第4話 置いてけぼり
二人の朝は、どんどんがんがんと大きな騒音から始まった。
まだ朝と呼ぶには早い頃だ。しとしとと雨が降っているせいで、騒音がより響き渡る。
イヴが何らかの作業を始めたことはすぐに分かった。だが、事務所からの止むことを知らない音は、惰眠を貪りたい者たちにとってはた迷惑なものだ。
獣のような唸りをあげていたクレアもついに耐えきれず、鼻を床を階段を荒々しく鳴らしながら降りて行った。
「――イヴッ! う゛るさいぞっ!」
「む? 扉の修理してやってるのじゃ、多少は我慢せい」
「こんな時間からするなっ! ああもう、寝くさしてしまった……」
「作業ができる日は、楽しくてしょうがないのじゃっ。
ああ、後で木板などの材料が届くから、その荷受けと搬入、それと代金もよろしくの」
「なっ!? か、勝手に買うんじゃない!」
「どのみち必要になるんじゃ。
今は大聖堂を建造してるせいで、木材が高騰してるのじゃし。
卸値で買って来ただけありがたいと思え」
「う、むうぅ……」
進次郎も完全に目が覚めてしまったのか、苦い顔をしているクレアの後ろで から、大あくびと共にトントンと音を立てながら階段を下りてきていた。
二人に普通に挨拶をしてからトイレに入り、顔を洗い、湯を沸かす準備を行う。たどたどしいながらも、竈の火の起こし方にも慣れて来ており、パチ……パチ……と音を立てる薪の音と、その芳しい匂いを嗅ぎながらコーヒーを淹れる準備をする――これが進次郎の朝である。
イヴは半目でそれを眺めていた。そして、呆れ顔と共に傍に居るクレアの大きな尻を引っぱ叩いた。いい音が事務所内に鳴り響く。
「――ッーー!? な、何するんだいッ!」
「お主の仕事じゃろうが」
「お、お茶汲みは事務や下っ端の仕事だよっ……!
その……シンジの淹れたコーヒーのが美味しいから、ってのもあるけど……」
「まぁ、二人がそれでいいなら構わぬけどな……」
物好きな奴らじゃ、とイヴは溜息を吐きながら修理し終えたばかりの扉を戻し、ゆっくりとクレアと共にテーブルについた。
雨はいつの間にか止んでいた。雲間から差し込んだ低い太陽の日差しが、濡れた石畳をキラキラと輝かせているのを眺めながら、ふと何かを思い出したように口を開いた。
「ああそうじゃ、近く《タウロス》の運送屋が掘削機持って来るからの」
「掘削機?」
事務所内にふわりと漂うコーヒーの香に小鼻を膨らませるイヴの横で、クレアは『何でまたそんなのを』と、眉を潜めた。
ちょうどその時、進次郎がひょっこりと顔を出した。
「――あれ、もう柱の段取りがついたのか?」
三人分のコップを手にした進次郎は、そう言いながら一番近くのクレアの隣の席に腰かけた。
いつもは彼女と対面の席が定位置であるが、今回はそこにイヴが座っていたからである。
「うむ。鉄柱はさすがにコストがかかりすぎるので、木になるがの」
「木か……腐敗や強風が心配だな……」
「お主の言う仕様じゃと、鉄であっても持たん。
錆びない柱は無いこともないが、あんな物を使うわけにはいかんしのう。
短く・太めなのにして、耐食処理しておけば木でも十年くらいは大丈夫じゃ」
なるほど、と頷いた進次郎はクレアの様子がおかしいことに気付いた。
「……」
「あれ、クレア? どうかしたのか?」
「いいんだよ……私なんて置いてけぼりで……。二人で会話してておくれよ……」
クレアは下唇を出し、拗ねた様子でコーヒーを啜っている。
進次郎はしまったと表情を浮かべ、慌てて考えているそれを彼女に説明し始めた。
説明を聞いて納得の表情をしたが、唇は尖らせたままである。
「――ふぅん……その【標識】とやらを立てるのに、板と柱がいるんだね。
それで、 私 を 無 視 し て 、イヴと話を進めてたってことだね」
「そ、その、無視するつもりはなかったんだが……忘れてたんだ」
「一緒だよっ! ――まったく、何だい二人して」
「す、すまん……」
その二人を見たイヴは、何かを閃いたようにニマリと白い歯を見せた。
「罰として、シンジはクレアの飯を食い続けるのじゃ。
いやー、出された物を全て――手料理を腹いっぱいまで食わされるのは、何て拷問じゃろうなー」
「い、イヴッ!?」
悪戯な声音のイヴに、クレアは慌てて声をあげた。
進次郎はそれに思わずたじろいでしまう。クレアの料理は多少はマシになったものの、未だに失敗率が高い。ここ最近は口にしていなくても、胃がそれを覚え、拒絶反応を示しかけていた。
だが、ここで『嫌だ』と言えば、彼女を傷付けかねない――進次郎は、震えながら首を縦に振るしかできなかった。
「た、楽しみに覚悟している……」
「……お主はこれまで、何を喰わされ続けてきたんじゃ……」
イヴの心配そうな声に、クレアは乾いた笑いを浮かべるしかできないでいた。
