第2話 夢の中での逢瀬
ただ馬車に乗っていればいい、進次郎は出発前の甘い考えを呪った。
東に約二日ほどの距離に《ケンタウロス》族の集落はあるのだが、ワンコの馬車でも一日半の場所までしか行けないため、そこからは歩きとなるのだ。
停車したのは、あぜ道の末端――眼前には終わりが見えない【カナル大平原】と呼ばれる、だだっ広い平原の大海原が広がっている場所だった。
(広いんだな……この世界は……)
王女は『ウォーウォーウォンによろしくね』とワンコに伝えたのち、彼女は何の迷いもなく平原の海の中に飛び込んだ。
青々とした草原が波打つ、まるで風景画の中に飛び込んだかような場所に、思わず嘆息を漏らしたほどである。
王女が告げた <ウォーウォーウォン>とは《コボルド》族の“長”のことで、『この一帯を《ケンタウロス》族が駆け抜けるので、よしなに――』と、ワンコに報告しに行かせたらしい。王族らしい細かい心くばりである。
しかし、初めこそ新鮮だった大地も、延々と変わらぬ景色が続けば疲労が募る――。
リーランドを出立してから二日目の夜を迎え、進次郎はたき火の前で大きくため息を吐いた。
彼の傍では王女・クリアスが、すぅすぅと年相応の寝顔を見せている。
(今頃は、クレアも寝てるかな……?)
眼前で踊る赤い炎が、彼女の金糸のような髪を染め、赤い髪の女を連想させた。
想い人・クレアのことを考えている内に、進次郎の瞼も重くなってゆく。
パチッ……と、燃える枝が弾け、橙色の半円の淵が揺らめいた。
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うつろうつろしていた進次郎は、急にハッと頭を上げた。
いつの間にか眠っていたらしい。橙色に照らされた明かりの中、腰かけるベッドに敷かれた、少し固めのマットレスがやんわりと揺れた。
その上では逢いたくてたまらなかった女が、黄緑と白のストライプ柄の掛布団を被り、じっと白い天上を見上げている。
青っぽいタオル上のシーツの感触も懐かしい……それどころか、その空間自体が懐かしいものであった。
(……ん、んんっ!?)
進次郎は慌てて腰を上げた。
橙色の部屋の中は、クリアスと野宿している平原でも、クレアと共に暮らす見慣れた事務所ではない。いや、見慣れているかどうかでは、こちらの方が圧倒的に上であろう。そこは――
「お、俺の部屋か――!?」
思わずそう叫んでしまい、クレアもガバりと飛び起きた。
「な、何でここに、シンジが――!?
……って、ここは、ここはいったい何処だい!?」
クレアは進次郎がそこに、その彼の部屋にいたことに気づいていなかった。
ベッドってこんなに広かったかと思いながら、じっと天井を見つめていたのである。
このような状況は以前にもあったからか、その時のような“恐怖”はないようだ。
「こ、ここ、俺の部屋だ……」
「な、なんだってっ!?
じゃ、じゃああれかいっ、また私たちは“シンジの世界”に来たってのかい!?」
「多分そうだ……ぼんやりして分かりにくいが、パソコンの位置も、スチールラックの位置も、ベッドの位置も全部……記憶のままだ」
「最後以外分からない物ばかりだけど、なかなか小奇麗にして――じゃない!
いったい、どうしてまた私たちがここに……」
クレアは物珍しげに周囲を見渡し始めた。
おおよその見当は付いている。進次郎は再びベッドに腰を下ろし、照れくさそうに口を開いた。
「多分、クレアに会いたいと思ったから、か?」
「ば、ばかっ……そんなことで呼ぶんじゃないよ。考えないようにしてたのに……」
二人は自然と、ベッドの上で強く抱きしめ合った――。
愛おしさが身体中を駆け回る。まだ二日、一晩離れていただけでこれだ。
流石にクリアスの言う通り“自重”するべきなのかもしれない、と考えてしまう。
それはクレアも同じなのか、離れると少しばつが悪そうに苦笑いしていた。
「その、どうなんだい……何と言うか、王女と言うかその……」
「それなんだよ……っ! クレア、お願い助けてっ!?」
「な、何だい藪から棒にっ!? いったい何が起こったんだいっ!」
「――あの王女、すんごい馬鹿なんだよ!?
馬車の中では堂々と下着姿になるわ、バランス崩したフリして見せつけに来るわ、『下着を変えなきゃ』って言って脱ごうとするわ……始終、無茶苦茶なことしてくるんだよ!?」
「な、何でそんなことしてるんだいっ! 私は我慢してるってのに――」
「違うっ!? 多分アイツ、俺とクレアの関係を拗れさせようとしてるっ!」
どうして王女がそんなことを……と、クレアは疑問を抱いた。
それが原因で、進次郎がクレアを“喚んだ”のであれば、本当に切羽詰っているのだろう。
「いいかい! 絶対に屈するんじゃないよっ!」
「ああ、もちろんだ……!」
「か、帰ってきたらいくらでもさせてあげるから、ちゃんと無事で帰ってきな!
