第5話 進むも退くも……
案の定、二人は寝不足のまま朝を迎えた。
時刻は朝の九時を回った頃。眠られたのは数十分程度の感覚しかなく、進次郎は腫れぼったい瞼のまま、ぼうっと明るい太陽の光を浴びている。
同じく寝不足であるクレアは、枕に顔を埋めたまま起きようとはしなかった。
寝起きが悪いわけではない。ただ寝起きの顔は百年の恋も冷めると言われており、彼女もまた、今日は一段と酷いであろう浮腫んだ顔を見られたくなかったのである。
そのせいか、枕に顔を埋めたまま『先に行って、朝食の準備をしておいて』と、進次郎に言うのが精一杯だった。
進次郎は重い足取りで漆喰の壁の廊下を歩き、宿泊客用の食堂にやって来ていた。
銀色の盛り皿の上に、パンや卵料理、<サルッシア>と呼ばれるウィンナーなどが一杯に並んでいるビュッフェ形式であるが、今の頭では『どうしてなのか』と考える余裕がないようだ。
今はまだ夢の中にいるような、ふらふらした頭に喝を入れるべく、少し濃い目のコーヒーをぐっと飲み干し、軋む身体にムチを打った。
――実際にムチで打たれた方が、“目も覚める”かもしれない。
そんなことを考えながら、クレアと自分の分の食事を用意すべく、白いクロスがかけられたテーブルに目をやった。
「団体客でも来るのか……?」
大き目のテーブルには、隙間なく山盛りに料理が盛られた皿が並べられていた。
凝った料理は用意されていない。しかし、それらが乗せられている元卓・銀色の盛り皿の上には、申し訳程度の量しか残されていなかった。
進次郎は怪訝な顔でそれを見つめていると、部屋の外から陽気な鼻声が聞こえてきた。
「いやー、今日も快眠っ快眠っなのじゃっ!
さーて朝飯じゃ――って、何じゃシンジ、お主もおったのか。
ふむ、イケメンの顔になっておるな」
ゴツゴツとショートブーツを鳴らしながらやって来たイヴは、しげしげと進次郎を眺めた。
白いシャツに茶色のベスト、だぼっとした黒革のスロップスパンツ姿と職人らしいスタイルに身を包んでいる。
「ああ……今来た所だ。イヴ――だっけ? この料理ってお前たちのなのか?」
「うん? 今回はアタシ一人じゃぞ。ちと、リーランドの王都に用事があっての」
「ってことは……これは他の客の席だろうし、そこに陣取ったらダメだろ」
「なーにを言っておるんじゃ。これは全部アタシのじゃ」
「な、何だとっ!? こ、これ全部がかっ?」
「欲しくてもやらんぞ? 欲しかったら金払うのじゃ」
「いくらテンション上がってるとは言え、そんな事したら他の客の迷惑になるだろう。残したら勿体ないし」
「……ぶっ飛ばされたいのか、お主は?」
イヴは半目で進次郎を睨みつけた。
「食える分だけを取るのがマナー、ってのは知ってるのじゃ!
アタシはそんなテンションマックスで料理取りまくった揚句、放置するような阿呆ではないわっ!」
「こ、これ全部食うのか?」
「お主、もしかして本当に知らぬのか……?」
「最近、ここに来たばかりでして……」
「ふむ。なら教えてやろう。
ドワーフを泊めるなら、飯サ別で代金を請求しろ。
せぬまま二人以上の宿泊させれば、その宿は潰れる――そう覚えておくといいのじゃ。
自分で言うのもじゃが、ネズミの方がまだ弁えるって種族じゃぞ」
イヴはそう言ってカッカッと笑うや、スクランブルエッグをむんずと掴み、原始的に口の中に押し込み始めた。いくらかこぼれたが、一掴みした分の殆どが口の中に収められている。
皿の数は十二皿。三掴みもすれば一皿が片付くペースである。申し訳程度に残されている分も危うい――食いっぱぐれるのを恐れた進次郎は、急ぎクレアの分も合わせて皿に取り始めた。
「ふぉうふへふぁ、ふぁのふぉんなふぁふぉうふぃふぁふぉふぁ?」
「……すまない、ドワーフ語は分からないんだ」
「――んっぐっ。『あの女はどうしたのじゃ?』って聞いたのじゃ」
「ああ、先に行っててくれと言われてな。もしかしたらまた寝てるんじゃないか」
「なるほど、昨晩は楽しんだようじゃな」
「ち、違うっ!? 逆に地獄だったんだぞっ!」
「む? 何じゃ、赤玉発射するまで搾り取られたか?」
「何もしてないての……そんな関係じゃないんだし」
それを聞いたイヴは料理を取る手を止め、進次郎の方に顔を向けた。
「なのに、あの“子作りの間”に泊まったのか! しかも、何もせずと!
