第7話 切符を切る
横転した馬は脚をバタつかせたのちに起き上がったが、勢いよく地面に叩きつけられた騎手は苦悶に呻き続けていた。
いったい何が起こっているのか? 一部始終を見ていた者たちは、ただ茫然と立ち尽くしていた。
「な、何が起こって――ッ! くそッ、〔ムフォン〕行けッ!」
ジャンに呼ばれ、ムフォンと言う男はすぐに馬を走らせた。“世直し組”と名乗る彼らの中で一番大きな男である。
しかしこの奇怪な状況下において、自慢の体躯は何の意味も持たないと知る。ワンコに向かって駆けた彼も、すぐに仲間と同じ運命を辿ったのだ。
どっ……と一番大きく鈍い音と、小さな呻きが尾を引いて地の上を這う。
一見すれば何の変哲もない“馬上槍試合”のような光景だろう。しかし、一カ所だけ“この世界”には存在しなかった物がそこにあった。
イヴは間違い探しのようなそれに気づき、クレアに慌てた顔を向けた。
「クレアッ、あのわんわんが持ってる山吹色の盾は、まさか彼らの長――<ウォーウォーウォン>の盾なのか!?」
「い、いやっ!? あの盾は、確かワンコが買ってきた物のはずだよっ!
ヘンテコな絵は多分、シンジが描いたものだと思うけど……」
「……シンジが描いた、じゃと?」
イヴは眉を潜めながら、山の道脇に停められている馬車を見た。
襲ってきた男たちの会話からして、彼らのアジトはその山の中にあるのだろう。今日に限って、彼らはそこに帰ることができず、ここで立ち往生するしかできなかった。
「……もしかして、あの馬車の尻にある“矢印”も、シンジの仕業かの?」
「こ、こんな時に何を言ってるんだい!」
「いいから、アタシの質問に答えるのじゃ」
「そうだよ! 私がシンジに描かせたんだよ!」
「やはりか……。いや、でもどうしてまた……じゃが可能性は……」
イヴは顎に手をやり、ブツブツと何かを呟き始める。
そんな女たちのやり取りをよそに、ワンコが繰る馬は目と鼻の先までやって来ていた。
気が急いているのか、進次郎は馬が完全に止まりきるよりも前に、落ちるようにして地面に降り立った。
「――クレアっ! 大丈夫か!」
「シンジッ……こんな危ないところに、な、何しに来たんだい!」
「何しにって……ワンコが『クレアが襲われてる』って言うから、助けに来たんだよ!」
「ね、猫の手ならまだしも、あ、アンタの手なんて……じゃ、邪魔なだけだよっ!」
「不本意ながら、それは正しいと思う――」
丸腰だし、喧嘩したことないし……と進次郎は続けた。
その横でイヴは『アタシは無視か!』と目くじらを立てている。
「あ、で、でもその……人手はあって困ることはない、と言うかその……」
片や、クレアは素直な言葉が発せなかった。絡め合っている指のように、幾多もの感情が入り混じり、焦がれた物を噛みしめたような悶々とした表情を浮かべるしかできない。その緊張感のなさに、犬と子供は『はぁ……』と呆れ顔を浮かべる――。
そんなどこか余裕めいた者たちを前に、“世直し組”と名乗る男たちは浮足立った。『よ、よくもやってくれたな! 俺らに手を出せば――』と“策と虚勢”と言う名のウェイトで、ふらふらする精神のバランスをとろうとした。……が、それもイヴの大音声に遮られてしまう。
「なーにが、『よくもやってくれたな』じゃ! それはアタシらのセリフじゃ!
わんわん族はただ盾を構えておっただけで、お前らが仕掛け、自爆しただけじゃろ!
良くても『馬上槍練習中の事故』じゃ、バカタレェッ!」
鼻息を荒げるイヴの言葉に、ワンコも『そうだ』と言わんばかりに大きく吠える。
事実であった。ワンコはただ『絡まれていた女たちを助けに来た』だけであり、向こうから襲ってきたのを盾で防いだだけなのだ。
反論できずたじろいだ姿を見て、イヴは目だけを進次郎にやりながら口を開いた。
「……で、お主はその、わんわんが持つ盾みたいなの、他にあるのかの?
