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第2話 連休明けの出勤

 二日後の昼過ぎ――王都に帰って来たばかりにも関わらず、進次郎はすぐに“自由市場”に足を向けていた。ずっと同じ姿勢だったせいか身体のあちこちが強張り、筋肉が伸び縮みするたびに関節が鈍く軋みをあげる。

 すぐにベッドに飛び込むなりしたいところであるが、事務所の中はとてもそのようなことができる状況ではなかった。


(はぁ、せっかくの骨休めが台無しだ……)


 夏の装いに変わりつつある歩行者たちを横目に、重々しいため息を吐いた。

 それは、温泉街からの帰り道に見かけた、《ケンタウロス》たちが原因である。

 こっちに来るなとの祈りは空しく、平原を駆けていた半人半馬の彼らは、進次郎らが乗る馬車を煽り始めた。最初こそ我慢していたワンコとイヴだったものの、しつこく煽り立ててくる暴走族(ケンタウロス)についにブチギレ、ハンマーと犬キックで四体ほど吹っ飛ばしてしまったのである。

 保護者でもあるクレアも、治めるどころか煽る側に立った。

 となると――起こることは血みどろの“喧嘩”しか残されていない。チェーンを振り回し、釘こん棒を持った連中を前に、進次郎は新たな世界で目覚めることを覚悟したほどだった。


(しかし、あのラッパの音……いったい何だったんだろうな?)


 だが、最悪の事態は回避された。

 一触即発。いつ“戦争”が始まってもおかしくないにらみ合いの最中、突然どこからかラッパの音が鳴り響いたのだ。それに相手が忌々しげに舌打ちを残して退いたことで、襲撃騒動は治まりを見せた。……かのように見えた。

 問題はそこからだった。馬車の中ではカッカとした女二人が。馬車の外には怒りで馬の操縦が荒くなっている犬が。血の気の多い肉食獣たちの怒りは、そんなもので治まろうはずもない。

 草食の進次郎には肩身が狭く、刺激せぬよう一人静かに縮こまるしかなかったのだ。


 鬱々とした気分のせいか、薄雲がかかる青々とした空もどんよりと暗く感じている。

 帰ってきてからも、クレアは事務所に入るなり酒をがぶがぶ飲み始め、イヴも『用事がある!』と肩を怒らせながら王都のどこかに姿を消した――。

 しばらく尾を引きそうな状況である。進次郎は『美味い物でも買って来て、少しでもクレアの機嫌を直してもらおう』と考え、重い身体にムチを打って“自由市場”に出たのだった。


 ピークが過ぎた頃とは言え、“市場”は相変わらず雑踏の音に満ちている。

 クレアの好みも分かってきたため、人混みを掻き分けながら、あれを候補に、これも候補にとテンポよく見て回っていると――ふと、人の流れがゆるやかになっている路地の入口に、いつぞやの肌の白いシスターが居たことに、進次郎は気づいた。


(何か、困っているようだな――)


 吸い寄せられるように足が向いた。紺色のヴェールを被った彼女に近づくにつれて、いつしかその美しい横顔しか見えなくなってしまっていた。

 人にぶつかっては謝り続ける。ナンパなどしたこともない進次郎は、困り顔の彼女にどうしてか声をかけずにはいられない気持ちになっていた。

 目と鼻の先まで近づいたが彼女は気づいていない。どうしたものか――と、考えるより先に、たどたどしく口が開いていた。


「あ、あの……」

「え……?」

「あ、えーっと……」


 進次郎は言葉が出てこなかった。

 元からノープランだったのもあるが、その清く澄んだ声に耳が奪われてしまったのである。声をかけて何もしなければ、ただの下手くそか変質者――しかし、真っ白になった頭の中では、紡ぐべき言葉がまるで思いつかない。

