第6話 戦争と敗北と罪
リーランド王都の外――約三キロほど進んだ先の平原は、白いテントに埋め尽くされていた。
連日の雨もついに途絶え、大公・エミリオは澄みきった青空を見上げる。
彼の心のような、灰色の空が涙するたびに安堵していた。
涙が止んだ日が最後……失った“妻”の言葉に従ったが、それは利己と復讐心のために、この大地を赤く染め上げてしまうことになるのだ。
(――ついに始まってしまうよ、シルヴィア……)
目の奥はカラカラに乾き、もう流れ出るものはない。
代わりとしてその瞳に映すのは、大公側が最も得意とする“炎”が――そして、それを投げ入れるための四機の“投石機”である。
その向こう……正面にそびえ立つのは、灰色の城壁。『“自由区”から“ロイヤル・ストリート”まで抜ければ、王都は陥落したも同然』と言うのが大公側の見立てだった。
「――エミリオ様、ドワーフどもも間もなく到着するとのことです」
すっと腰を落とし、唸るような低い声でそう報告する漆黒の鎧姿の男――それは、エミリオにとって、最も忌むべき男・ラガンであった。
しかし、彼は決してそれを表にはださない。今はまだ、出すべき時ではないからだ。
「分かった」
エミリオは言葉短く返事をした。
「……遅参に関しましては?」
「今はそのような咎を問うてる場合はないだろう」
冷たく言い放つと、ラガンは不満気な表情を残したまま立ち去った。
――国を治める王として、エミリオ公は優しすぎる。
ラガンを含めた“十二席”の者の中で、そう口にしなかった者は何人いるだろうか。
陰で『女を殺すが、虫は殺せぬ男』と呼ばれていることは知っている。
そして、『妻を寝取られた男』と嘲られていることも知っている。
王都の兵士を殺すどころか、女王となったクリアスを、城勤めの女ですら犯せぬとすら思われているだろう。
戦に関しては素人であるため、ここでもラガンの傀儡でしかない。
もう一度空を見上げ、妻・シルヴィアの言葉を思い出す。
――本当にこれが、大公側にとって最善の道なのだろうか
何度、自問したか分からない。
しかし、信じられるのは彼女だけ――目を瞑り、しばらく髪を撫でる風に身を委ねた。
問題が起きた時、答えはもう既に出ている。
「――よしっ。準備が整い次第、陣を整えさせろっ!」
それに、今は傀儡の方が動きやすいのだ。
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大公側の兵士の数は七千。
ゲブゼリアのドワーフは千二百、内五百は《タウロス》であるようだ。
対する王都側は、予想に反して三千もないと見られている。
(このような時に、“信任投票”を行ったどころか……票を持つ家、兵を持つ家を全て冷遇するとは……。いったい何を考えているのだ……?)
エミリオはそれだけが気がかりであった。
“自由区”などから徴兵したとの報告も出ておらず、近郊の町などからも兵を出したとの報告を受けていない。
どこも愛想を尽かしたように、『兵は貸せないが、軒先と食い物は提供する』と述べ、あっさりと大公軍を受け入れたのだ。
「――ラガン、《コボルド》の動向は?」
「まったく。
長・<ウォーウォーウォン>も、橙の鎧を纏っているが、動きはない、と」
「そうか」
黒馬にまたがるエミリオは、ぐるりと周囲を見渡した。
全員の顔は張りつめ、士気は高く、意気揚々としている。
これまでの道程・連日の雨・数々の報告のせいか、気の抜けたような、余裕めいた表情すら窺えた。
更にその大公軍の後ろには、合流したゲブゼリア軍の先鋒が控えている。
「よし、兵に酒をッ!」
馬に乗る者全員に酒が配られ、それをあおる――これが彼らの戦の習わしである。
エミリオも腰に下げた竹筒の栓を抜き、ぐっと中の水を飲み干した。
『城門が開いているし、旗は上がっていない……これはいったい……』
『調べによれば<巨神兵>も動かぬようだし、恐れをなしたのだろう』
『近くどころか、どこも兵を出してないそうではないか』
『あっさりと終わりそうだな。だが、王都の女の数は足りるかな? へへ』
『なに、女は同時に二人、三人相手にできる。穴は足りるだろうよ。
隣町に駐留してる奴らは悲惨だな、“ご馳走”にありつけねぇんだし』
エミリオは下衆な会話に不快感を感じながらも、ゆっくりと馬を進めてゆく。
城側の使者がやって来ることになっているが、それすらも来ないことが不気味であった。
「〔スーリス〕、〔ヴァッシュ〕、予定通り側面の水路を目指せ。
〔ティーグル〕、〔シャット〕、〔セルパン〕、〔シュヴァル〕は私と共に正面から。
〔シェヴェル〕、〔サンジュ〕、〔コック〕は“自由区”から回り込め。
〔シヤン〕は前・女王を捕えに、〔コション〕は後詰を任せる」
ラガンはそれぞれ“十二席”の者に指示を出す。
既に打ち合わせしていた内容と大差ないため、皆が素早く行動を起こしてゆく。
エミリオはその先陣を切っているが、城門に差し掛かっても何も起こる気配がない。
だが……そこから望むメインストリートの向こうに、“それ”はいた。
(クリアス、女王――と、“壁”が四百人ほどか?
