表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

3/91

第2話 キャッチ アップ

 “この世界”の衣服に着替え終えた進次郎は、薄ぼけた廊下の先にある階段を下り、まっすぐに診療所の自宅部分へと足を向けた。

 自身が居た病室は二階にあった。

 診療所というだけあって、古めかしい板張りの廊下だけでなく、建物全体に薬品のツンとくる臭いが染み込んでいる。

 階段を下りるとすぐの廊下を折り返し、その突き当たりにある真鍮の取っ手をゆっくりと押し下げる。

 開かれた扉の隙間から、ふわりとパンとコーヒーの温かい香りが流れ出てくる――これが、“ここ”にやって来てからの日常であった。


「――おお、シンジか! うむ、顔色が良くなってるな」

「おはようございます。トマスさん」


 入ってすぐの場所にテーブルに、真っ白なカットソーのようなチュニックシャツを着た、中年の総髪の男が腰掛けていた。

 部屋に入って来たのが進次郎だと分かるなり、その穏やかな顔を崩し、両手を広げながらニマリと唇の両端をあげた。


「何やらリュンカと悶着あったようだな?

 顔を赤くし、ツンツンとしていたぞ?」

「少々、()()の事態に出くわしまして……」


 進次郎はそう言うと、視線を真下に向けた。


「ふむ? ――ああ、そう言うことか!

 はははっ、あいつも医者になると言うのに、男のイチモツの一つや二つ見れんでどうする!」


 トマスと呼ばれた男は、がっはっはと口を大きく広げて笑い始めた。

 この者こそがここの診療所の院長であり、先ほどのリュンカの父親なのである。

 彼が座るテーブルの反対側には、手の平サイズの丸いパンが一つ用意されており、進次郎は苦笑しながらそこに腰をかけた。


「ま、朝におっ勃つぐらい良くなっている、と言うことだな」

「ええ、おかげさまで。ですが……」

「はっはっは! まだ金の心配をしているのか。

 何度も言うように、金は必要ないぞ。拾われた捨て犬のように思っておけばいい」

「うぅむ……」


 進次郎は申し訳ない顔を浮かべ、チラりと周囲を見渡し始めた。

 お世辞にも立派とは言えない建物だ。

 壁にはヒビが入り、ボロボロの床は軋まない場所の方が少ない。下手をすれば踏み抜きそうなほど、ブヨブヨになっている場所すらある。


(医者って、儲かると聞いていたけれど)


 トマスはこの近郊で唯一の診療所である、とリュンカは言っていた。

 ……なのに、トマスは診療代どころか、往診にかかる交通費すら殆ど取らないらしい。

 理由は、『倹約家は短命だからだ』だそうだ。つまり、診療費が払えずに命をすり減らす者が多いからである。

 良く言えば“献身的”、悪く言えば“お人好し”だ。助けてもらった身であれど、彼のそんなところには呆れるものがあった。


(まぁ、金を払えと言われても困るのだけど……)


 今の進次郎には、金を得る術がない。

 財布は無事であっても、貨幣は金貨や銀貨などでやりとりされている“この世界”において、“前の世界”の最高額紙幣など紙切れにすぎなかった。

 なので、トマスの心意気に安堵したのも事実である。

 小銭の方がまだ価値がありそうであったが、小銭は持ち歩かない主義なのだ。

 黒い編み革の長財布の中には、五、六枚の最高額の紙幣に、何かのお釣りの五百円玉が一枚しか入っていない。

 金は暮らしに直結する。

 進次郎は『どうしたものか』と、目の前のパンに齧りついた。


「それにしても、このパン……」

「神妙な顔してどうした? どこか悪いのか?」

「いや、食欲はあるんですが、パンは万国――いや、万()共通なのかなと思いまして」

「ああ、そう言えば、シンジは『ニホン』との国からやって来たんだったな」

「ええ。ですが……」


 硬く味気ないパンではあるものの、生前の記憶に近しい物である。

 しかし、進次郎が気になったのは、もう一つ別の所にあった。


「この前食べた、あの赤いソースがかかったパンなのですが――」

「おお! あの“レッドソース”は美味かったろう。

 このリーランドは様々なソースが特産品でな、それで潤っているんだ」

「ええ。それが気になっていて……」

「気になる?」

「あれ……俺が居た世界では『ケチャップ』って呼ばれる物です」


 それに、トマスは頓狂な声をあげた。


「味は少し酸味が強いですが、記憶の通りの物でした。

 どんな場所であれ、人間は似たような物を生み出すのか。

 それとも何か参考にする物があったのか……ずっとそれが気になっているのです」


 進次郎は、すぐにあれがケチャップだと気づいた。

 その言葉に、トマスは周囲を警戒するかのように、テーブルに身を乗り出し小声で話し始めた。


「――いいか、シンジ。外では絶対にそれを口にするんじゃないぞ?

