第6話 スリップ注意
それよりも少し前――。
ワンコから依頼を受けた進次郎は、宿の庭先を借りて、ある品を完成させていた。
脇にはハケが浸かった黄色いペンキ缶と、筆が浸かった黒いペンキ缶が置かれている。風がないせいか、ムワりとした塗料の臭いが周囲に濃く漂った。
「本当にこんなのでいいのか……?」
「ウォンッ! ウォンッ!」
ワンコは嬉しそうに、何度も大きく頷いて見せた。
進次郎の手には、木の葉型の盾が握られている。ワンコが言うには、森の奥に《コボルド》の商店があるらしく、ここ何日かの“バイト”で余裕ができたことで奮発してきた、とのことである。
ウキウキで歌うような吠え声をあげながら、進次郎に『派手で、最強の盾に見えるような絵を描いて』と依頼してきた。
描いているのは“第二案”のデザインである。第一案を出したのだが、ワンコは『変なスーツは着たくない』と一蹴したので、進次郎は今手にしているそれを描くことにした。
「しかし、まさかこんな所に来て【標識】を描くことになるとは思わなかったぞ……」
進次郎は塗装を終えたばかりのを見ながら、クレアのように下唇を突き出した。彼女は釈然としない時や、疑心を抱いた時はいつもそうするのだ。そして、少し離れた場所から見る。
それを持つ腕を伸ばしてみた。黄色の下地に黒で縁取られた“滑る車”のイラスト――どこをどう見ても【スリップ注意】の道路標識である。
道路標識の後ろには、支柱に取り付ける金具がついている。それは腕を通すベルトのような形状で、『厨二っぽいことをしたくなるが……』と思っていた進次郎も、まさか本当に盾になるとは思ってもいなかったようだ。
一応この盾を構える姿を想像してみたが、見慣れた者には奇妙な絵面にしか見えない。
しかし、“こちらの世界”の者には見たことのないデザインのためか、当犬がいたく気に入っているようなので、『まぁいいか』と小さく頷いた。
そして、尻尾をぶんぶんと振っているワンコを横目に、進次郎は心配そうにリーランド方面の山々を仰いだ。
「クレアとイヴは大丈夫なのか……?」
クレアはいつの間にか馬車の修理に出かけており、それを聞いたイヴは舌なめずりして駆け出していた。
山には“世直し組”と名乗る悪ガキどもが居る。いくら烏合の衆と言えど、そんなところに女二人にゆかせることに、進次郎は少しばかり抵抗があった。
ワンコは彼の目に不安の影が差しているのを見かね、ヒゲを触り、力こぶを作って見せた。
「――『ドワーフは、力持ち』?」
ワンコは指差して頷く。
進次郎は納得すると、ワンコは更にジェスチャーを続けた。
「――でも? 『頭、くるくるパー』で『イノシシ』?
つまり、脳筋ってことか?」
ワンコは『ォン!』と返事をした直後……耳をピクピクと動かし始め、進次郎たちがやって来た山の方に目を向けた。
その獣の目は、これまでの穏やかなものではなく、次第に厳しいものに変わっている。
「何だ? 今度はいったい……なに、『クレア、絡まり、テルー』?
――クレアが絡まれてる!? それってもしかして、“世直し組”って奴か!?」
「ウォンッ!」
ワンコは返事をするや、高く細い犬の遠吠えをあげ始めた。
◆ ◆ ◆
ワンコの“察知”は正しかった。
クレアたちは馬に乗った十五、十六になろうかという、若い男たちに囲まれていたのだ。
馬車近くの乾いたあぜ道の上――首や手首、馬につけた宝飾品をチャラチャラと鳴らし、頭が痛くなるような香水の臭いを周囲に振りまき続ける。その輪から外れ、四人ほど膝に添え木をした男が、馬にしがみつくような格好で跨っている。
その輪の中心に女二人がいた。クレアは泥だらけになっているイヴの前に立ち、金槌を握り締めながら憎々しげにそれらを睨みつけた。
「く、くぅっ……ちょ、チョロチョロと鬱陶しい奴らじゃッ……!
クレア、どくのじゃッ! こんな奴らアタシが――ッ」
「大振りしすぎてヘロヘロになってる奴が、どの口で言ってるんだい!」
「ちょ、ちょっと食い過ぎたのじゃ……」
相手はドワーフとの戦い方を知っていた。初めこそ圧倒していたイヴであったものの、馬に跨った者と子供とではリーチが違いすぎる。
しかも、一点に真っ直ぐ突っ込んでくるため、大き目に旋回すれば容易く回避できるのだ。
多勢に無勢。イヴの攻撃はいっさい当たらず、逆に手にした棒で小突かれ、男たちにすっ転ばされ続けた――。
体力と腕力はあるものの、戦い方に関して彼女はまだ若い。得物が重く大振りをし続けた結果……食い過ぎたのも災いし、イヴは自慢のウォーハンマーを杖にしながら、肩で大きく息をせざるを得なくなってしまったのだ。
二人のそのやり取りを見て、男たちは小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「屋敷に戻れねーしよ。ここでマワしちまおうぜ」
「馬鹿言え。俺らの領の屋敷に連れてかなきゃ、<巨神兵>が飛んで来かねえだろうが」
「くそっ、どうしてあの道に行けねぇんだよ!
