第9話 星めぐり祭(明星)
すっきりとした青空に、綿を薄く広げたような雲が漂っていた。
窓を覆う桟板の隙間から光が差し込み、薄暗い部屋の床板に小さい白輪を描く。
部屋はむわりとした熱気に満ち、男の寝息と女の息づかいだけが聞こえている。
触れ合っている肌はじっとりと汗ばんでいるが、どちらも離れるつもりはないようだ。昨晩のことは夢ではない……そう思うと、女の口には自然と笑みが浮かび、もぞりと男の胸の中に顔を埋めた。
――これが幸せか
これまで随分と損していたな、とクレアは思っていた。
しかし、意固地になっていたおかげで、今があると言っても過言ではないだろう。
今この瞬間がどれだけ貴重なものか。その幸せを堪能するかのように、もぞもぞと身体を動かし続けていると、彼女を包み込んでいる男が唸りをあげてしまった。
「ん、んー……あぁ、もう朝か……?」
「あ……起こしちゃったね……」
進次郎は大あくびをしながら、寝ぼけ眼でクレアの顔を見つめた。
申し訳なさそうな顔をしていながらも、今の気持ちを抑えきれないのか、その口元はほころばせてしまっている。
起き抜けではあるが、そんな幸せそうなクレアの顔を見ると、つい我慢できず唇を寄せてしまう。その意味が分かったクレアも『憧れのシチュエーション・弐』だ、と同じように唇を持って行ったのだが――
「……聞いていたほど、よい物ではないね……」
「ま、まぁ、起き抜けだからな……」
寝起きのベタついた口内では、昨晩のような甘ったるく頭を惚けさせるような気持ちにはなれなかった。
しかし、その肌を触れ合わせているだけでも十分幸せである。掛布団の中の蒸し暑さを忘れて、相手の温もりを求めた。
進次郎もまたその柔肌を堪能しており、昨晩は……と思い出すとつい身体が反応してしまう。
「うっ……い、今からかい……?」
「あ、いや……生理現象みたいなもんだから……っ」
今もなお異物感が残っている。想像していたほどではなかったものの、如何せん昨晩の“身の裂けるような思い”は、この朝から寝起きからは味わいたくなかった。
寝ている間にも滴り落ちたのだろう、シーツに水染みの中にもその“証拠と痕跡”が生々しく広がっている。
「――ところで、クレア。一つだけ教えてもらってもいいか?」
「ん?」
「何でその、急に“花摘み祭り”の恰好をしていたんだ?」
「あ、あー……その、うん……実は――」
実はリュンカが羨ましかった――と、布団で口元を隠しながらモゴモゴと呟く。
年上であるせいか、意固地な性格のせいか、それを認めたくはなかったようだ。
進次郎はその様子がとても愛らしくなり、ガバっとクレアに抱きついた。
男女のじゃれあいに、ベッドはしばらく大きく軋みをあげ続けた。
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朝と言っても、二人が目覚めた時はもう昼前であった。
クレアはここでも形式に則り、進次郎の作業服の上着を羽織っている。
昼には少し早い時間であるものの、朝昼兼用でイヴが用意してくれていた<バブラ>を口にしていた。夕方になれば“星めぐり祭”で賑わう大通りに出るので、この時間に食べておけばちょうど良いだろう。
「で、シンジ、殴られた頭の方は大丈夫なのかい……?」
最後の一口を放り込むと、心配そうな目でじっと進次郎の顔を見た。
ことを終えた後、戻るのが遅くなった理由を聞き、思わず目を剥いてしまったのだ。
その後、街を走り回るなどの激しい運動をしていたので、大丈夫だろうとは思っているが、それでも尋ねずにはいられなかった。
「ああ、不思議なことにコブ一つないようだ。
口の傷もほとんど気にならなくなってるし、頑丈な身体に感謝ってところだな。
むしろ、クレアにつねられた尻の方が痛む……」
そう言いながら、進次郎は尻をさすった。
あの後、クレアに覆いかぶさった進次郎は、思い切り尻をつねりあげられていた。
「あ、あれはアンタが悪いんだよ……っ!