 進次郎はとりあえず、頭に浮かんだままの定型文を口にした。


「い、いい天気ですね……」

「はい。厚雲がかかった、いい天気です」

「え、えーっと……」


 いきなり天気の話はどうなんだと、一人で突っ込んだ進次郎であったが、それに乗ってきたシスターにも驚き、更に言い淀んでしまう。

 ナンパはとにかく会話を途切れさせてはいけない――と聞いたことがあるも、頭では分かっていても、その肝心な頭と口が機能していない。

 何かを言わねばと何度も口を開くが、その言葉を何度も飲み込んでしまう。


「――ぷっ、ふ、ふふっ……」


 何とかして言葉を探す進次郎の姿に、シスターは口元に細い指をやって吹き出した。

 細くしなやかな人差し指を折り曲げ、ぷっくりとした唇をより引き立たせる――血色はあまりよくないのか、雪のような白い指とは少し対照的な色の唇の両端が柔らかく上がっている。

 あまり大きく笑わない笑みであるものの、何となく好感触であると分かった。


「ぷふっ……お、おかしな人ですね、ふふふ……」

「あ、ははは……!」

「すみません……人に話しかけられることなんてないので、何かと思ってしまいました」

「い、いえ、こちらこそすみません……ちょっと、貴女の様子が気になってしまって、ついノープランのまま声を……」

「まぁ! 殺し文句はお持ちなのですね!」

「あ、いや、そんなのじゃなくて――」

「ふふっ、冗談です。ですが……嬉しいです」


 ふっ、と彼女が柔らかな笑みを浮かべた時――突然、教会の鐘が鳴り響いた。

 この街では一日に三回、朝の九時から六時間おきに鳴らされる。

 日が高い頃に鳴る鐘は、休憩を報せる三時の鐘であった。

 彼女はそれを聞くなり、急に何かを思い出したように口に手をやった。


「い、いけませんっ! 子供たちにお菓子を届けないと!

 ――は、話の途中で申し訳ありませんが、これで失礼しますねっ」

「あ、ああ……」


 彼女は慌てて頭を下げると、すぐに人ごみに向け駆け始めた。

 しかし、数歩進んだ所で足を止めると、ヴェールや修道服のスカートを揺らしながら、進次郎の方へ向いた。


「また、お会いできたら――」


 彼女はどきりとするような笑みを浮かべ、手の平に落ちた雪のように、すぅ……と人ごみの中に消えてゆく。

 いつまでも心に残るような存在だ、としばらくして進次郎は感じていた。

 すぐ傍にあった小物屋の親父は半目で、何か言いたげな様子であることに気づき、進次郎はそれに小鼻を膨らませ、ドヤ顔を決めた。

 あのような美人とお近づきになったことをもっと他に自慢したかったが、知っている者がここにはいない――居るとしたら、正面からやって来る、いつぞやのドワーフぐらいだろう。


(まぁいいか、アイツにでも……って、んん?)


 進次郎は途端に眉を寄せた。

 その伸びた腕の先は、褐色肌の見慣れた女の子の左手を握っているのだ。

 向こうもそれに気づき、猫のような目を見開いた。


「――おおっ、シンジではないか! お主も買い物かの?」

「や、やっぱり、イヴか!?」

「うむ。アタシは買い物を終えたから、これから飯食って、宿にゆくのじゃー。

 さっきの鬱憤を晴らすべく、むちゃくちゃ食ってやるのじゃ!」


 ニマりと笑みを見せたイヴを見て、ドワーフの親父は敵意剥き出しの目で進次郎を睨みあげた。


「――なんじゃお前、儂のイヴちゃんとまで知り合いじゃと? オォンッ?」


 それはこっちのセリフだ、と睨み返してやろうとすると、その手に持っている紙袋の口から奇妙な物が覗いていることに気づいた。

 よく見えないが、女児用の服や白一色や、黒と紫の布地の“それ”のようだ。

 明らかに正面の中年親父が着るような物ではない。進次郎はすかさず右腕を高く上げた。


「――アウトォー」

「何でじゃっ!? 儂の何を見て、何がアウトなんじゃ!?」

「もう言い逃れできないから。警察いこ警察、ついて行ってやるから」

「待てっ! “けいさつ”って何か知らんが、ダメな気がするからダメじゃっ!」


 進次郎に腕を掴まれ、ドワーフの親父はいよいよ慌てふためき始めた。

 周囲の者も『やはり……』と、嫌悪の目をドワーフに向けている。


「お前自身がダメなんだよっ!

