第7話 星めぐり祭(逢瀬)
路地を駆け続けたせいで、クレアは汗だくになってしまっていた。
角の向こうを覗き込もうと、わずかに足を止めただけで大量の汗が噴き出してくる。
事前に湯屋に行って汗を流したのが意味がなくなってしまった……鬱々とした気持ちがせり上がって来るが、今はそれに苛まれている余裕はなかった。
(誰がこんな無茶苦茶な建て方したんだい!)
人の往来や、利便性を考慮していない。肩で息をしながら、業者を呪った。
道中では何度も追っ手に姿を見つかり、その度に目についた路地に飛び込む――。
住み慣れた地とは言え“自由区”は広く、滅多に足を向けぬ場所も多い。堂々巡りを繰り返しながら、だんだんと大通りから離れていってしまっていた。
冷静になっていれば、迷わないような道だ。一度気持ちを落ち着かせようと、少し開けた場所で、クレアは疲労で一杯になった身体を休めることにした。
息を整える間、考えていたのは待ち人・進次郎のことだった。
待ち合わせの時間より一時間以上も早くから待っていたが、今はその時間をゆうに過ぎてしまっているだろう――。
もしかしたら進次郎も、追っ手と鉢合わせしてしまうかもしれない。
クレア自身も人のことはあまり言えないが、喧嘩弱そうな彼が襲われでもしたら大変だ。
なのに……
(シンジ……早く私を見つけておくれよ……)
進次郎は頼りないから守ってやらなければならない。
そう思っているのに、自身の心は彼が助けに来てくれるのを、守ってくれるのを待っていた。
イヴの言葉の通りだった。自分で既に答えを出していた――自虐的な笑みを浮かべ、はぁ……とクレアは息を整える。
――会って答えを出そう
そう固く決心し、一歩を踏み出そうとした時……クレアの視界が急にグラッと揺れるのを感じた。
◆ ◆ ◆
『――いたぞ! 待ちやがれこのアマッ!』
ほどなくして、追っ手の怒号がクレアの背に投げかけられた。
クレアは落ち着いた様子で、ガタッガタッと側溝の石蓋を踏み慣らしながら、再び夜のとばりに覆われた路地に身を投じる。
その後すぐ、追っ手の男たちが追う。その足を石蓋に乗せたその時――男たちの眼前の石蓋がせり上ったかと思うと、ガゴンッと、重い石蓋を跳ね上げられた。
「――我が同胞よッ! 助けに参ったぞッ!」
そこより現れたのは、ハゲ頭の髭面の男――。
かつてクレアにつきまとっていたドワーフ、イヴの父親であった。
ドヤ顔を決めているそれを中心に、シン……とした静寂が辺りを包み込んだ。
「……って、おお? 我が同胞・クレアどこじゃ?」
周囲を見渡してもいるのはチンピラのような男四人と、体毛を逆立てた黒い雌猫だけである。
「あるぇ? さっきまで、確かに存在を感じていたはずなのじゃが……。
う、うぅむ、どうして急に消えたんじゃ……?」
真っ白な髭を撫でながら『勘が鈍ったか……』と、僅かばかりに“老い”を感じ始めてもいた。
「なぁ、そこのガキンチョども。儂のクレアちゃんを知らんか?」
「な、何だてめぇッ! あのアマは俺らが追ってんだよッ!」
「追ってる、じゃとォォ……?」
ハゲ頭に太い血管が浮かび上がる。
「儂の女じゃのに、ポっと出の間男に寝取られ、策略によって儂は収容所にぶち込まれ――。
やっと釈放され、可愛くて仕方ない天使の娘と買い物していたら、そいつに小児性愛者と間違われた挙句、その愛娘にもボコられ嫌われ――。
話はかみ合わぬ、突然奇声を発する、壁や人形に話しかけてはキレる奴らの収容所に投げ込まれ、『ロリドワーフっていいよな……ツルツルに剃り上げたい』って危ない発言し続けるガキンチョと同室にされ――。
そんな地獄から娘が救い出してくれたら、今度はまた別の男が、儂の女にちょっかい出そうとしておるとな――もっ、もう許さんぞお前らァァァァッ!!」
それと同じくして、別の側溝の蓋が跳ね上げられた。
そこからピョコンッと褐色肌の女の子が頭を覗かせ、続けて犬の頭も現れる。
「その意気じゃトーちゃん! 思い切りぶちのめすのじゃー!
