはそれを受け取ると、鞘を抜き捨てファーの下に歩み寄ってゆく。
「く、クリアスさ……まっ……」
「梯子を外された者は、最期はこのような顔を浮かべるのですね――」
侍女の小さな悲鳴が“女の園”に起こった。
クリアスはファーのあごをぐっと持ち上げたかと思うと、躊躇せず短刀を鋭く突き入れたのだ。
その目は冷たく、表情一つ変えていない。
「ごっ……ぁ……ぼっ……」
「機密情報の漏えいは死罪――貴方はこの国のためによく働いてくれましたわ。
とは言え、結果オーライですがね。素人に負けるエリート……なんと情けない。
だから……って聞いていますか? いませんよね」
視点の定まらぬ目を大きく目を開くファーに、クリアスは不満そうに声を尖らせた。
ファーは生を願う形相を浮かべながら、口から噴水のように鮮血を吐き出し続けている。ガクガクと大きく震える身体は、次第に緩慢なものになってゆく――。
足下に広がるのは赤い絨毯の色か血か分からない。
クリアスが小さく息を吐いたのを見るや、コーニーは主君の前に片膝をつき、脇に置いていたボウルをすっと掲げた。
「もっと悶え苦しむと思っていましたが……はぁ……情けない」
「ダヴィッド様に教わった場所と言えど、相手は眉間を割られ、腕がもげ、既に死にかけていれば……それも致し方のないことです」
クリアスはレモンの香り漂う水で手を濯ぎ始めた。
ちゃぷちゃぷと音を立て、真っ青な水が薄い朱色に染め上げる。手に残る水の珠をピッと切ると、コーニーが差し出したハンカチで手を拭う。
ほどなくして、クリアスは侍女たちが呆然と見つめていることに気づき、意外そうな顔を浮かべた。
「あら、わたくしが虫一匹すら殺せない女だと思いまして?」
「あ、いえ……」
視線を向けられ、侍女たちは思わず『失礼しました』と顔を伏せた。
「ふふ、構いませんよ。
しかし、直に手を下したのは初めてですが――既に一人殺していれば、二人も三人も変わりませんね」
クリアスはそう言うなり、くすりと蒼い微笑みを浮かべた。
しかし、それもすぐ毅然とした表情に戻し、侍女たちに向き直った。
侍女もそれに合わせ、さっと居住まいを正す。
「さて……戦争は我々、リーランド王都の大勝で終わりました。
しばらく事後処理に追われるでしょうが、よろしく頼みますよ。
まずは――そうですわね、この汚れた絨毯を変えましょうか。
コーニー、現場責任者が居ないので貴女が指揮を……ああ、ついでにこのゴミの処分もお願いしますね」
「分かりました。しかし――」
「クレアのことなら心配無用。ちゃんと向こうに名医がおりますので。
ですが、再会するのは……そうですね、二ヶ月ぐらい後になると思っていてください」
侍女たちは漠然とした不安を抱きながらも、己の主君の言葉とクレアを信じ『はいっ!』と、力強く返事をした。
「良い返事です。さて、わたくしも仕上げにかかりましょう――クアドラングッ!」
セルクルが開けた穴に顔を向けるとそこに、いつの間にかやって来ていた<巨神兵>・クアドラングが顔を覗かた。
進次郎たちが去った時と同じように、差し出された手に乗ると彼女は『“時の扉”へ』と指示を出した――。
◆ ◆ ◆
先に“時の扉”にやって来ていた進次郎とクレアは、すがるような思いでセルクルを見上げていた。
しかし、<神>は動かない。青白く光る巨大な“扉”を背に、じっと二人を見据えているだけであった。
その光のせいでクレアの顔が青白く照らされ、弱々しい呼吸・夥しい出血と合わさり、“最悪の結末”ばかりを想像してしまう。
治療する術があると思っていたため、何もしないそれが余計にショックであった。
「シ……ンジ……」
そんな進次郎を見かねたのか、クレアは息も絶え絶えに呼びかけた。
「クレア、大丈夫だ……きっと、きっと助かるからな……!」
「ふふ……何て……かお……して……つッ……!」
「クレアッ!? 喋らなくていいッ!」
肩に刺さったナイフが揺れ、クレアは苦悶の表情を浮かべた。
進次郎が止めるのも聞かず、ゆっくりと自由があまり効かない身体を動かす。
彼女は左手を動かしそこに右手を持って行き――指輪を外した。
「こ、れ……」
「クレア――」
「返す……よ……」
