第2話 キャッチ アップ
“この世界”の衣服に着替え終えた進次郎は、薄ぼけた廊下の先にある階段を下り、まっすぐに診療所の自宅部分へと足を向けた。
自身が居た病室は二階にあった。
診療所というだけあって、古めかしい板張りの廊下だけでなく、建物全体に薬品のツンとくる臭いが染み込んでいる。
階段を下りるとすぐの廊下を折り返し、その突き当たりにある真鍮の取っ手をゆっくりと押し下げる。
開かれた扉の隙間から、ふわりとパンとコーヒーの温かい香りが流れ出てくる――これが、“ここ”にやって来てからの日常であった。
「――おお、シンジか! うむ、顔色が良くなってるな」
「おはようございます。トマスさん」
入ってすぐの場所にテーブルに、真っ白なカットソーのようなチュニックシャツを着た、中年の総髪の男が腰掛けていた。
部屋に入って来たのが進次郎だと分かるなり、その穏やかな顔を崩し、両手を広げながらニマリと唇の両端をあげた。
「何やらリュンカと悶着あったようだな?
顔を赤くし、ツンツンとしていたぞ?」
「少々、愚息の事態に出くわしまして……」
進次郎はそう言うと、視線を真下に向けた。
「ふむ? ――ああ、そう言うことか!
はははっ、あいつも医者になると言うのに、男のイチモツの一つや二つ見れんでどうする!」
トマスと呼ばれた男は、がっはっはと口を大きく広げて笑い始めた。
この者こそがここの診療所の院長であり、先ほどのリュンカの父親なのである。
彼が座るテーブルの反対側には、手の平サイズの丸いパンが一つ用意されており、進次郎は苦笑しながらそこに腰をかけた。
「ま、朝におっ勃つぐらい良くなっている、と言うことだな」
「ええ、おかげさまで。ですが……」
「はっはっは! まだ金の心配をしているのか。
何度も言うように、金は必要ないぞ。拾われた捨て犬のように思っておけばいい」
「うぅむ……」
進次郎は申し訳ない顔を浮かべ、チラりと周囲を見渡し始めた。
お世辞にも立派とは言えない建物だ。
壁にはヒビが入り、ボロボロの床は軋まない場所の方が少ない。下手をすれば踏み抜きそうなほど、ブヨブヨになっている場所すらある。
(医者って、儲かると聞いていたけれど)
トマスはこの近郊で唯一の診療所である、とリュンカは言っていた。
……なのに、トマスは診療代どころか、往診にかかる交通費すら殆ど取らないらしい。
理由は、『倹約家は短命だからだ』だそうだ。つまり、診療費が払えずに命をすり減らす者が多いからである。
良く言えば“献身的”、悪く言えば“お人好し”だ。助けてもらった身であれど、彼のそんなところには呆れるものがあった。
(まぁ、金を払えと言われても困るのだけど……)
今の進次郎には、金を得る術がない。
財布は無事であっても、貨幣は金貨や銀貨などでやりとりされている“この世界”において、“前の世界”の最高額紙幣など紙切れにすぎなかった。
なので、トマスの心意気に安堵したのも事実である。
小銭の方がまだ価値がありそうであったが、小銭は持ち歩かない主義なのだ。
黒い編み革の長財布の中には、五、六枚の最高額の紙幣に、何かのお釣りの五百円玉が一枚しか入っていない。
金は暮らしに直結する。
進次郎は『どうしたものか』と、目の前のパンに齧りついた。
「それにしても、このパン……」
「神妙な顔してどうした? どこか悪いのか?」
「いや、食欲はあるんですが、パンは万国――いや、万世共通なのかなと思いまして」
「ああ、そう言えば、シンジは『ニホン』との国からやって来たんだったな」
「ええ。ですが……」
硬く味気ないパンではあるものの、生前の記憶に近しい物である。
しかし、進次郎が気になったのは、もう一つ別の所にあった。
「この前食べた、あの赤いソースがかかったパンなのですが――」
「おお! あの“レッドソース”は美味かったろう。
このリーランドは様々なソースが特産品でな、それで潤っているんだ」
「ええ。それが気になっていて……」
「気になる?」
「あれ……俺が居た世界では『ケチャップ』って呼ばれる物です」
それに、トマスは頓狂な声をあげた。
「味は少し酸味が強いですが、記憶の通りの物でした。
どんな場所であれ、人間は似たような物を生み出すのか。
それとも何か参考にする物があったのか……ずっとそれが気になっているのです」
進次郎は、すぐにあれがケチャップだと気づいた。
その言葉に、トマスは周囲を警戒するかのように、テーブルに身を乗り出し小声で話し始めた。
「――いいか、シンジ。外では絶対にそれを口にするんじゃないぞ?
