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第6話 見えぬ檻

 テイスティングは揮わなかったものの、用意された居室に戻れば『こちらがメインだ』かと思えるほどの待遇が、クレアを待ち受けていた。


 まずは料理と酒。そこには初めて口にする物も多く、胃袋が複数欲しいと願いたくなるほどの食べ物に、マナーもへったくれもなく舌鼓を打ち続けた。

 食事が終われば風呂と寝室だ。花の香を漂わせながら出てくれば、ふかふかのベッドが迎えてくれる――まさに極楽のような夜と言えよう。

 そのおかげで、この日の夜はすっと眠りに入ることができた。


 ・

 ・

 ・


 そして、夜がどっぷり更けた頃――。


「ん……」



 ふっと目を開いたクレアは、ゆっくりと周囲を見渡した。

 そこは、自身のために用意された部屋ではない。何もかもが至れり尽くせりの世界であったが、それは心にできた空虚を埋めるための、一時的しのぎなものに過ぎない。

 彼女にとって本当に必要な物は、その質素な橙色に灯る“部屋”の中にあるのだ。


「ああ、シンジ――」

「クレア――」


 幾日も逢えぬ切なる想いがこみ上げる。

 まだ一日も過ぎていないのに、唇に感じるそれは、かけがえのない物に感じられる。

 寝床に入る前、世話役に『同衾は必要ですか』と訊ねられたが、それだけは丁重にお断りした。それこそ余計なお節介、他者では決して埋めることができない“虚”である。


「城はどうだ?」

「はは……っ、とんだ田舎者が迷いこんじゃったよ」

「はははっ、俺と同じだな。

 広すぎて、自分のいるべき場所ではないって思えたろ?」

「正直、便所ですら落ち着かないよ。

 やっぱり私の居場所はここ……アンタの胸の中だね……」

「……俺も、広くなったベッドは寒くてたまらん」


 互いの温もりを確かめ合うように、強く抱きしめあった。


「明日は、朝から試作を始めて、ある程度のレポート出すんだっけ?」

「試作の進捗状況にもよるけどね。

 確かなことは言えないけど、あと二、三日で帰れると思うよ」

「いったいどんな“ソース”だったんだ?」

「え、えぇっと、何だろうね……見た目は、墨汁?」


 舌に与えても、出てくるのは『濃い目のコクのある何か』しかない。

 特徴的なのは、鋭利な塩気と鼻に抜ける独特な風味。味は濃く、野菜やパンにつけても合わないことはないが、二度目はあまりやりたくないものであった。

 周りがブツブツと原料について考える中、クレアはそれが出回った時のことを考え、酒に合うツマミについてずっと考えていた……と話す。


「ははは、クレアらしいな。

 しかし、その“ソース”ってもしかして、ドロっとした物か?」

「いや、さらさらしてたね。

 濃いから、エール酒に合うような淡泊な食べ物……ああ、シンジが初めて作ってくれたアレなんだっけ? ヨーショック何たら――っての。

 あれなら合いそうだと思う。温かい物に合いそうな感じだったよ」

「じゃあそれ、<ウスターソース>、か……?」

「う、うす……?」


 進次郎は『確かあれって何かで……』とキョロキョロと周囲を見渡し始めた。

 クレアもつられて目線を動かすが、全てが見たことのない物に囲われており、その乱雑さはまさに“男の部屋”と意識するものだ。

 彼女は“こちらの世界”の字が読めないが、数字は読める――カレンダーらしき物には『3』と大きく書かれ、『13』までバツ印が続いていることだけが分かった。


 ――そこに意味があるからだ


 王女の手紙を思い出したが、それが何を“意味”しているか分からなかった。


(ここに意味があるとしたら、私がこっちに来ることかね……?

 ってことは、ここでシンジと暮らして家庭を……ああっ、いやっ違う違うっ!)