「どうしてだっ! それは――」
「私が……持ってた、ら……あん……た、一生……縛っ……しまう……」
「いいんだ……っ! 縛ってくれて……っ!」
「ダメ……だよ……」
私みたいな女に執着してたら――。
涙の筋を作りながらそう呟くと同時に、ゆっくりと瞼がおりた。
進次郎は彼女の名を叫んだ。動かなくなった愛した者の名を、クレアの名を何度も呼んだ。
しかし、彼女は何も返してはくれない。いつものように『うるさい』とも言わない。
ただ、不満げに口元を尖らせた以外は――。
「むぅー……」
「へ……くれ、あ……?」
クレアは目をぐわっと開き、身体を起こすと同時に進次郎の唇を塞いだ。
えも言えぬ口内と血と臭いが、彼の口の中一杯に広がった。
「やはり……納得いきませんね……うーむぅ……」
「クレア……?」
「むぅぅっ、クレア、クレアうるさいですっ!」
先ほどまでの弱々しい姿とは打って変わり、突然ぴんぴんとして立ち上がった。
それはクレアではなく口調すらまったく異なる別人――しかし、それにどこか覚えがあった。
「ま、ま、まままさかっ、クリ――」
“彼女”の名を呼ぼうとした、まさにその時であった。
「――あら、クリスティーナ。もう参られていたのですね」
「く、クリアス!?
それにやっぱり、クレアじゃなくて、クリスティーナなのか!?」
クアドラングの手に乗った、クリアスがそこに姿を現したのである。
“ク”が多いぞ、との突っ込みは心の奥底に封じた。
それを見た“クレア”は両こぶしを腰に、でんと仁王立ちして彼女を見据えた。
『遅いですよクリアス! さっさと鍵を開けてください!
この子タフすぎて、中々気を失ってくれなくて大変だったんですから!』
「ちょ、ちょっと待って!? まずどう言うことか説明して!?」
クリアスは進次郎を無視して『はいはい』とため息交じりに返事をすると、彼女は目を閉じ――扉に向かって、すっと右手を突き出した。
刹那、地震が起こったかのように“間”全体が震えだし、地鳴りと共にゆっくりと扉が口を開いてゆく。
呆然とその様子を見守っている進次郎に、“クレア”は目を向けた。
『――さて、進次郎さん。この子は必ず助けますが……正直言って、少し危険です。
確率的に五分五分……もしくは、五分もないかもしれません。
ですが、向こうの貴方とは逆の作用を行わせれば、何とか持ちこたえられます』
「逆の……作用……?」
『貴方が彼女を欲することで、生きるための“魂”の栄養分を得ていました。
それの逆……得ていた物を、彼女に渡すのです。
欲しようとした時に繋がる“絆の糸”を出してくれれば、それを貴方から受け取れますので――』
“クレア”はそう言うや身を翻し、半分開いたその扉に向かって歩み始めた。
進次郎も慌てて追いかけようとしたが、その肩をクリアスが掴んだ。
「クリアス――!」
「そのような怖い顔をなさらないで下さい。
わたくしも辛いのです……ですが、こうでもしないと彼女は“向こう側”に行けませんので」
「つまり……何から何までお前の計画通りだった、ってことか……!」
「私とクリスティーナ、半々ってところですかね――。
ああ、そう言えば、“カード”はお持ちですよね?」
不遜な表情のまま胸ポケットからそれを取り出したのを見て、クリアスはゆっくりと頷いた。
「それは持っているだけで構いませんので。
真っ直ぐゆけば辿りつけます――決して彼女への想いを絶やさずに」
背中をポンと叩かれた進次郎は、ゆっくりと漆黒の闇が覗く扉に足を向けた。
そこに道があるのか、底なしの穴なのか分からないほど、何も見えないが口を広げている。
進次郎は敷居をまたぐと同時に、ふと後ろを振り返った。
扉の縁をフレームに、腕を組む二体<巨神兵>を背にしたクリアスが映っている。
彼女は何も言わず、ドレスの裾を摘まんで、すっと頭を下げた。
それに併せるかのように、重厚な音と共に扉が閉じ始めてゆく。
完全な闇に包まれる直前、姿勢を戻した彼女は、ふっと天使のような微笑みを見せた。
それは――“死んだ日"に見たものと、まったく同じ微笑みであった。
※次話および最終話は、それぞれ本日(5/13)19時頃、02:22頃に投稿予定となっています