あのバカ共は引き際を見誤ったようじゃから、防御で叩き潰さねばならんのじゃが」
「他に、他にって無い――あー、馬車にセイズ村で使ったのがあったな」
「じゃあ取ってくるのじゃ。あと他に何か必要なのがあれば、それも持って来い」
「……今からか?」
「明日じゃ遅い」
武器にでもするつもりか、と進次郎は訝しみながら馬車に足を向けた。
そうはさせまいと馬を動かそうとしたジャンであったが、イヴやワンコの唸り、クレアの睨みにすくみ上がってしまう。
“臆病な自尊心、尊大な羞恥心”と言ったところか。イヴの言葉通り、彼らは退き際を逸していた。
囲っていた五人の内、三人は地面の上で呻き続け、残る二人は完全に目の力を失っている。
残る四人は脚を折っているため論外――これでは勝機などまずない。
彼らが取るべき策は、進次郎が青い看板を持って帰ってくるまでに撤退することだった。
「――これだが、こんなのどうするんだ?」
「青一色に、V字の白抜き……シンプルでよいが、これ何の看板じゃ?」
眉を寄せるイヴの横で、クレアが『あっ』と声をあげた。
「それ確か……【安全地帯】って意味だったっけ?」
「【安全地帯】、のう……これは立てるだけで効果あるのかの?」
イヴは腑に落ちないと言った様子のまま、進次郎をチラりと見やった。
虎のような黄色い瞳には、何か確信めいた光が宿っている。
「いや、白一色か、黄・白の線で囲わなきゃいけない。
白のみだと“進入可能・停車禁止”、黄と白で“どっちも禁止”かな」
「じゃあ、後者のをペンキで書くんじゃな。ほれ、さっさとやれ」
「この状況で必要なことなの……?」
「酒か金くれるなら別じゃが、アタシは不必要なことはしない主義じゃ」
「う、うぅむ……」
「シンジ、私も手伝うよ。黄色やるから、アンタは白をやっておくれ」
他に打つ手もない今、何らかの策を思いついたイヴを信じる他ないだろう。
なるようになれと、クレアと共にさっと周囲を白と黄色のペンキで囲い、何でもない山道に簡単な【安全地帯】を設けた。
「ふむ。息ぴったりじゃの」
「う、うるさいよっ! それで、これからどうするんだい?」
「さあ? 『安全』って意味通りなら、奴らは手出しできないはずじゃ。
わんわん、次は奴らの尻を蹴っ飛ばして来るのじゃー」
ワンコは『オンッ!』とひと吠えすると、人が通れぬような急斜面に立ち並ぶ木々の合間を走り抜け、あっと言う間に男たちの真後ろに回り込む。《コボルド》にとって山は自宅・庭であり、この程度ことは朝飯前だった。
感心した息を吐くクレアの横で、進次郎は『イヴは誤解しているのでは?』と危惧していた。
「あ、安全っても、これ車用のだぞ?