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その後すぐ、イヴとクレアは何やら“支度”があるらしく、進次郎は『日暮れまで適当に遊んでこい』と追い出されてしまった。
適当に――と言っても彼が知るのは、クレアの馴染みの食堂と市場しかない。
他に仕事で色々回ったが、もう一度そこに行けと言われると難しくなるほどの土地勘である。食堂は『クレアが晩飯を作る』と言っている手前で、別の物で腹を満たすのは失礼にあたるだろう。
なので、雨上がりの水たまりで遊んでいる子供たちを脇目に、真っ直ぐ“市場”を目指していた。
(この前の“墨汁”は、流石に胃がおかしなことになったからな……。
ついでだ、今回はヨーグルトなどで胃の粘膜を保護しておこう……)
連日の“市場”通いも、今ではずいぶんと慣れたものであった。
文化はまるで違えど、食文化は“元の世界”と似通った部分がある。牛乳があれば、発酵食品も産まれてるだろうと“市場”を歩いていると――
「あ――」
引き寄せられるかのように、無意識にそこに足を進めていたようだ。
進次郎の視線の先には、例のシスターが同じ路地の前に立っていたのである。
彼女もそれに気づき、小走り気味に駆け寄って来た。
「こんにちは、シンジさんっ。またお会いできましたね」
「こ、こんにちは……って、あれ? どうして俺の名前を?」
「あ……ふふっ、貴方は有名ですから」
「マジで? ……えっと?」
「あぁ、申し遅れました……クリスティーナ――と申します」
「クリスティーナさんか、よろしくね」
「呼び捨てで結構ですよ。さん付けだと、なんだか他人行儀ですし」
「わ、分かった……く、クリスティーナ?」
「はい、よろしくお願いします。ふふっ……」
「どうしたの?」
「いえ、実は……『また会わせてください』って神にお願いしちゃったんです。
……ズルしちゃいました」
目を細め、舌をペロっと出す彼女のお茶目な仕草は、見た目の真面目さとのギャップのせいか、進次郎の胸を強く響かせた。
周囲の者の視線や雑音がシャットアウトされ、耳の奥でキーン……とした音が響く。
「その、クリスティーナは、いつもここにいるの?」
「そうですね……あれ? そう言えばどうしてでしょうね……」
天然なのか、クリスティーナはぷっくりと膨らませた下唇に指をやりながら、うーん……と考え込み始めた。
「ここに居れば、貴方と会えるから――」
「え……?」
「ってのは冗談で、子供たちのお菓子の材料を買っていたんでした」
わずかに前のめりになった進次郎は、足を滑らせてしまった。
天然なのか、小悪魔なのか……『油断ならない女性だ』と考えると同時に、どこかに安堵感も覚えている。
「――ですが、半分は本当ですよ?
ここでお話できるのは、貴方だけですので……」
「そ、そうか……でも、材料ってことは一から作ってるの?」
「はい! お菓子作りは好きなのですよ。
シンジさんは、甘いものはお好きですか?」
「ああ、大好きだな。
ケーキとかクッキーとか、甘ったるい物以外はだいたい好きだ」
「まぁっ! なら、今度ぜひ食べにいらしてください。
私、<雪解け屋根の教会>ってクッキーの家を作るのが、大得意なんですよ。
子供たちも好きですし、シンジさんもきっと喜んでくれると思います」
「お、いいねー。子供たちってことは、お祈りか何かで来てるの?」
「いえ……孤児、なんです。みんな、先の戦争で親を亡くしてしまった……」
「あ、そ、そうだったのか……すまない……」
進次郎が謝ったことに、クリスティーナはハッとした表情を浮かべ、慌てて手を振り始めた。
「い、いえっ、そんな謝らないでください――って、いけない! 今日のお菓子は時間かかるのでした!
連日で申し訳ありませんが、ここで失礼させていただきますねっ!」
「そ、そうか……。あ、ちょっと聞きたいんだけど、この近くにヨーグルト――あ、えーっと……牛乳らの発酵食品らを扱ってる店ってある?」
「ヨーグルト……この季節ですし、多くは売ってないと思いますね……。
牛乳なら、この路地の向こうにある売店にありますが」
「牛乳か、まぁそれでも大丈夫か――ありがとう、行ってみるよ」
「いえ、こちらこそ。では、失礼しますね」
礼儀正しく、すっと頭を下げたクリスティーナを見送ると同時に、雑多な騒音が鉄砲水のように進次郎の耳に飛び込んできた。
胸に開いた空虚にわだかまりが満ち、夢に浮かされたような状態のまま、彼女が指差した路地の中に足を踏み入れてゆく。
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数時間後――陽が傾き、乾いた地面に長い影が伸びていた。
その影は時おり首に右手をやり、マッサージするように揺れ動いたかと思うと、今度は肩をぐるぐると回す動きをする。
(うーん、肩こりか筋肉痛か……馬車の中で縮こまって寝ていたせいか?