でも、頭のダメージはあまり甘く見るんじゃないよ。後になって出てくるってこともあるんだからね」
「それもそうだな……しばらくは自分の体調に慎重になってみるよ」
踏み込んだ関係になったとはいえ、普段とはそう変わらない日常――。
むしろ、ぎこちなかった歯車に油が差されたような、以前よりもスムーズなものとなっていた。
無言でも心地よい空間。遠くから、興奮冷めやらぬ子供たちや、祭りの準備に忙しく往来する馬車の音だけが聞こえてくる。
このままゆっくりとした時間が流れてゆく……と、思いきや、それを打ち破るかのように、一台の馬車が事務所前に横付けされた。
「失礼致します――城の方から参った者でございます」
すぐにそう述べたのは“五老”の内の一人、深緑の外套を肩にかけたヴァンであった。その外套から、この城の者を証明する紺色のジャケットが覗いている。
進次郎はそれに怪訝そうに眉を上げた。
しかし、ヴァンはそれに気づいていない。左脚を引き、大仰に屈ませた身体をすっと戻すと、さらさらと長い金髪を掻き分けながら、奥にいるクレアに好色めいた興味の目を向ける。
「お初にお目にかかります。私は“五老”の内の一人、ヴァン・ド・バーナーと申します――」
「ご、“五老”……ってことは、ダヴィッド様の――!?」
クレアは慌ててすっと腰を落とし、頭を下げた。
進次郎も見よう見まねで腰を落とすが、頭は下げないでいる。
ヴァンはそれに気づかず、どこか好色めいたをクレアに向けた。
「そう形式張らなくともよいですよ。
此度は公式であって、公式ではないのですから」
「は、はっ! で、ですが、いったい何の御用で……?」
「昨晩、よからぬ輩に襲われたと聞きましてね。急ぎ、クレア・ラインズ殿のお迎えに参った所存でございます。
そちらの方も、教会で襲われたとか……いやはや、よく皆さんご無事でした。
ですが、またやって来る可能性も否めません――そこで、貴女を保護することに決定したのです」
言葉を失ったクレアをよそに、進次郎はヴァンの目をじっと見ながら口を開いた。
「――それは、いったい誰の発議なんですか?」
「誰とは申しあげられませんが、我らが仕える主君のためでございます。
クレア殿を失うことは、国にとっての大きな損失になりますれば、ええ」
「そうですか」
再びクレアの方へ目を向けたヴァンに、進次郎はすかさず言葉を続けた。
「――なら、彼女の身は私が守りますので、そちらの保護は一切必要ありません」
「なっ……!?」
「し、シンジ――!?」
ヴァンの顔に若干の怒りが表された時、
『その者の言う通り、お前たちの手は必要ないのじゃ!』
その背後から、聞き慣れた大きな子供の声が響いた。
外套を翻しながら振り向いたヴァンの後ろには、褐色肌のドワーフ娘・イヴが両こぶしを腰にやりながら仁王立ちしていた。
「ドワーフのアタシもおるし、他にも《コボルド》もおるからのう。
昨晩程度の雑兵じゃ楽勝――あれ以上となると<巨神兵>が動くからの。
下手に城に行かずともよかろうて」
「し、しかし、いくらドワーフと言えど、子供の腕では――」
ギラリとした黄色の瞳に睨まれ、ヴァンは思わずたじろいでしまう。
イヴはため息を吐きながらポケットに手を突っ込むと、ポイと緑色の何かをヴァンに投げ渡した。
「何だ……? ただの大公領の硬貨では――な、何だとっ!?
こ、これは、【ゲブゼリア】の王族のメダルではないか……っ!」
「理解したら返せ。お主の手は不要、こやつらにその手を出すことは即ちゲブゼリアを敵に回す――下手に保護するより、まず“敵側”にそれを周知させるがいいのじゃ」
「ぐっ……そ、それなら仕方あるまいなっ!」
思惑通りに行かなかったのが気に食わないのか、ヴァンは忌々し気に奥歯を噛みしめ、ずんずんと足を踏み鳴らしながら大股で馬車に飛び乗った。
待機していた御者は何かを聞くや、すぐにガラガラと音を立てて走り去ってゆく。
「ふん。ちょーっと“権力”を見せればアレじゃ。
見てくれだけで女を口説く男は、どれもチンケじゃのう」
やれやれと言った様子で、イヴは鼻から大きく息を吐き出した。
それを見たクレアは、慌てて彼女に駆け寄った。
「い、イヴ――ッ! あ、アンタ、ゲブゼリア王国の者だったのかいッ!?」
「うんにゃ? アタシは平凡な家の子じゃぞ」
「な、ならどうして――」
「まぁ、城におったのは事実じゃがの。
ここに来る前、小遣い稼ぎで城で働いておってな。その時の王が『メダル作ったからみんな持ってけ』って配り歩いてたモノ――実際、価値はそんなにないのじゃ」
「あ、あぁよかった……もし王族関係者なら、アタシらの首がなかった所だよ……」
「別にそうであっても、そんなことはさせんぞ?
仮に問題になっても、あのコインや兜マニアの食指が動くモノを送れば、お咎めなしになるのじゃし。まぁ、それは良いとして――」
イヴはいつもの悪戯な笑みを浮かべ、クレアの下腹部をポンポンと叩いた。
「ちゃんとここに“子種”を注いでもらったか? んんっ?」
「ば、バカなこと言うんじゃないよ――っ!?」
「“月の障り”が終わった直後じゃし、種は付いておらぬがの。
順番が先でも後でも、ちゃんと式と披露宴はするのじゃぞ?
んで、一週間ぐらい宴会をやるのじゃ。酒と飯食い放題で」
「~~――ッ!!」
顔を真っ赤にしたクレアに、イヴは矢継ぎ早に昨晩の様子を重ねて尋ねはじめた。
何回したのか、ちゃんと前戯はしっかり時間をとったのか、ピロートークはしたのか等々……クレアが答えないと、今度は進次郎に目が向けられる。
真面目に答えれば、クレアからイヴから何を言われるか分かったものじゃない――口元を掻きながら乾いた笑いで誤魔化すしか方法が無かった。
「このお子ちゃまカップルはまったく……。
初々しいと言えばそれまでじゃが、この二日の内にしっかりヤっておくんじゃぞ?
荒馬から落ちて、下半身不随なんてなったら、それこそ種付けプレスなんてのも出来ないからのう、にゃっはっはー!」
「ら、荒馬って、ここでそんな馬に乗らない――あ゛っ、そうだ!?」
「やはり忘れておったか……まぁ、せいぜい騎馬に乗る日に備え、夜もキバることじゃな」
“星めぐり祭”の後――進次郎は、この国の王女・クリアスと共に《ケンタウロス》を“捕え”にゆくのである。
※【6章 星降る夜に】の最終話、タイトルの~恋もして~の部分まで来ました
明日より、~路銀を稼いで~の“路”にさしかかる、中盤の最後となる“王女の依頼”を遂行する7章(全7話)が始まります




