第1話 ナイト・イン・ナイト
王都近郊を荒らしまわっていた《ケンタウロス》は、王女自らが手を下した。
この報せはリーランドの東端・大公領にまで轟き、二週間もすれば、どんよりとした暗雲が領内を完全に覆いつくしていた。
そして、思いもよらぬこの王都の功績は、嘆き悲しむ者に一筋の光明をも見せる。
(あぁっ、クーリ……! やはり貴女はなんて素晴らしい人っ……!)
窓から覗く外の世界は、心持ち明るく見えた。
ラガンの色女とされたシルヴィアは、牢屋のような暗く汚い部屋の中で、弱々しい微笑みを浮かべた。
股が汚れておらぬ日はない。もはや、『恥辱とは何なのか』と人に問いたくなるほど汚れきってしまっている。
しかし、この日……いや、一週間前よりラガンは彼女を抱いていない。
クリアスの“《ケンタウロス》討伐”の報せの影響もあるが、いくら傍に寄せても一向に心を開かず、享楽の声どころか苦悶の声すらあげぬ彼女に、ラガンもいささか“つまらなさ”を感じているのだ。
では、今は誰が彼女を使っているのか?
それは、いつも決まった時刻にやって来る――。
『あ、あの……』
扉の向こうで声が聞こえ、その後すぐに思い出したようにノックをする。
「……どうぞ」
シルヴィアの表情は仏頂面のままであるが、ラガンに見せるそれと比べれば、わずかに柔らかい。
初めは嫌悪感や怒りを覚えたが、次第に彼に対してそれを向けるのは、どこか可哀想に思い始めているのだ。
「し、失礼します……あの、よろしいですか……?」
さらさらとした緑髪の青年が、鉄扉から顔を覗かせながら伺いを立てる。
青年というよりかは、まだ幼さの残る少年だ。歳を聞けば目を剥くほど、おどおどと頼りのない男だった。
庶民よりわずかに高級な召し物の彼に、当初はどこかの貴族の子供で『“男”にさせるため、情婦を抱かせに来た』とシルヴィアは思っていた。
貴族階級の嫡男にはよくある話で、特におかしなことではない。
だがしかし、多少身なりを偽っても、持って生まれた“匂い”はそう偽れるものではない。話をしてすぐ、彼の正体に気づいた。
――大公家嫡男・エミリオ
初めて会うが、そうだと確信していた。
そもそも、好色で有名なラガンが、並の貴族に女を貸し与えるはずがない。
彼の嫁となる名目でここに来た。エミリオは事前に聞かされていたのだろう。
初めて顔を合わせた時、彼は非常に申し訳なさそうな、複雑な表情をしていたのだ。
その姿に、シルヴィアは心を荒立てた。
大公家を引っ張ってゆかねばならぬのに、嫁に来た女の純潔を散らされ穢された。
それだけでも男には耐えがたい屈辱であるはず。……にも関わらず、彼はラガンの目を盗むようにやって来ては、びくびくしながら、自身の妻となる女を抱くのである。
これでは、どちらが間男か分からない。
――抵抗すらもできぬ、なんと情けない男か
武人の家に生まれたゆえか、穢したラガンよりも、侮蔑の念すら抱きたくなる。
しかし、彼女に押し入る“男”から強い葛藤があることを感じとっていた。
(女王陛下は、このタイミングを計っていたのでしょうが……なんと酷な思いをさせるのでしょうか)
女王の退任は、大公家が王権を得るためのまたとないチャンスだろう。
にも関わらず、立てられるのは風が吹けばポッキリと折れてしまいそうなほど、候補となるのは、考えることだけの脆弱な芦しかいなかったのだ。
片や王都は、奇人・変人と噂されど、己の意思で地の上に立つ親友――これでは勝ち目なぞまったくない。
なれば、周囲の人間が心を鬼にして気張らねばならぬ。
「今日は、何をしたいのです?」
「え? あ、あの……」
ここに来て、初めて人に質問を投げかけた。
彼女は腹を決めた。目的は違えど、シルヴィアも同じ気持ちである。
――彼が“男”になれば、ラガンは頭を抑えられ、国は二分するだろう
だから……情婦のように振る舞いながら、毅然として彼を奮い立たせようとした。
この屋敷に来ることが目的であったが、“監禁”されていては思うように動けない。
彼が立ち上がれば、彼女の“探し物”が見つけやすくなる――そう、心に信じて。
◆ ◆ ◆
一方、リーランドの空は晴れ渡っていた。
この日、進次郎はダヴィッドの要請を受け、クレアと共に教会の駐車場の線引いていた。
太陽が真上に差し掛かり、暑さがピークまで達そうかとしているころ――進次郎とクレアは額に浮かぶ汗を拭いながら、灰色の石畳の上に引かれた、大量の白い線を眺める。
「こうして見ると、凄い量だね」
「七十台分に番号、進行表示に停止線、ほか諸々……中型店舗の並だからな」
「シンジの国で見た、あの店もこれぐらいかい?」
「んー……これよりもまだ二十台くらい多いかな」
莫大な量であったが、ほとんどの作業は城の者がやったため、二人はさほど疲れていない。
クレアは、外観がほぼ完成した聖堂を見上げながら、ぼうっと物思いに耽っていた。
――もし、このような場所で“女の幸せ”を挙げられたら
自然と顔に熱がこもる。この暑さのせいではない、内から湧き上がる想いによる熱である。
これまでは縁が無かったものの、“権利”を持っていると分かるや、ふとしたことでそれを妄想してしまう。
それは、昨日今日のことではない。牢屋に入れられた進次郎が帰って来てから――壊れたクレアのベッドの修復にあたっていた、イヴの言葉がきっかけであった。
『やっぱり将来的なことを考えれば、ダブルベッドのがいいじゃろ?』
何か思いついたらしいが、クレアにとっては寝耳に水の言葉だった。
そこで初めて、将来的――自分に結婚の可能性がある、と気づいたのだ。
期待に胸を膨らませた反面、この教会を眺めていると不安も湧き起こる。
「表向きには、王女が《ケンタウロス》の排除に乗り出したのは、この作業を捗らせるためとなっているが……」
「ふぅん……」
その不安が、クレアを鼻で返事させた。
「な、何だよ……ま、まだ疑っているのか?」
「べーつにー、何も疑ってないよ」
「あ、あれは王女が仕込んだことなんだって!?」
それは、進次郎が帰ってきてから発覚した。
投獄は一日で済んだ。今思えば、<巨神兵>の話や進次郎の帰る方法など、秘密裏に伝えるため進次郎を連れて行ったのだろう。
策を張り巡らせる女だ、と思ったのもつかの間……彼女は更なる罠を進次郎に仕掛けていたのだ。
「あ、あれは、王女が勝手に仕込んだんだってっ!?」
「女が、自分の下着をポケットに入れさせるってのかい?