いや、クレアを運んだ時かもしれん……あの時、グチッて感覚がしたし……)
それは、クリスティーナと別れた後からであった。
緊張していたせいか右の首筋から肩が傷み、頭にずんと鈍痛が走り始めたのである。
牛乳を売ってるような店も見つからずじまい。市場の大通りで茶を飲んで時間を潰していたが、一向に治まる気配がしなかった。
太陽の光で温めると多少マシになるので、恐らくは肩こりだろうと考えている。
しかし、クレアの一件も関係していないとは言い切れなかった。彼女を運ぼうとした際、ローブがはだけ、変な姿勢で首を伸ばして自爆した――そのせいで、あまり記憶に残っていない。
(ライムグリーン……見た所で何だ、って所だけど……持つのか、俺……?
どこかでSOHOでもあればいいんだが……いきなり行くのもデンジャラスだしな……)
進次郎は今、欲求を理性で抑えている状態であった。
クレアをそのような目で見てはいけない、と自制しているものの、この所の彼女はそれを揺るがしにくるのだ。
イヴがそれをけしかけているとは気づいていない。
“あやまち”を犯さぬよう、イヴから酒を勧められても断るようにしている。クレアのように悪酔いはしない体質であるが、念のため用心していた。
――事務所に帰れば、クレアの料理が待っている。
彼女の料理は気持ちをリセットさせてくれるはずだ。進次郎はそう思いながら、事務所の扉に手をかけた。
「……ん? なんだこの匂い」
腹の虫を呼び起こすような、ふわりと香ばしい匂いが事務所内いっぱいに広がっていた。
ちょうど出来上がった所なのだろう、炊事場からカッ……カッ……とフライパンを擦る音が聞こえ、イヴの『完成じゃ!』と元気な声が響き渡った。
「む――おおっ、いいところに帰って来たのう!
つい今さっき、<ピーラヴ>が完成したところじゃ!」
「ぴ、<ピーラヴ>……?」
「うむ。アタシの国・【ゲブゼリア】の伝統料理じゃ。
あのアンポンタンに教えるのに苦労したが、美味くできたと思うのじゃ!」
「アンポンタンって……も、もしかしてクレアが作ったのか!?」
「そうじゃ。あ奴、魚が嫌いって言うからの……急きょ、鳥肉のそれに変えたのじゃ」
「……ああそう言えば、魚だけは涙目になりながら食ってたな。
あの干物を食っていれば、嫌いになるのも無理はない物だが……」
クレアは魚が大嫌いである。
海がないため、この国で出回っているのは干物がメインとなっているのだが、その味は何とも生臭いだけのもので、進次郎もこれはと顔をしかめた。
それを使うぐらいなら鶏肉の方が断然いい――そう思っていると、料理皿を手にしたはにかみ顔のクレアが姿を現し、思わず進次郎はそれに見惚れてしまっていた。
「も、もしかして、<ピーラヴ>って米料理なのか!?」
「うむ! お主の『米が食いたい』ってわがままを、クレアが聞いて苦労して手に入れて来たんじゃぞ」
「い、いいい、イヴッ!?」
「ほ、本当……なのか?」
「たっ、たまたまだよ、たまたま! ウィザムの村は一部で米を作ってるって耳にしてね!
アンタも頑張って働いてくれてるし、そ、その労をねぎらってやるのも、雇い主の義務ってもんだと、お、思ってさ!」
「その義務に大枚を――おっと」
イヴを目でいさめたクレアに、進次郎は胸がじんと熱くなるのを感じていた。
それを誤魔化すように、急いでテーブルにつき<ピーラヴ>――進次郎の世界では、恐らく“ピラフ”と呼ばれるであろう料理をじっと見つめている。
「いただきます!」
「う、うむ……」
「む――!」
「や、やはり……その、失敗して――」
「美味いっ! 想像以上に美味いぞっ!」
「“想像以上”は余計だよっ……で、でも本当かい?」
「ああっ! これなら毎日食いたいほどだ!」
「え……あ、う、うんっ……」
顔を朱に染めるクレアに、イヴは『どうだ』と言わんばかりのしたり顔を向けた。
策謀にハマったと知らぬ進次郎は、発した言葉の意味を深く考えないまま、せわしなくスプーンを口に運び続けている。