それに、『ここは俺のフィールドだ!』『なんだと!』みたいな、小学生レベル遊びなんかするわけないし――」
「なら、その“しょうがくせい”とやらの遊びをするのじゃー」
イヴの言葉を合図に、ワンコは唇をせり上げ、獣の唸りを上げながら一歩前に歩み寄った。
人間全てが敵であるかのような威圧感に、仲間である進次郎たちですら肝が縮み上がる。
それは人間だけではない。不届き者たちが乗る馬も“恐怖”を覚えてしまっている。
ワンコは何かを語りかけるように、唸りに抑揚をつけると――
「ォンッ!」
指示するような吠え声をあげたと同時に、馬は乗り手の命令を無視して勢いよく駆け出した。
「お、おいっ! 止まれっ……止まれ――っ!」
ジャンや膝に添え木をした者たちは、鐙を踏みしめ、背中を大きく反らせ、落馬せぬように手綱を握りしめるしかできない。
言うことを聞かぬ暴走馬に顔を引きつらせるのは、馬に乗る者だけではなかった。
それらは真っ直ぐに進次郎たちのいる方向に突っ込んでゆく。
「こ、こっちに突っ込んで来るぞッ!?」
視界の中心から放射線状に膨れ上がる、赤い鉄の塊――突っ込んでくる馬の群れが、“生前の記憶”を呼び起こした。
しかし、そこに“恐怖”はない。何者かが彼の手をぎゅっと握り、『大丈夫だ』と言い聞かせてくれていたからだ。しなやかな手の先――クレアは目を伏せながら、横目でじっと進次郎を見つめている。
進次郎は彼女の名を呟こうとした直後……目の焦点があっていない馬の群れが、乾いた土を蹴り上げながら、地響きと共に駆け抜けて行った。
「どーんと来い、どーんと――って、何じゃ、ぶつからぬのか。
せっかく、ドワーフ流ブロックを見せつけてやろうと思ったのに。
……で、お主らはなに『君と一緒なら死ぬことも厭わない』をやってるのじゃ。シバくぞ」
半目のイヴに、クレアと進次郎はハッと我に返った。
「ここ、これには少し事情がっ……!」
「そ、そうだよっ、進次郎は一回この様な目に逢っているんだから!
だからその、私がいるから大丈夫だよって――て、そうじゃないよっ!?
馬を暴走させたり、アンタは何がしたいんだいっ!」
「あー……うーん……上手くいくと思ったんじゃがなぁ……。
『物に与えられた意味に従う』と踏んだんじゃが……馬は止まらなかったしのう。
どうやらアタシの見当違いのようじゃ」
はぁ、と落胆のため息を吐いたイヴに、進次郎は言いにくそうに口を開いた。
「標識立てて事故が無くなれば、俺は“この世界”に来てないぞ……?
これらはあくまで『車両や人に注意を呼びかける』もんなんだし」
「なーんじゃ、それを早く言え。馬では意味がないではないか。
奴らが乗ってるのは馬で、馬車ではない……すっ転んだのも、ただの偶然か」
「――ああでも、ワンコには話したけど、俺の所では馬は“軽車両”になったはずだな。
酒飲んで乗ったら“飲酒運転”になるのはもちろんだけど、馬が酒飲んでたりすると“整備不良”になるとか何とか」
男たちが消えた方向を眺めている進次郎の言葉に、クレアは頭の上に疑問符を浮かべた。
「ん、んんんっ……? 馬が車で、酒飲んだら……馬が整備不良……?
アンタはいったい、どんな世界に居たんだい?」
こめかみに指をやりながら、頭を大きく傾げている。
クレアが理解できないのも無理はないだろう。この国では“車”と言えば“箱馬車”などのものになるのだ。
それに、目の前に立てかけられている【安全地帯】などただの絵に過ぎず、この世界では何の意味も持たない。
しかし――それはこれまで“存在”していなかったから、“意味”を持たなかっただけである。
進次郎がこの世界に“存在”しなかった物を持ち込み、“意味”と言う名の“ルール”を持たせてしまった。
「ん……? 向こうの空から飛んできてるのって……もしかして、<巨神兵>か!?」
「へ? ……ほ、本当だよっ!?」
「何じゃとッ!? お主ら邪魔じゃッ!
アタシが見えな――おおおっ、あれは<ガーディアン・フォース>の二号じゃ!
一号のシュッとした丸顔もいいが、やっぱりあのバケツ頭は最高じゃー!
何より、あの重厚なボディがいいっ! こっち、こっち見てー!」
飛んでいると言うよりかは、『どこかから射出された』との表現が正しいだろう。
太陽の光をギラギラと反射する、<巨神兵>の銀色のボディと負けず劣らず、さほど遠くない場所に落ちるまで、イヴの子供のような目はキラキラと輝き続けていた。
小さな地響きがした方向――絶叫に近い悲鳴が山々を駆けたのは、それからすぐのことである。