“レッドソース”を始めとして、他の“特産品”の出元やレシピが機密事項となっている。
まぁ複製が許可されているし、レシピに関してはあってないようなものだが……。
先ほど、リーランドはそれで潤っていると言ったが、逆に言えばそれらの“利の源泉”を欲さんとする輩もいる。
もし、『出元を知っている』などと言えば――下手すれば、その命すら危ういぞ」
「マジで……?」
「だが、城に申し出ればちゃんと保護してくれるようだ。
それなりの待遇を受け、その関係者にも多額の資金援助もあるのだが――」
「当人は監察下に、関係者には金で口止め、もしくは密告の報酬ってことですか……?」
「その通りだ。しかし、それらも胡散臭いものではあるがな……」
「……と、言うと?」
「名乗り出た者がいるかどうか、そしてその後が何一つ語られないのだ。
噂では城の地下に閉じ込められている、そのまま断頭台にかけられる……と、まで噂されている」
「口封じ……? 手がかりになると思いましたが、それでは……」
二人は乗り出した上半身を戻し、椅子の背もたれに背中を預けた。
元の世界に戻れるかもしれない、と希望の糸口を見たものの、国家機密ともなれば調べることは難しいだろう。
落胆した様子を隠せない進次郎の姿に、トマスはゆっくりと口を開いた。
「しかし、可能性はゼロではない。
王女なら、それについて何かを知っているかもしれん」
「王女?」
「ああ。あの“レッドソース”も、王女が異国から入手したソースを量産したものだ。
謁見が許された時などであれば、それとなく探ることも可能だろう」
「なるほど……。
いやしかし、そんな人たちと謁見する手段なんてあるんですか?」
「ない、こともない」
「と、言うと?」
「シンジがやって来る前、〔アリス〕女王陛下が退任を表明されたのだ。
早くて来年の冬、次の玉座に座る者をご指名になるだろう」
トマスは淡々と言葉を続けた。
「そこで最有力なのが、娘である王女・〔クリアス〕様だ。
しかし、王族内も一枚岩ではない。
前回の王座を逃し、今もなお虎視眈々を狙う一派がおり……彼らは、王女の従兄弟にあたる大公・〔エミリオ〕様を持ち上げてくるだろう」
トマスが進次郎を見やったが、この国の事情なんて知らない進次郎は、何のことかよく分からない顔をしている。
「つまりは、アリス女王のお心一つなのだ。
もし、王座に相応しくないと思えば、たとえ娘であれど容赦なく切り捨てるだろう。
逆に、クリアス王女の働き次第では、確たるものとすることにもなる。
リュンカから聞いたが、なんでも君は道の整備関係の仕事を、その事業主をやっていたそうじゃないか」
「ええ、まぁ……事業主と言うより、跡継ぎの見習いですが」
進次郎は、言いにくそうに答えた。
「女王陛下もそうであったが、王女派は“公共事業の推進”を掲げている。
それらの事業で成果を見せれば、女王より直々に褒章を授けられる――そうなれば、臣下の者とも繋がりができ、謁見の機会を取り付けることも可能だろう?」
「い、いえっ、俺はどちらかと言えば内勤――事務がメインで、現場もあまり出ません。
それに、当然ながらそのような組織、組合、同業他社はあるでしょう?
そんな所に、いきなりやって来た若造が『土木作業承ります』などと言っても、誰も受け入れてやくれやしませんし、叩き潰されて終わりですよ」
トマスはそれに、ニマリと口角をあげた。
「大丈夫だ、私には王都に事業所を構えている者を知っている――どうかね、やってみる価値はあると思うのだが?」
トマスは両腕をテーブルの上に乗せ、再びズイッと身を乗出した。顔はにこやかで温和な物であったが、その声は真剣な物である。
進次郎はそれに顔を引き締め、顎に手をやりながら思案に耽った。
正直な所、彼はその仕事に従事することが嫌だった。兄弟の中で継げるのが己しか残されておらず、やると言わざるを得ない状況であったため、そうすると決めたに過ぎない。
ここ、別の世界にやって来たと理解した時、『全ての“しがらみ”から解放された』と思う気持ちもどこかにあったのだ。
――“魂”には、必ず乗り越えねばならぬ試練が用意されている。
――嫌になり逃げだしても、それは何らかの形も変え、再びやって来る。
――どうしても嫌になり、自らの命を絶つ者もいる。
――だけど、それは次の世でもまた同じ試練が、今度はより酷な状況でやることになるんだよ。
幼い頃、彼は祖母よりこう教わったことがある。
今まさにそれを実感した。最も近い道でもあるが、最も困難な道であろう――。
「トマスさん。そのツテと言うのは――」
彼には『これが“魂”の試練か』と腹をくくり、その身をぐっと乗り出した。
※ソース(Sauce)=源(Source)
ケチャップ(Ketchup)=キャッチ アップ(Catch up)
ソースはケチャップ = 舞台の目的・背景の紹介 です(こじつけですが……w)