第3話 陰と陽
夜半過ぎ、東端の大公領・ラウェアの空にはどんよりと厚い雲がかかり、強い風によってざわめく音が轟いていた。
大公が居城するラウェア城の近くのある邸宅――天蓋で覆われたベッドの上では、ヘッドボードに背を預け、満足気な笑みを浮かべる裸の男。その横には、うつ伏せに横たわっている亜麻色の艶髪をした、裸の少女がいた。光を失ったような虚ろな目は、窓から覗く暗雲をずっと見つめている。
くぐもった女のすすり泣きも途絶え、今では風が戸板を叩く音だけがただ空しく響く。目から流れ出した少女の涙は枯れ果て、その水筋だけが顔に残されている。
代わりに、女の股ぐらからは“男の欲”と“純潔”が、痛ましくあふれ出した。
「奴の“贈り物”の中で、一番良い物だな。なぁ、〔シルヴィア〕――」
裸の男・ラガンは、少女のブロンドの髪を撫で上げた。
シルヴィアと呼ばれた少女は嫌悪を感じたが、その表情は一切変えなかった。
彼女こそが、政略結婚に使われたダヴィッドの娘である。
だが、嫁ぎ先は予定通りにはいかなかった。
「――あの、お坊ちゃんには勿体ない娘よ」
彼女は表向きには、公家の主・エミリオの嫁に来たことになっていた。
ダヴィッドの家は代々大公領の重職に就いており、今もなお太いパイプを所持している。
それは公家にまで繋がり、ダヴィッドはそこに愛娘を秘密裏に与えたのだが……その公家へのパイプには、強大なバルブが設けられていたのである。
摂政として国を掌握している彼・ラガンにとって、傀儡と化した公家など無いに等しい。
ラガンは好色としても有名である。見目麗しく、どこかの一国の長の正妻となっていてもおかしくない女を送られて来れば、彼の餌食となるのはまず間違いない。
仕えている主君の嫁にすら『中古で十分だ』と、国にやって来たばかりのシルヴィアを犯したのだった。
――お前は既に死んだと思う。許せ、シルヴィア……
彼女や父・ダヴィッドには、こうなることは織り込み済みであった。
父親の悲痛な声を思い出してしまい、湧き上がって来た“感情”をぐっと呑み込む。
もう二度と、幸せだった日は戻らないだろう。父親の計らいで、どちらの陣営が勝利しても生きてゆけるようにはなっているが、どちらにしても、こぼれた水は器には戻らない。
彼女も武人の娘。“目的”を果たすためであれば、例え純潔を失い、身体中を穢され、孕むことも、命を落とすことすらも厭わない覚悟を決めていた――。
◆ ◆ ◆
翌日、クレアはイヴと共に“ロイヤル・ストリート”にある服飾店を回っていた。
陽はもう高くまで昇っており、日焼け肌の上を汗の珠がつたう。
それを指先で拭いながら、クレアはうだる暑さに参ったかのように、深いため息を吐いた。ギラギラと輝く太陽のせいか、心なしか通りを歩く人も少ないように思えた。
“自由市場”にも服飾店はある。しかし、イヴに『ちゃんとした“勝負服”を用意しろ』と言われ、渋々連れて来られたのである。
……が、店を回り始めて三件目。クレアはもう疲労困憊となり、肩をガックリと落としていた。
「二度とあの店に行けないよ……」
「あんなぼろ切れを高値で売るような店なんざ、行く必要ないのじゃ!
いやーっ、やはり納得のいく物はオーダーメイド・ハンドメイドに限るのう。
どうじゃっ! アタシが作った方が断然よいじゃろっ! なっ? なっ?」
クレアが手にしている紙袋には、“星めぐり祭”用の“衣装”が入っている。
だがそれは、イヴが作った賜物と言っても過言ではない、既製品とはほど遠い物であった。
――もういいっ、アタシが作る!
