第6話 花とミツバチ
二日後、薄暮の頃――“花摘み祭り”を迎えた村のあちこちに、橙色のランプが灯った。
祭りの衣装に着替えたリュンカも、緊張の面持ちで診療所を出た。……のだが、前に出す脚はどちらか、前に出す手はどっちが先だったか、そのうち両手脚が前に出るのではないか、と思えるほど、ガチガチに緊張していた。
心配そうなにしていた“保護者”たちも、そんな姿に思わず吹き出してしまいそうになった。
おかげで、診療所の空気は少し和らいだ。
少女から女に、娘から人の妻になるかもしれない日なのだ。
彼女の親、トマスは朝から気もそぞろで、取るもの手につかない様子であったからだ。
「トマス氏……私がターニャの<スワ>を持ってたこと、黙っていてすまなかったね……」
「いや、構わないよ。もし私が保管してれば、今頃は虫食いだらけで、みすぼらしい物になっていただろう。
夢の中で、『ちゃんと保管しろ』とターニャに叱咤されていたかもしれん」
橙火の円光の中、トマスは懐かしむような声音でそう口にした。
想い人がいるのであれば、この祭りを避けられたはずだった。
なのに、リュンカは何故それをしなかったのか――それは、彼女が着て行った<スワ>と呼ばれる着物にあったのだ。
彼女が着ていた衣装は、亡くなったリュンカの母親の――祭りの当日に着ていたものであり、生前にクレアの元に『その時が来るまで……』と、届けられていたらしい。
進次郎はそれを聞き、合点がいった。
正直なところ、晴れ着にしては古く、色あせていると感じていた。
リュンカが“花摘み祭り”に参加したのは、母がどのように愛する人を待ち・迎えたのか。その母の背を追い、同じ道を歩むことで、胸の中にある面影から教わろうとしていたのだ。
自分もゆくゆくは母になる。それは、親離れでもあり、父への恩返しでもある――と。
(子は親の見ていないところ、その親の背中を見て育つ、ってことか……)
その想いが伝わったのだろう。手足首が出た、娘には少し小さい着物姿で現れた娘に、父・トマスは押し黙り、皆に背を向け立ち尽くした。
“儀式”の序章となる、清涼とした鼓と笛の奏でが聞こえている。
進次郎はそんな親想いの娘が向かった山を仰ぐと、クレアもつられるようにして黒い山を見つめた。
「――久しぶりにこの祭囃子を聴いたけど、やっぱりいい曲だね」
窓から覗く春宵の山陰を眺めながら、クレアはそう呟いた。
厳かな音色は『“花”の開花を告げる曲だ』と言う。
元々、この村は蜂蜜や染料となる花が豊富であり、新たな命が芽吹く春先にそれを摘んでいたのが、この祭りの起こりのようだ。
花の収穫量が徐々に減り始めたため、副業であった農作と養蜂を主とするようになった。
その花粉を運ぶミツバチをイメージしているのだろうか。曲は次第にアップテンポの激しい物となってゆく――。
「ミツバチには花が何倍にも美しく見える、と聞いたことがあるけど……。
どうして、ミツバチからスズメバチにする必要があったのか……」
「それほど良いものじゃないよ。
この村の男たちは、蜂になっても音がデカいだけのクマバチ止まり――たまには、力づくでモノにするぐらいの荒々しさを見せなきゃ。温厚すぎるよ」
それにトマスは苦笑を浮かべた。
「はは、キラービーが飛び回っていたら、この村はすぐに終わってしまうよ。
協力し合わないとやっていけない小さな村だからね。
クマバチが飛び交うぐらいで丁度いいのさ」
「まぁ……この祭りで唯一キラービーになったのが、トマス氏だけだってのが物語ってるね」
「ははは……。
だが、リュンカにはそのような目には逢って欲しくない……な」
トマスは物憂げな目を山の方へ向けた。
曲はふたたびゆったりとした、ムードのある物へと変わっている。
「……始まったね」
「ああ……」
娘は今、どのような想いで咲いているのか――トマスは空になったコーヒーカップを、何度も口に運んでは、ハッとした顔を浮かべている。
祭りは夜通し行われるため、この村の唯一の医師である彼は、“万が一”に備えていなければならない。それは毎年のことであるが、今日ばかりは医者ではなく、親としての〔トマス〕がそこにいた。
そんな様子を見かねたクレアは、心配そうに声をかけた。
「――トマス氏、早々に運び込まれてくるのなんていないよ。
店番くらいは私たちでもできるから、今の内に休んでおきなよ」
「確かにそうだが……クレアも明日の便で帰るんだろう?」
トマスの言葉に、進次郎は思わず顔をあげた。
クレアが帰るということは、進次郎も一緒にここを発つということでもあるのだ。
確かに、祭りの準備が終えたら帰ると言っていたが、その後の片付けやリュンカのことなどから、あと二、三日は留まると思っていた進次郎には、寝耳に水のことであった。
「ああ、言い忘れていたね……明日の朝一の便で帰るからね」
「朝一って……またえらく急ぐ……」
「だって、リュンカだって愛しい男の腕の中で眠りたいだろうし、私がいたってしょうがないだろう?