女に花、ナッツにエール酒、油に炎! そして、祭りに喧嘩!
わんわんっ、アタシらも一人ずつ叩き潰すとするのじゃーっ!」
「ウォンッ!」
犬頭の《コボルド》の手には木製のこん棒が、幼女のドワーフの手にはウォーハンマーが握られている。
イヴとイヌ――彼女が城に繋がる地下通路に向かっている最中、財布を忘れ事務所に戻って来ようとしていたワンコと遭遇し、事情を説明してその背に乗せてもらっていた。彼女が早く到達できたのは、ワンコのおかげでもある。
親父と幼女と犬――。
星降る夜空に悲鳴が届けられるまで、そう多くの時間を要しなかった。
◆ ◆ ◆
祭りで賑わう大通りは、ごうごうとうねりをあげる大河のようであった。
城の方に向かう者、城門の方に向かう者、脇に抜け思い思いの憩いを求めにゆく者――それぞれが“川の中”でぶつかり合う。
覚悟を決めて渡った進次郎であるものの、やっとの思いで“向こう岸”に辿り着けた時には、相当な距離を流されてしまっていた。
しかし、ここまで来れば目と鼻の距離だ。
人の流れに揉みくちゃにされ、フラフラになっている身体から最後の力を振り絞った。
――きっかけ と なった ばしょ で まつ
強情な彼女のことだ、何があってもそこに戻って来るだろう。
進次郎には思い当たる場所が一つだけあった。“きっかけ”とは何のことなのか、まるで見当もつかないが、彼にとっての“きっかけ”はそれである。
最後の二つのマークの【花と手と糸】に関しても未解読のままだ。
(そう言えば、イヴも変なこと言ってたな……)
『“衣装”は期待していい。じゃが、悔しいかな……ある材料が欠けておるせいで、あれはまだ“未完成”じゃ。それは世界に一つしかないもの、アタシの手ではどうやっても“完成品”にはならぬ』
どういうことなのか。答えが分からないまま石畳の緩やかな坂を上を駆けあがった。
群青色のとばりを押しのける、薄ぼんやりとした橙の灯りがありがたい。
(――ッ、と、鳥の鳴き声か?)
ふと路地から、男の悲鳴のような声が聞こえ、身体を強張らせた。
心臓が握りつぶされるかのような恐怖を感じた進次郎であったが『女の声はしないので大丈夫だ』と、根拠もない言葉で自分を落ち着かせる。
しかし、悠長にしていてはその“恐れ”も現実の元になってしまいかねない――“謎解き”はひとまず後回しにし、小走りからギアを変えた。
幸いにも、彼の“解答”は間違ってはいなかった。
その場所――クレアと初めて仕事をした【横断歩道】に差し掛かった時、闇の向こうから男と女がやり合っている声が聞こえてきたのである。
『――ぐっ、な、何てババアだ……!』
『アンタかい! 覚悟しなよッ!!』
黒い人影がよろよろと後ずさりしている。
頬をおさえている所からして、恐らく顔をぶん殴られたのだろう。
その奥には殴った者――赤い着物を纏った女が立っており、その顔が見えなくとも怒りのオーラに包まれていることが分かった。
進次郎にもひしひしと伝わってくるが、それに“怯え”よりも“歓喜”の感情を覚えた。
(いつものクレアだ――ああ、無事で良かった……)
だが、安心したのもつかの間……暗闇の中で、月明かりを反射したものが見えた。
『そんな得物振り回しても効果がないって、いつになったら気づくんだい!』
『るせぇッ!!』
再びそれがギラリ……と恐ろしい輝きを放ち、宙に白い筋を描く。
その円弧は途中で止まり右に左に揺れ動いては、苦悶の声と共に女から離れる。
――強い女だ
進次郎は看板を握りしめている。
それをいつ手に取ったのか分からない。
考えるよりも先に、進次郎の身体が動いていた。
「――人の女に、何してんだッ!!」
ガンッ――と、迷いなく男の後頭部を殴りつける。
その一瞬が、フラッシュを焚いたかのように明るく見えた。
低い音が耳の中で何度も響く。スローに流れてゆく世界の中、驚愕から満面の笑みに変わったクレアの表情は、進次郎にとって生涯忘れ得ぬものとなるであろう。
「シンジ――やっと来てくれた……ッ」