昔は衣類を作る家庭も多く、服屋よりも布屋や手芸店の方が多くあったものだ。しかしそれも、街の発展と同時に服屋が重宝されるようになってゆく――。
既製品で見立てていたイヴであったが、あれでもないこれでもない、と幼女の着せ替え人形になっている内に、“病気”とも言えるドワーフの血が騒いでしまった。
そうなると誰も止められない。奥の作業場のミシンを勝手に使い、仕立て直し始めたのである。
結果……元は赤い生地に白襟だけの、だらっとしたセール品が――シンプルな形でありながらも、女の流線をくっきりと浮かび上がらせ、裾などには萌木と白い花が咲き乱れる刺繍があしらわれた高級な着物に変貌したのである。
『あれと同じのはないの?』
『あれの色違いってない?』
それを知らず、祭り用の衣装を選びにやって来た女たちが店にトドメを刺した。
もはや店員の目は笑っておらず、『早く帰れ』と憎しみがこめられていた。
「――しかし、お主らをけしかけたアタシが言うのも何じゃが……ホントに、それでいいのかの?」
「う、ま、まぁ……その、言ってしまったのだから仕方ない、だろう?」
次の店に向かっている最中、イヴの言葉にクレアは返事に困った。
「正直言うと……シンジと一緒ににいると、記憶と言うか、意識が一瞬飛ぶことがあるんだよ……」
「二人の世界に入ってか?」
「ち、違うよっ!?
でも、私が私でない、みたいな感じがしてさ……変なこと口走ってからハッとするんだよね」
クレアはそれが気になっていた。
ぼうっとしていると、気がついたら時間が飛んでいた――ようなことはあるものの、他人になったような感覚は初めてである。
「ふむ。なら、ヤる約束は、自分がしたものじゃない、と?」
「え、あ……そ、それは……私が言っちゃった、けどさ……」
「ではそれで良いじゃろ。<イントルーダー>の力で、ヤりたい願望が伝染した、とかなら考え直す必要があったがの」
「そ、そんな力もあるってのかい!?」
「知らん。けど、あの男の様子を見てりゃ、破裂しそうなほど溜まってるのは間違いないのじゃ」
「え、えええ……っ!?」
「アレも盛りの頃、理性で抑え込んでいるだけじゃ。
女と一つ屋根の下で暮らしていて、一人になる場所がない。
旬が過ぎているものの、かわりに脂の乗った女が無防備な姿を晒し、オスを意識させる――深酒でもしたら即座に獣になりかねないから、酒も控えておるのじゃ」
「ところどころ癪に障るけど……」
彼女自身にも自覚のあることなので、怒るに怒れなかった。
ほぼ同じなのだ。男と意識しなかったとしても、“女の欲求”を感じなかったかと問われれば、正直には答えられない。
彼女も女であり、熱に浮かされる夜も少なくない。
もし、同じ悩みを抱えているのならば、これもそうなのかと考え始めた。
――これは恋なのか? ただの情欲なのか?
彼女は自分のそれが、どちらなのか分かっていない。
正直な所、<イントルーダー>の力によると聞いた時は、心の中でホッと息を吐いていたほどだ。
相手に責任を持たせ『不可抗力であったならば』と、自分を納得させられる言い訳ができる状況を作りたかった。
(私って、つくづく卑怯な女だね……)
責任感はあるつもりだ。がしかし、これに関しては受け身でいたかった。本当は分かってはいるのだろうが、“自分自身”が理解しようとしない。
今も『言ってしまったものは仕方ないから』と考え、深く考えないようにしている。どのような結果に転がろうとも、死ぬまでに“女”を知れるのだから、とも――。
「成り行き任せ、だね……」
「ま、それも良いじゃろ。いつか己の答えを直視する時も来ようよ。
どちらにせよ、“その時”のための準備はしっかりしておかんとな」
イヴはそう言うと、“ロイヤル・ストリート”の脇道・路地へと足を向け始めた。
少し入っただけで、燦々と輝く陽の光が遮られ、吹き抜ける風が汗ばんだ肌を冷やしてゆく。
それは、風のせいだけではない。この市場には何度か訪れたことがあっても、絶対に入ることがないであろう路地であり、その薄暗さにはどこか足がすくむような不安を感じていた。
「ど、どこに行くってんだい?」
「女の勝負の日――それに挑むに相応しい物を身に付けねばならん。
さぁ、ここじゃ! ここは我が同胞がこっそり営んでおる店、覚悟を決めるんじゃぞー、にししっ!」
イヴは悪戯な笑みを浮かべながら、まだ昼にも関わらず、室内で燭台を掲げている店の扉を開いた――。