 イヴみたいな小さい女の子に声かけて、服と下着を買うなんて、もう色々ダメじゃん!」

「ば、ばか言えっ! イヴちゃんは儂のっ――はっ!?

 違うっ、儂はそれじゃないからな! お前らみんな勘違いしておるぞ!?」

「クレアがダメだったから、抵抗できない幼女を狙ったんだろ! このロリコン!」

「言うなっ!? そのワードをここで出すんじゃない!?

 この見た目でそれ言われると『この人痴漢です』的な目に逢うじゃろっ!?」


 進次郎の言葉に、イヴは片眉をあげていた。


「クレアが……ダメ? シンジ、一体どう言うことじゃ?」

「このオヤジ、クレアをストーキングして、しまいには抱きついたりしたんだよ」

「ば、馬鹿っ!? イヴちゃんに、それを――はっ!?」


 イヴの目が怒りに満ちているのが分かり、ドワーフの親父だけでなく、進次郎ですら思わず二歩ほど後ずさりしてしまった。


「クレアをストーキング……? しかも、抱きついた、じゃと……?

 あ、アタシがせっかく、苦労してカーちゃんをとりなしたって言うのに……ッ……!」

「い、いやこれにはワケはあってな……!

 トーちゃん、寂しかったの、ね? これ、ドワーフのちょっとしたお茶目、ね?」

「それも、よりにもよってクレアに――こ、こ、この……ッ!」

「ちょっ、イヴちゃんダメっ!?

 イヴちゃんのパンチ本気で痛いからっ、父ちゃんの頭ザクロになるからっ!?」

「かーちゃん、とーちゃん……?」


 もしかして……と、思った時にはもう遅かった。

 ドワーフの女は特に凶暴、とクレアから聞いていた通り『絶対に怒らせてはならない』と、心に刻みつけるような惨劇が繰り広げられ始めていた。


 ・

 ・

 ・


「――と、言うわけで、アタシはトーちゃんに会いに来たってわけじゃ」

「女の尻追っかけ回してるのがバレ、家追い出された先でクレアに……同情して損したぞ」

「うむ。よく教えてくれたのじゃ。

 今度は、ブーメランフックからのハンマーパンチ五十連打ぐらいじゃ済まないからのう。

 こんなのカーちゃんにバレたら、軽く三倍はいくのじゃ」


 《コボルド》の警備員にずるずると引きずられてゆく親父を見送り、進次郎とイヴは屋台のお茶を啜っていた。

 ドワーフは浮気に関してはおおらかではあるものの、厳格な者は少なからず存在しており、イヴの母親もその中の一人であると言う。

 怒る母親を何とかとりなし、父親を呼び戻すために王都にやってきたようだ。


「――で、しばらくここに滞在するから、その日用品買い揃えてたのか」

「うむ。ついでに下着とか新調したかったしの。

 ガキンチョ用のばかりじゃったが、中に掘り出し物があってよかったのじゃ!

 で……お主はクレアと一緒はないのか?」

「ああ、クレアが酒あおってるからな……晩飯の材料もないし」

「酒じゃと! アタシもご相伴に預かるとしよう!

 クレアにも用事があるし、すぐに案内するのじゃ! 無くなる前に早く!」


 イヴはすっくと立ち上がると、進次郎の腕を持って早足気味に住宅地の方へ歩み始めた。

 市場の入口となる橋を渡り、横断歩道を越えてクレアの事務所【ラインズ・ワークス】のボロ看板がかかる場所へと向かう。

 緩やかな坂道を上った頃、事務所の前に見慣れぬ黒い馬が横付けされていることに気づいた。事務所に誰か訪ねてきているようだ……恐る恐る扉から中を窺うと、銀色の鱗状の鎧を纏った大きな男の背中が見え、何やらが困った空気に満ちているように思えた。


「あ、あのー……?」

「――む? おおっ、シンジか! よい所に来てくれた」

「ダヴィッドさんっ!? い、いったいどうしたんですか、その鎧――」


 進次郎が言い終わるより前に、イヴが脇からひょっこりと顔を出した。


「おお、良いラメラアーマーを着ておるのう!