 “レッドソース”を始めとして、他の“特産品”の出元やレシピが機密事項となっている。

 まぁ複製が許可されているし、レシピに関してはあってないようなものだが……。

 先ほど、リーランドはそれで潤っていると言ったが、逆に言えばそれらの“利の源泉”を欲さんとする輩もいる。

 もし、『出元を知っている』などと言えば――下手すれば、その命すら危ういぞ」

「マジで……?」

「だが、城に申し出ればちゃんと保護してくれるようだ。

 それなりの待遇を受け、その関係者にも多額の資金援助もあるのだが――」

「当人は監察下に、関係者には金で口止め、もしくは密告の報酬ってことですか……?」

「その通りだ。しかし、それらも胡散臭いものではあるがな……」

「……と、言うと?」

「名乗り出た者がいるかどうか、そしてその後が何一つ語られないのだ。

 噂では城の地下に閉じ込められている、そのまま断頭台にかけられる……と、まで噂されている」

「口封じ……? 手がかりになると思いましたが、それでは……」


 二人は乗り出した上半身を戻し、椅子の背もたれに背中を預けた。

 元の世界に戻れるかもしれない、と希望の糸口を見たものの、国家機密ともなれば調べることは難しいだろう。

 落胆した様子を隠せない進次郎の姿に、トマスはゆっくりと口を開いた。


「しかし、可能性はゼロではない。

 王女なら、それについて何かを知っているかもしれん」

「王女?」

「ああ。あの“レッドソース”も、王女が異国から入手したソースを量産したものだ。

 謁見が許された時などであれば、それとなく探ることも可能だろう」

「なるほど……。

 いやしかし、そんな人たちと謁見する手段なんてあるんですか?」

「ない、こともない」

「と、言うと?」

「シンジがやって来る前、〔アリス〕女王陛下が退任を表明されたのだ。

 早くて来年の冬、次の玉座に座る者をご指名になるだろう」


 トマスは淡々と言葉を続けた。


「そこで最有力なのが、娘である王女・〔クリアス〕様だ。

 しかし、王族内も一枚岩ではない。

 前回の王座を逃し、今もなお虎視眈々を狙う一派がおり……彼らは、王女の従兄弟にあたる大公・〔エミリオ〕様を持ち上げてくるだろう」


 トマスが進次郎を見やったが、この国の事情なんて知らない進次郎は、何のことかよく分からない顔をしている。


「つまりは、アリス女王のお心一つなのだ。

 もし、王座に相応しくないと思えば、たとえ娘であれど容赦なく切り捨てるだろう。

 逆に、クリアス王女の働き次第では、確たるものとすることにもなる。

 リュンカから聞いたが、なんでも君は道の整備関係の仕事を、その事業主をやっていたそうじゃないか」

「ええ、まぁ……事業主と言うより、跡継ぎの見習いですが」


 進次郎は、言いにくそうに答えた。


「女王陛下もそうであったが、王女派は“公共事業の推進”を掲げている。

 それらの事業で成果を見せれば、女王より直々に褒章を授けられる――そうなれば、臣下の者とも繋がりができ、謁見の機会を取り付けることも可能だろう?」

「い、いえっ、俺はどちらかと言えば内勤――事務がメインで、現場もあまり出ません。

 それに、当然ながら()()()()()組織、組合、同業他社はあるでしょう?

 そんな所に、いきなりやって来た若造が『土木作業承ります』などと言っても、誰も受け入れてやくれやしませんし、叩き潰されて終わりですよ」


 トマスはそれに、ニマリと口角をあげた。


「大丈夫だ、私には王都に事業所を構えている者を知っている――どうかね、やってみる価値はあると思うのだが?」


 トマスは両腕をテーブルの上に乗せ、再びズイッと身を乗出した。顔はにこやかで温和な物であったが、その声は真剣な物である。

 進次郎はそれに顔を引き締め、顎に手をやりながら思案に耽った。


 正直な所、彼はその仕事に従事することが嫌だった。兄弟の中で継げるのが己しか残されておらず、やると言わざるを得ない状況であったため、そうすると決めたに過ぎない。

 ここ、別の世界にやって来たと理解した時、『全ての“しがらみ”から解放された』と思う気持ちもどこかにあったのだ。


 ――“魂”には、必ず乗り越えねばならぬ試練が用意されている。

 ――嫌になり逃げだしても、それは何らかの形も変え、再びやって来る。

 ――どうしても嫌になり、自らの命を絶つ者もいる。

 ――だけど、それは次の世でもまた同じ試練が、今度はより酷な状況でやることになるんだよ。


 幼い頃、彼は祖母よりこう教わったことがある。

 今まさにそれを実感した。最も近い道でもあるが、最も困難な道であろう――。


「トマスさん。そのツテと言うのは――」


 彼には『これが“魂”の試練か』と腹をくくり、その身をぐっと乗り出した。

※ソース(Sauce)=源(Source)

 ケチャップ(Ketchup)=キャッチ アップ(Catch up)

 

 ソースはケチャップ = 舞台の目的・背景の紹介 です(こじつけですが……w)

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