それともし、王女と“何か”あったりしたら……放り出すよ?」
「あ、あいあいさー……っ」
クレアの目が本気で怖く、進次郎はごくりと唾を呑み込んでしまった。
しかし、そのおかげで彼の心は平常心を取り戻せたようだ。
目に力が戻ってゆくと同時に、惑わされたことによる“欲求”が目の前の女に向けられ、肩を強く抱き寄せるなり強引に彼女の唇を奪った――。
◆ ◆ ◆
進次郎の強引な口づけに、クレアはハッと目が覚めた。
眼前に広がるのは、くすんだ板張りの屋根……先ほどまで見ていた、白い天井の部屋ではなかった。
ごそり、と音を立てて寝返りを打った。開かれた瞳には、薄ぼんやりとした闇を挟んで、無人のベッドが映っている。
――シンジのばか
寂しい胸の中で小さく呟く。
せっかく我慢していたのに、これではまた会いたくてたまらなくなってしまうではないか。
(でも、本当に大丈夫なのかね……)
クレアは想いため息を吐いた。
外で遊ぶのも男の魅力、その男の帰る家になるのが女の魅力――イヴはそう言う。
自分が若くないことはよく分かっている。若い女の一人、二人、外でこしらえても仕方ないかもとは思っているが、進次郎と一緒にいるのは普通の女ではない。
国を担う立場の者が、多の中の一組のカップルをピンポイントに狙いを定めてきた。
聞いただけでも穏やかではない状況に、クレアはわずかに焦燥を抱いてしまう。
(まぁ……“夢の中”でも会えるし、色々とヤバくなったら言ってくるだろうね……)
淫らな夢も何度か見たことあるが、そこでの“己”は思い通りにはならない。
だが……“あの場”であれば、思うままに動くことができるだろう。
その期待が、彼女の“女”を昂らせた。薄い掛け布団の中、ゆっくりと股ぐらに手を伸ばす――ベッドは身じろぐたびに軋み、大きく揺れ動いていた。
◆ ◆ ◆
進次郎が目覚めた時、既に空が白み始めていた頃であった。
座ったまま眠っていたようだ。火に照らされ続けていた顔は熱っぽく、火傷したかのように肌がヒリつくのを感じていた。
凝り固まった首と肩がピリピリと痛む。ふと肩に錆色の外套がかけられていること気づき、顔をしかめながらゆっくりと頭をあげてゆくと――炎を隔てた先に、濃紫と白のドレスローブを着て踊っている女が見えた。
しばらくぼうっと見つめていた。
一人で踊るそれは、この世界の舞踏会らで踊られるものではないだろう。
音楽もないのに、両腕を高くあげ、頭を振りながら腰をくねらせる王女……バブル世代から転生してきたのかと思えるほど、彼女の踊りにはキレがあった。
「――クーリ様」
ひとしきり踊りきるのを見て、進次郎はクリアスを呼んだ。
額に汗を浮かばせた彼女は、特に驚いた様子もなくゆっくりと顔だけをそちらに向けた。
「あら。やっと、起きられましたの。
目の前で女が真っ裸になって着替えていても起きないとは……まったく、どれだけ女に恥をかかせれば気が済むのやら」
「そ、そんなことをっ!?」
椅子代わりの丸太に腰かけ、流れ落ちる汗をハンカチで拭っている。
底辺は黄土色、中流は青色、上流は黄緑――女王のシンボルカラーが薄緑であれば、王女のシンボルカラーは濃紫なのであろう。
「この外套……大丈夫なのですか?
今も外気はひやりとしていますし、そんなに汗をかいていては――」
「問題ありませんわ。わたくしは、この国の者ですので」
「そうですか。しかし、これありがとうございます――」
それを脱いで王女に返そうとしたが、どうしてか顔をぷいと背けてしまった。
「わたくしは何もしておりませんし、それは貴方の物です。
この国の夜明けは冷える――人の心配をなさる前に、ご自身の心配をなさいな」
「え、でも……」
「あ・な・た・の・も・の・で・す・っ・!」
「は、はいっ……!」
ギンッと強く睨みつけられ、進次郎は思わず仰け反ってしまった。
王女自らが一市民に施しを与えることはできないのか、それとも彼女の強情さなのか……どちらにしろ、この外套を与えられたことは有難いものだ。
彼女の言った通りなのだ。本格的な夏に入っているにも関わらず、とてつもなく周囲の空気が冷たい。進次郎は脱ぎかけた外套を正すや、ぐっと身体を丸めた。
「十五分後に出発しますわ。
ここから《ケンタウロス》の集落までは目と鼻の先――それまでに出立と心の準備を済ませておいてください」
「わ、分かりました」
ひゅうと吹いた冷たい風は、周囲の草木をざわつかせる。
いよいよ来たか……と、進次郎は身体の内側から身体が冷えてゆくのを感じていた。