 クレアは意識しないようにしていたことを思い出し、頭をぶんぶんと振った。

 少し不安にもなっていることがあるため、“可能性と将来”を考え始めると、取るものが手につかなくなってしまうのである。

 気を紛らわせようと、彼女はベッドの枕付近にあった黒い薄い板に目を向けた。


「――この大きな板は、黒板かい?」

「ん? ああ、それはテレビ――ああそうだっ! テレビで見たんだ!」

「て、てれ……? 見た?」

「<ウスターソース>の作り方だよ! この前、外国人が来て『この国凄い』って言わせる番組で、さらっとその歴史の紹介をしてたんだよ!」

「な、何の話をしているのか、まったく分からないんだけど……」


 褒めるのは良いが……とクレアは眉根を寄せた


「ええっと確か……『ある主婦が、林檎と色んな野菜の切れ端、胡椒らの香辛料に塩と酢を混ぜて放置してたらできた』って内容だったかな?」

「それ、先駆者であるそっちを掘り下げて、褒めるべきではないのかい……?」

「まぁ、うん……褒められて悪い気はしないからね……」

「だけど、林檎と野菜くずに色々混ぜればいいんだね?」

「ああ。発酵してできたものだから、腐敗しないように塩と酢は必須かも」

「ん、分かったよ! ズルっぽいけど、それなら案外早く帰れ――」


 クレアは言いかけて固まってしまった。

 発酵させ、食材が溶解して液体になるまでどれだけか……つまり、その期間は“待たねばならない”のである。

 当然、失敗もするだろう。形ができるまで、試行錯誤を繰り返さないとならない。

 進次郎もそのことに気づいたが、クレアほどの“想像したくない現実”を感じてはいなかった。


 ――次第に手段を選ばなくなってくる連中から、誰が彼女を守りきれますか?


 王女・クリアスと謁見した時の言葉を思い出し、このことかと察していたからだ。

 あえて“開発期間”の長い物を与え、彼女は出来るだけクレアを城に勾留つもりなのだ、と。

 橙色の常夜灯が灯る部屋に、シン……とした静けさが襲った。


「シンジ……」

「あ、ああっ! 長くなる……な」

「やっぱり、そうだよね……。

 その、毎日でもなくていいからさ、こうして会ってくれるかい……?」

「もちろんだ! むしろ毎日逢いたいぞっ!」

「あはは、それは私も同じだよ。

 でも、“夢の中”だけで生きてはいけないんだよね……。

 ここが幸せであればあるほど、目覚めた時、起きている間が切なくて堪らなくなる……」


 たかが夢。ここにいる自分は、本当の自分かどうかすら分からない。

 現実から目を逸らして“理想”に入り浸っていれば、それこそ人はダメになる――クレアは、自身の胸にわだかまる不安を全て打ち明けた。


「クレア――」

「その、城で『同衾はどうか』って言われたんだけどさ――」

「ダメ、絶対」

「わ、分かってるよっ!?

 でも、シンジはあの、クリスティーナって女とまだ懇ろみたいだし、さ……」


 クレアは唇を尖らせ、ぷいと拗ねたような口ぶりで目線を逸らす。

 思わぬ名を告げられ、進次郎は思わずたじろいでしまった。


「ね、懇ろって、別にそこまで――ハッ!?

 ま、まさかっ、ここ一週間の機嫌が妙に悪かったのって……っ!?」

「……ズルい」

「ち、違うぞっ!? そんなことは決してないからな!

 神に――実はヤンチャだけど、あの<巨神兵>どもに誓ってもいい!

 あの王女もそうだけど、向こうが変に思わせぶりな行動とって、ちょっかい出してくるんだからっ!?」

「そりゃ、どうしてこんなど平凡なシンジにって思うけど……『彼氏浮気してますよ』って言われたらさ……。

 アンタのことが大好きな分、だけ、不安になっちゃうよ……ごめん、本当に……」


 クレアの目元から涙がこぼれ、涙声で謝罪し続けた。

 進次郎はそんな彼女を抱きしめ、胸の中ですすり泣く彼女の頭をそっと撫でる。


「俺の方こそごめん……クレアがいるのに、ほいほい振り回されて……」

「ううん、私の方が……勝手に思い込んで……」

「その、浮気云々言って来たのって、“自由市場”の小物屋の親父さんか?」

「へ……? “探偵”って名乗る人から来たんだよ。

 メモ書きと綺麗な女の人の似顔絵が封筒に入ってて――小物屋のおっちゃんに聞いたけど『シスターは見ても、そんな人見たことない』って言うし」

「俺、そこでしか会ってないぞ? 他で会っても、教会で助けてもらった時だしさ」

「でも、嘘言ってる気がしなかったよ……。

 女よりも、一人で喋っているアンタが不気味だって小言聞かされたし」

「ん、んんっ……クレア、そのメモ書きと似顔絵って持ってるか?」

「メモは燃やしたけど、似顔絵の写しなら事務所にあるよ。

 ――アンタがコーニーって侍女長の手紙を隠してた、書類棚の底に」


 進次郎が再びそれを取り出した時に備え、クレアが仕掛けた罠であった。

 本書は彼女が肌身離さず所持している。それを上からトレースしただけであるので、お世辞にも上手いものとは言えないが、『気づいているぞ』と思わせるには十分の出来だ。


「そんな、エロ本見つけた親みたいなことするんじゃないよっ!?

 あれ、精神的にクるんだからなっ!?」

「し、知らないねっ! 他の女に鼻の下伸ばすのが悪いんだよっ!」


 “夢の中”に滞在時間があるのか、進次郎とクレアのじゃれあいは、“その世界”が歪むまで続いていた――。

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