 しかし、剣は並……くれるモノくれれば、もっと良い武具にしてやるのじゃ!」

「はははっ、この国ではこれぐらいで十分なのだよ」

「ふむ。大公領の南部育ちにしては、珍しく消極的じゃな。

 特に武具にこだわる金払いのいい奴らじゃのに」


 ダヴィッドはそれに驚いた表情を向けたが、すぐに元の武人の顔に戻した。


「長く居つけば性分も変わるものだよ。ドワーフとてそうだろう?」

「まぁの。東西南北、それぞれ見た目も性格も、髭や毛に対する考え方も違う。

 しかし、そんな物々しい恰好しているが、戦争が近いのかの?」

「近いか遠いかは、この先の結果次第なのだが――」


 ダヴィッドは、机に突っ伏して眠っているクレアに目を向け、見て苦い顔を浮かべた。

 顔を真っ赤に、緩んだ口からだらしなく涎を垂れている。百年の恋も冷めかねない姿だ。

 机の上には酒瓶が数本転がっているところからして、完全に酔いつぶれて眠ってしまったのだろう。イヴはまだ残っている酒瓶を目ざとく見つけるや、机の上であぐらをかいてラッパ飲みし始めた。

 一方で、進次郎はダヴィッドの言動が気になり、不安げな様子で尋ねた。


「クレアに何か係わりが……?」

「うぅむ……無いとは言えないが、まぁ今回は仕事の話なのだよ。

 道を渡る図示を描いてもらったが、街中を走らせない、あちこちで停車する馬車、十字路での混雑や事故などをどうにかしてほしい――と、君たちの留守中に次々と舞い込んで来てね……」

「オォウ……連休明けの恐怖ゥ……」

「それと城門までの街道の道の混雑――」

「土の上は無理っすー! 塗れる物があっても、あんなくっそ長くて一車線封鎖しなきゃならないのとか絶対嫌っすー!

 減速せずに突っ込んでくる車が多くて、死の恐怖が――ってか、それで死んだんすから!」

「わ、分かった……それは取り下げよう……」


 舗装されていても、数千メートルもあろうかという道を二人で、ペンキでペタペタ塗っていくのは御免被りたかった。

 施工機――手押し式の溶解釜があれば別である。塗料も本来はペンキではなく、粉末塗料を約二百度近い釜で溶かし、それを先述した施工用の機械に移す。

 なので、塗布すると言うよりかは、アスファルトの上に塗料を()()()と言った方が正しい。


「キャラが変わって――む、誰じゃッ!!」


 酒をあおっていたイヴは急に声を荒げ、事務所の外に飛び出した。

 玄関先で睨みつけるような視線をあちこちに向けるが、そこにあるのはただ薄暗い路地と、近所の者たちばかりである。

 ダヴィッドも剣の柄に手をやりながら身構えており、事務所は途端に張りつめた空気に包まれる。気が緩んでいるのはイビキに近い寝息を立てるクレアだけ――。

 イヴが引き返して来たのに合わせ、事務所の中にすっと新鮮な風が吹き込んできた。


「――この国も、なかなか穏やかではないようじゃの」

「儲け話に敏感な連中が多い、と言うことだ。

 仕事の依頼内容をまとめた書類を置いてゆくから、急ぎの分以外はゆっくりやってくれても構わない。

 城に戻らねばならないため、私はこれにて失礼しよう」

「え、あ、あの……!」


 ダヴィッドはぶ厚い封筒を机に投げおくと、チャリチャリと鱗状の金属板を鳴らし、急ぐようにして事務所を後にした。

 赤い印がつけられた書類が二枚、封筒の口から顔を覗かせていたのに気づいたのは、クレアを二階に運んだ後である。

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