看板も、山道の見回りも兼ね、運営側の男衆が回収してくれるしさ」
「てことは、さっきの見送りが最後だったのか……。
まぁ、そっちの方が良いかもしれないな。
で、王都だっけ? そこまでどれくらいなんだ?」
「五日」
「は――?」
「五日だよ、い・つ・か!
まぁ、馬車の到着が遅れたら、挨拶ぐらいはできるかもね」
進次郎は心が折れそうになっていた。
二日もあれば日本の反対側に、文字通り“飛んでゆける”ような世界に住んでいた彼にとって、車移動で五日間は信じられない数字である。
この世界はそんなに広いのか――と考えているが、馬車の一日の移動距離はせいぜい四十キロ程度であることを、この時はまだ知らなかった。
絶望の表情を浮かべる進次郎に、トマスは自虐的な笑みを浮かべていた。
「この国は広い。地図では近くだが、遠いのだよ……。
これまで、もしあと一日でも早く着けば、と何度思ったか分からない。
患者だけでなく、私は友ですら救うことができなかった……。
時々、私は医師ではなく死神ではないかと思う時すらある」
「トマス氏、父さんは助からない病気だったんだ……。
最期を看取ってくれただけでも、父さんも私も嬉しく思っているんだからさ。
そんなに、自分を卑下しないでおくれよ……」
クレアの言葉に、トマスは押し黙ってしまった。
重く苦しい空気に包まられた部屋に、祭りのゆったりとした音楽だけが聞こえている。
「なら――その死神も返上ですね」
静寂を破るように、進次郎は黒く塗りつぶされた窓を見ながら口を開いた。
「あなたに診てもらった俺は、こうして今も生きていますから――」
その言葉に、トマスは薄く微笑んだ。
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窓の外は、完全に夜の帳が下りきっている。
ここを発つ準備を言えど、身一つでやって来た進次郎には準備する必要はない。
リュンカに手紙を残すとしても字がかけないため、ただじっとダイニングの中で、クレアと共に何杯目かのお茶を啜るしかできないでいた。
「俺の所にも、こんな祭りがあればいいのにな――」
ふぅと息を吐きながら、進次郎は黒い窓をチラりと見た。
祭りも佳境に入ったらしく、次々と男女が闇夜の中に消えてゆくようだ――横取りが許されているのは山道を出た所までなので、ここまで来ればもう何の心配もないだろう。
気兼ねなく睦み合えるよう、男側の親たちは酒場や友人・知人の家で泊まるらしい。飼い犬や猫どころか、それは鶏などの家畜まで移動させるほど、徹底している。
「私からすれば、いらぬお節介だよ。
ところで……その口ぶりからして、シンジはまだ結婚してないのかい?」
「……男一人で結婚はできないからな」
「ははっ、それいいね! 私も使わせてもらお!」
「え、クレアもまだなの?」
「む……そうだよ、悪いかい!」
「い、いや、何か意外だなって思ってさ……」
「意外? 見た目通りだよ、ほら――」
そう言うと、クレアは見ろと言わんばかりに両腕を横に広げた。
女にあるまじき身体だと言いたいのだろう。黒い半そでから伸びる引き締まった腕、引っ張られた袖口からは、真っ白な肌を覗かせている。
確かにその手の平には、あちこちの皮膚が厚くなっているのが見受けられた。
「うーん……そうか? 美人だと思うし、普通にモテそうな気がするんだけど?」
「な……っ!? ばっ、馬鹿言うんじゃないよっ……!」
クレアは赤らめた顔を、ぷいと横に向けた。
このような事を言われたのは初めてである。たいていはお世辞や、馬鹿にしたような口調ばかりなのに……進次郎の言葉には、それが全く感じられなかったのである。
彼女はモテない。それは、この国の職業事情も噛んでいる。
この世界の女は基本、結婚すれば家に入る。女が就ける仕事は屋内作業ばかりであり、屋外ではせいぜい清掃員ぐらいで、土木作業員なぞもっての外なのだ。
しかし、クレアは父子家庭で育ったせいか、男社会の中で生きてきた。
メイクなぞ当然したことすらない。ハンマーを片手に、ボサボサ髪のまま歩いた時なぞ、『女ドワーフがいる』と称されたほどだ。
「しょ、正直に言っても構わないんだよ……!」
「いや、正直に言ってるが……」
「――~~ッ!!」
クレアは突然プルプルと震え出し始め、進次郎は『地雷を踏み抜いたのか?』と慄いてしまった。
理由が分からない。確かに日焼けや肌荒れは目立つものの、“前の世界”にいたパープーな女と比べれば、月とスッポンなのである。
しかし、進次郎の世界を知らぬクレアは、そのようなこと知る由もない。
静寂から一転――何とも言えない、戦慄した空気を払拭したのは、仮眠しているはずのトマスの声であった。
『おお、リュンカッ! それに、ウィルッ!』
ずっと部屋の窓から外を覗いていたのだろう。
当人は声を押し殺しているつもりだろうが、ダイニングにまで響く父の涙に、二人は口元を緩ませあうしかできなかった――。