どうしても、矢印の方向に行っちまう……裸にひん剥くぐらいなら<巨神兵>も来ねぇだろうし、やっちまおうぜ」
「おう。ひん剥くのはドワーフからにしようぜ。
ガキでもボーボーって噂が、マジかどうか確かめたいんだ」
好き放題言い始めた男たちに、クレアは背中に冷たいものを感じた。
各所で鳴き続ける夏の虫の声は遠くなり、辺りを包み込み始めた不穏な空気に、指先からじんと冷たくなってゆく。浮き出てくる汗は冷や汗となり、身体中に寒気を走らせた。
それに飲まれまいとクレアは唇を噛み、ぐっと目に力を込める。
囲っているのは五人、そして足に添え木をした四人――後者は、圧倒的有利な状況だったにも関わらず、昨晩イヴにやられた者だ。正直、戦力にはならないだろう。
いや、彼らだけではない。全員見てくれだけの情けない男たちばかりだ。一人や二人なら馬から引きずりおろし、叩きのめすことは十分可能である。
できて三人――それ以上は難しいだろう。いくら喧嘩や武術に長けていたとしても、一度に三人以上相手にすることは至難の業だ。
それに、フラフラになっているイヴを人質にされでもすれば、完全に打つ手がなくなってしまう。
(……困ったね。ワンコを呼んでも、喧嘩はさせられないし――。
せめてシンジでも居れば、このお嬢ちゃんを守らせられるだろうけど……)
しかし、すぐに『それは危険だから止めよう』と思ってしまった。どうしてか分からないが、彼を危険な目に逢わせたくなかった。
小さく短い息を吐き、腹に力を込めた。正面に見据えた男たちは、彼女の鋭い睨みに後一歩が踏み出せないでいる。
添え木をした男たちには、クレアの威圧感に気付いていない。この様な目に逢わせたイヴに“仕返し”がしたい一心しかなく、動かない状況についにイラ立った声をあげた。
「おいっ! 〔ジャン〕ッ!
やるならさっさとそのガキをひん剥けよ!」
「――るせえぞッ! こんな弱いクソガキにやられた雑魚は黙ってろ!」
「んだと……! てめぇ後で覚えておけよ!」
ジャンと呼ばれた、ヒョロりとした金髪を撫でつけた男がそう叫んだ。
恐らくここのリーダーだろう。今度はそれとは反対側にいる、髪を短く刈り込んだ男が人差し指を立てた。
「俺にいい案がある。ドワーフの毛を剃り上げて、ツルツルにしてやろう」
「さっきから妙にガキに固執してるが、お前もしかして――い、いや、まあそれも面白そうだ」
男たちの下卑な笑みに、イヴが奥歯をぐっと噛みしめた。
ドワーフにとってヒゲなどの毛は命よりも大事な物であり、それを失うことは最大の屈辱なのだ。
一かバチか……クレアは覚悟を決め、まずはリーダーをとジャンを正眼に捉え睨みつけた。
思わず顔を引きつらせたジャンに、クレアは『いける』と確信したその時――クレアたちの後ろにいた男が、急に大きな声をあげた。
「お、おいっ! 《コボルド》だ! 《コボルド》が来たぞッ!」
「チッ、こんな時にか――まあいい、ようやく計画通りに進んだんだ。
お前ら、ちゃんとやれよッ!」
クレアはハッとした顔を浮かべ、男たちの会話ですべてを察した。
――この者たちは、リーランドと《コボルド》の友好関係を壊そうとしている
彼女の目に映ったのは、馬で駆けつけて来るワンコであった。
王女がいたく《コボルド》を気に入り、彼らの長に鎧を贈り同盟を結んだとも言われている。
そして、この国の警護を任されるようになった彼らは、このような騒動が起れば真っ先に動く――。
これに問題があった。もし、国の指示なく大公領の人間を勝手に捕えれるなどすれば、彼ら・《コボルド》が矢面に立たされ、一身に批難を受けることとなってしまう。
それゆえに、この近郊の《コボルド》は指示が出るまで手を出さなかったのだが、旅客を運ぶ彼らにまでそれが通達されていない。“大公領”の者たちは、最初からそんな彼らが狙いだった。
(わ、ワンコを止めなきゃ……ッ!!)
と、クレアは大きく吸い込んだ時――ワンコの後ろに乗っている男に、言葉を失ってしまった。
「シンジッ!? な、何でアイツまでいるのさッ!?」
その驚きが遅れを生み、言葉を発しても間に合わない距離まで来ている。
もう止められない。馬上槍試合のように手にした棒を突き立てた男は、猛スピードでワンコに突っ込んでゆくところだ。それを追うかのように、もう一人の男も突っ込んでゆく。
対するワンコは『手を出してはいけない』と分かっているのか、奇妙な絵が描かれた黄色い盾を正面に構えるだけである。
すれ違うと同時に、ガンッ――と棒を盾がぶつかり合う音が響き、乾いた音を立てて棒の先端が折れた。
「へッ! 今度はそのヘンテコな盾ごと吹っ飛ばして――うぉぉッ!?」
ワンコの横を通り過ぎた時、急に男の馬が脚を滑らせ転倒してしまった。
それだけでは『ただの盾と棒がぶつかった時にバランスを崩した』だけにしか見えない。
「なっ!? はっ――う、馬がッ、ちょッ……うあぁぁ!?」
しかし、二人目の男は驚いて馬の脚を止めていたにも関わらず、ワンコが脇を抜けると同時に“馬が滑った”のである。