女王は、これだけで戦うと言うのか……?)
彼の眼前には、薄紫のドレスの上に白銀の鎧をまとっただけの少女が映っている。
その後ろには、ダヴィッドと彼の配下の兵が四百あまり……メインストリートを封鎖するには十分だが、総数八千を超える兵に対しては、あまりにもお粗末すぎる構えだ。
誰もが周囲を警戒しながら、冷たい笑みを浮かべる王冠を被る女王の下に向かってゆく。
◆ ◆ ◆
一方で、クリアスの後ろにいる兵たちに動揺が走っていた。
――何があっても盾の列を緩ませるな
彼らが仕える主・ダヴィッドにそう強く命じられているが、目の前の黒色が歩み寄ってくる恐怖を抱かないはずがない。
――全員ここで死ぬ
ダヴィッド以外、誰もがそう思っている。
動くであろうと思っていた<巨神兵>は動く気配すらなく、ただ城の近くで立っているだけだ。
兵士の配置もおかしい。大通りを守らず、“自由区”を抜ける脇道に多くを割いている。
いよいよ眼前まで迫って来たそれに、全員が頭の中で“想い人”、“家族”を浮かべた。
「大公・エミリオ様は、随分とゆっくりですわね」
静かな大通りに、凛とした澄んだ声が響き渡った。
「女王クリアス。私は――」
「ふふっ、私はもう女王ではありませんわ」
「は……?」
クリアスの言葉に、敵味方からどよめきが起こった。
彼女がエミリオに数歩進むと、彼もまたクリアスに数歩進む――。
手と手が触れ合う距離まで近づくと、彼女の美しい顔にハッと息を呑んでしまった。
それに少し微笑んだかと思うと、クリアスは頭の王冠を外し、すっと腰を落とした。
「“信任投票”の結果、不信任多数――。
その結果、王冠は大公……いえ、リーランド王・エミリオ様の下に」
「な、何……?」
動揺するエミリオの後ろで、それを聞いた大公側の兵たちが大きな喜びに震えた。
喜びと罵倒が入り交じる、びりびりと身体を震わす雄叫びに、エミリオはただ震えている。
透き通るような彼女の瞳は『受け取れ』と言っており、後ろに控えるダヴィッドは動揺を隠せない兵たちに激を飛ばす。
エミリオは悲願を達成したことに震えているのではない。
怖いのだ。
正面にいる、女が怖いのだ。
彼女に従わねば、大公として王として従わねばならない。
指先一つ震わせていない彼女に、王は従わねばならない。
誰かが耳元で『ルールに従って』と囁く。
誰だか分からないが、彼には誰だか分かる。
(だけど、私は“何に”従わねばならないのだ……?)
疑念と共にエミリオは、ゆっくりと王冠に手を伸ばした。
王冠のずしり……とした重みが手に伝わった瞬間――城の方から多数の光が上がった。
白い煙が尾を引き、弧を描きながら高く飛び上がっている。
「あ、あれは……な、何ですかっ!」
「ああ。王族と言えど、“法”は平等でありますので――。
はぁ……正直、大変でしたわ……自由気ままなあの子らを従えるのは。
これまでは、王女・女王だからと言い聞かせておりましたが、彼らは本来――彼らが慕う、<イントルーダー>が設けた“ルール”にしか従わないんですもの」
「“ルール”……? わ、我々は何も破っては――はっ!?」
エミリオは、妻の言葉を思い出した。
――いくら習わしと言えど、絶対にお酒を呑んではいけません
彼は慌てて振り向き、光にどよめく己の軍を一望した。
大公側の戦の“習わし”は、戦の前に馬の上で酒を呑むことだ。
中には馬に酒を与える者までいる。
確か、シルヴィアとベッドの中で会話していた時、そのような“ルール”を話していた。
『王都は、お酒飲んで馬に乗ったらダメになったんですよ。
何でも“酒気帯び”とかで、<巨神兵>が容赦なくやって来るほど重罪らしいです』
今どうしてか、それが鮮明に思い出された。
王都側の法と、大公側の法は、根本は同じであっても違う。
王都には、もう一つの“ルール”が存在しているのだ。
(まさか、シルヴィア……君はこれを目論んでいたのか……?)
エミリオは、彼女――王都出身のシルヴィアがどうしてそのようなことを、戦争するように言ったのか、彼はようやくそこで理解した。
そして、彼の目の前で冷たい笑みを向けるクリアスが、どうして玉座を奪ったのかも。
キラリと光った“飛来物”が向かっていることに気づき、兵士たちが慌てふためき、退けや退けやと号令が飛ぶ。
「――“法”を犯していなければ、何ともありませんわ。
ふふっ……まぁ、この国は何もない所ですが、ゆっくりして行って下さいまし。
今日はめでたい日、馬鹿騒ぎして街を血で汚しても結構。
ご希望とあらば、我々も全力でおもてなし致しましょう――」
彼女が両手を広げながらお辞儀をし、身をくるりと翻した瞬間――エミリオの背後に、光が突き刺さった。