そんな女、頭どうかしてるよ。嘘をつくなら、もっとマシなのを考えるんだね」
「あれは、『頭どうかしてる女』なんだよっ!?」
それは、クリアスから拝領した外套にあった。
進次郎と共に朝を迎えたクレアは、井戸端で彼の衣類などを洗濯していると……その外套の中に、真っ白なショーツが入っていたことに気づいたのだ。
その時だけは、さすがに進次郎に対し、表現しがたい気持ちになった。
何の義理があって、他人の汚れた下着を自分が洗わねばならないのか。それが王女の物だと知れば、殊更である。
(にわかに信じがたいけど、王女も何の目的があってそんなことを……。
シンジは私の物――じゃなくて、他にもたくさん男が選べるだろうに……)
“夢の中”で助けを求めるほどだ、進次郎が嘘を言っているとは思えない。
それに正直なところ、本気で心をやきもきさせたのは発覚した瞬間だけだ。
「――ホントにかい?」
「ほ、本当だ……っ!」
「じゃあ、証明してごらんよ。んっ――」
「うっ……や、やっぱりそれが目当てか……」
顎を少し上げ、目を閉じる――瞼の裏で、周囲を気にしている彼の姿が浮かぶ。少し恥ずかしい。
進次郎を少し突っぱねると、こうして“ご機嫌取り”をしてくれるのだ。
そっと唇に触れるだけであるが、それだけで十分であった。
「じゃ、じゃあ、時間もあるし買い物に行くかねっ!」
「あ、ちょっ、ちょっと……」
キスの回数はもう数えられないが、やはり恥ずかしいものは恥ずかしい。
赤い顔になっているのを隠すように、右足を軸にしてくるりと身体を向け歩き出した。
(でも、あれから“ニホン”って世界を夢見る頻度が上がってるんだよね……。
何だろう……どんどんそっちに引っ張られてるような気がするよ)
“自由市場”に差し掛かった時、ふと正面にほっかむりをした奇妙な《コボルド》がいることに気づいた。
手には紙袋が握られ、顔を包む布から気の抜けるような顔を覗かせながら、誰かを探すようにキョロキョロとしている。
「――迷子の子猫でも探しているのかい? ワンコ」
「ウォ? ウォウォンッ!」
「俺たちを、探してた?」
ワンコは『ウォン』と、眉毛を上げながら大きく頷いた。
元から彼にそれがあったわけではない。先日の当たり屋の“罰”として、進次郎が無理やり筆とペンキで書き加えたのだ。
太い繋がり眉毛のワンコは、懐から一通の手紙を取り出すと、それをクレアに差し出した。
「――この可愛らしい文字はイヴだね。
なになに、『シンジのベッドも修理するから、二、三日宿屋に泊まれ』……な、何だって!?」
恐らく厄介な職人魂に火がついたのだろう。
歩いても十五分程度の場所にも関わらず、家に帰らず宿に泊まる……何とも奇妙な話である。
ワンコはあまり人前に出たくないのか、すっと紙袋を渡すなり、身を縮めながらそそくさとその場を立ち去った。
着替えにしては軽い。それに首を傾げ、中身を覗き込むと――。
「んな゛っ――!?」
「ど、どうかしたのかっ!?」
「い、いい、いやっ、何でもないよっ!」
冷や汗を浮かべながら、それを後ろ手に隠した。
進次郎には話していなかったが、王女から彼宛に先日の《ケンタウロス》逮捕の“褒賞”を届けられていたのである。
包みはイヴが勝手に開いた。期待の表情から一変、その中を見るなり呆れた表情で『これはお主への贈り物じゃの。シンジがつけたら――病院行きじゃし』と、クレアに渡した物――。
(こ、こんなもの、何を隠すんだい……っ!?)
騎士を“蜜夜に誘う”時に使用されるものなのだろうか。
紙袋の中には、ベビードールから始まる、ナイトランジェリーが入っているのだ――。