今にも泣き出しそうな声であった。
口元を両手で覆いながら、じっと正面にいる者を見つめている。
「クレア――すまない、“仕事”が長引いた」
「ううん、そっちも大変な“現場”だったんだね……」
クレアはそれ以上の言葉は発せなかった。
無事でよかった。文句の一つでも言ってやろうと思っていたのに、喜びがクレア胸を一杯に満たし、それ以上の言葉は出てこなかった。
しかし、溜まり溜まった鬱憤は決して消えることはない。
クレアは右足を大きく後ろに引くと、
「こいつで発散させてもらおうかねっ!」
サッカーボールを蹴るかのように、足元で呻く男の顔を思い切り蹴り上げた。
頭はあるが、中の意識は遠くに飛んでゆく……小さな呻きと共に、男はくたりと全体重を石畳の上に預けた。
それに進次郎は『扱いきれるだろうか……』と、目の前のじゃじゃ馬を見やった。
その視線に気づいたクレアは、はにかんだような苦笑いを浮かべるしかない。
――クレアはじゃじゃ馬、御せぬままでもいい。
それが無ければ惚れてはいない。
彼女のそんなところに惚れてしまっているのだから。
「まぁそれに、止める術も持っているしな」
「え――?」
「ちょっと来てくれ」
「ちょ、ちょっと――!?」
彼女の返事を待たぬまま、その小さな柔らかい手をとり、少し先まで歩いた。
強引だったものの、クレアは何も言わずについてゆく。
そこまではわずか十メートル程度だったが、それでも彼の“男らしさ”を感じるには十分な距離であった。
二人の眼前には今、白い梯子のような線が描かれた道が映っている。
「……解読、できたんだね」
「ワンコの暗号との二段構えは難解だったよ……。
それに、カマの言葉がなきゃハッキリとした答えはでなかったし」
「か、釜……?」
まさに闇鍋だった、と進次郎は独り言のように呟いた。
「だけど、そのおかげで大事なことに気づかされたよ。
いや、既に気づいていたけど、気づかないフリをしてたってだけか……」
「う、うん……」
独特の空気に、クレアは顔を引き締めた。
それを見た進次郎は、覚悟を決めろと己に言い聞かせ、彼女と正面から向き合う。
「俺、元々は職人の世界に渡る気はなかったんだよ……。
ただ『やらなくちゃならない』って義務感だけでやってたんだ。
だけど、クレアと一緒にこの【横断歩道】を設けた時、『この仕事やっていてよかった』って初めて思った。
それは、近隣の住人に喜ばれたからじゃない。それを見て、涙を流すほど実直で純粋な、自分の仕事に誇りを持っている人と一緒に作業していたからだ。
もっと一緒に仕事して、もっとその人を喜ばせたい――そう思っている内に、いつしかその人に惹かれていた」
「…………」
「俺はこの世界の住人じゃないし、一人じゃ生きていけないけど――」
クレアは次の言葉を待っていた。
期待と緊張で“衣装”の色に負けないほど顔を赤らめ、今にも倒れそうなほどである。
「クレアのことが好きだ――ずっと一緒に仕事をして、ずっと一緒にいたい」
――言ってしまった
どちらもそう思った。
これまでの関係に一歩踏み込む、もう後戻りできない言葉であった。
クレアは押し黙り、前髪が地面に向かって垂れるほど顔を伏せている。
今度は進次郎が次の言葉を待つ。
「――ね」
それは、今にも消え入りそうな、かすれた小さな声であった。
「わ、私はアンタの面倒を見るって決めたんだからさ。
だ、だから――こ、これからもっ、ずっと面倒見てあげるよっ!」
言ってからクレアは相変わらず『素直じゃないな』と思っていた。
胸の鼓動が耳の中で大きく響く。
今日、今この時ぐらいは素直な口をきいてもいいだろう――
「わ、私もシンジのことが、す、好き……だからっ!」
そう思った時はもう、彼女の口が動いていた。
言った方も、言われた方も顔が熱い。石畳が柔らかいマットになったかと思えるほど、世界がゆらゆらと揺れている。
互いに倒れぬよう、支え合うかように自然と身体を寄り添わせた。