ああ、何とも馬鹿な男よ……女の決心を無駄にしおって……」
「い、今……何の、“間”だと?」
「“子作りの間”じゃ。<イントルーダー>が持って来た絵に、あのような部屋で子作りをしておるのが描かれていたようでな。それを模したらしいのじゃ。
と言っても、最近できたばかりじゃし、お主が知らぬのも当然じゃな」
「い、いん――?」
「この国におる“巫女”のことじゃ。百年に一度くらいのペースで現れての。
詳しくは知らんが、様々な“お告げ”や、どこからかの<贈物>を下々の者に渡すのじゃ。
いつか忘れたが、数年前ドワーフに提供された<贈物>の中にその絵が描かれた箱や紙があってのう。
思い出してこの村に改修をもちかけた、らしいのじゃ」
「そ、それは一体誰なんだっ! 知ってるんだろ!」
進次郎はテーブルに飛び乗りそうな勢いで、ずいっと身を乗出した。
鬼気迫る勢いのそれに、イヴの手は僅かに止まったが、進次郎にチラりと目を向けただけで、再び憮然とパンを囓り始めた。
「――王都から送られてくる以外、知らん。
役立つ物は少ないし、最近のドワーフのヒット作は“時知らせ”の箱ぐらいじゃ。
あれも百年ほど前じゃし、それほどまでガラクタばかりだからのう」
「う、うぅむ……やはり、王都しか手がかりがないのか……」
「何じゃ、<イントルーダー>を探すなぞ、のっぴきならぬ理由がありそうじゃの?」
「ああ、ちょっと重要な鍵を握っててな……」
眉根を寄せるイヴに、進次郎は“死んだ”ことを伏せ、簡単に経緯を話し始めた。
馬鹿にされるかと思っていたが、イヴは真剣に聞き『うむ、うむ』と相槌を挟む。
「――と言うことは、お主は確証もないのにそれを探している、と?」
「ああ、そうなるな……」
「よくもまぁ森の中で、炭石か熊の糞か分からぬ物を探す気になれるのじゃ……。
で、帰れると分かれば、ここを去るのかの?」
「あっちもこっちも半端なままだからな……一応はそのつもりだ。だが……」
「ここが都になったか」
「そんなところだな……」
「何十年先になるか分からぬことに捉われ、今を耐えるほど愚かなことはないのじゃ。
泣くなら早い段階で涙を流し、失った水分は酒で満たし、気持ちを切り替える方が早いぞ?
問題が起きたとき、既に答えも出ている。ただ、答えを出したくなくて思案しているフリをしている――と言うのが、アタシらドワーフの考えじゃ」
イヴは話は終わりだと、再び料理を口に運び始めた。
進次郎もそれを見るや、硬めのパンにソーセージと卵用に用意された赤いソースをかけ齧りつき始める。やはりケチャップだと頷く彼のを見て、バラバラに食べていたイヴも真似をし、目を見開いた。
そんな二人がいるダイニングの入り口の裏で、赤髪の女が息を潜めていたことに誰も気づいていなかった――。
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ほどなくして、その女――クレアは放置していた馬車の修理に向かっていた。
普段着でもある黒いシャツに灰色の作業ズボンで、右手に工具箱を持ち、左手に持ったパンを囓りながら、だらだらと歩く。
日差しがじりじりと、寝不足の身体に照り付け始めている。出発の前、丸い盾とペンキ缶持ったワンコがやって来たが、今はそんな気分にはなれず『シンジに頼んでおくれ』と言うしかなかった。
彼女が向かっている森の方には、タチの悪い連中が蔓延っていると聞かされているものの、元・従業員のシュトがひと睨みするだけで竦む連中なら、大した者ではないだろう。
それに、しばらく一人になって考えたかった。馬車のある道まで距離があるが、今の彼女には気晴らしにちょうどいい距離だった。
(そりゃそうだよね……シンジもずっと残るとは限らないんだ)
頭を垂れ、はぁ……と深いため息を吐いた。
考えてみれば何もおかしくない。
行くアテがないから拾っただけで、彼自身ずっと居るとは限らないのである。
(ダヴィッド様との話で言ってたのは、そのことだったんだね。
ま、元々からそうなんだし……腰掛けでも踏み台でも構わないけどさ。
まったく……ダヴィッド様も余計なことで揉ませてくれるよ……)
やれやれ、と再び重い息を吐いた。そして、手にしたパンの最後の一口を放り込んだ。
進次郎が作ったパンは美味いが、今のクレアには少し味気なく感じられた。
現状が変わらないどころか、ますます悪化している。父の店をどうにか維持しようとして来たが、離れた従業員は帰って来ない。時期が悪いのもあるだろうが、クレアは己の人徳・人望の無さを嘆いていた。
――やはり、私ではダメなのか?
喉に詰まりそうになり、涙が溢れ出そうになるのをぐっと堪える彼女の後ろに、トテトテと駆けてくる子供の姿があった。
己の背丈ほどのハンマーを肩に担いだ、小さい褐色肌の女の子――ドワーフのイヴだと分かったのは、それからしばらくしてからである。
「おーい! 待つのじゃー」
「何だい、そのデカいハンマーは――って、まさかそれ、ウォーハンマーかい!」
「うむ。アタシの成人祝いで貰った愛槌じゃ。
いいじゃろー? 昨日もこれで四人ほどぶっ飛ばしたのじゃぞ!」
「はえー……現物を初めて見たけど、とてつもない威圧感あるね。
でも、そんな物なんか持ち出して、いったい何をしに行くつもりなんだい?」
「仕事じゃ。聞いたところではお主、馬車の修理に行くそうじゃの?
その道に長けたドワーフを差し置いてゆくとは、何たる屈辱か」
「い、いや、そんなつもりはないけど、別に……」
「あの男から聞いた話では、恐らくハブも割れてるはずじゃ。
それを素人が見て直したところで、持って半日。洗濯板に差し掛かれば、立ち往生確定じゃぞ?
――ってことで、安くしておいてやるからの。にひひっ!」
「うっ……だ、だからドワーフは嫌なんだ」
ドワーフはガメつく、何かと修理しようとして金を取りに来る。
技術集団でもあるため腕は確かなのだが、費用も相応のため皆が悩まされるのである。
何より彼らは鼻が利く。金の匂いを嗅ぎつけては、率先してそれを取り入れようとする種族であり、この国のガラス板や時計など、様々な物を“この世界”に広めてきた。
しかし、彼らは目や鼻や耳が利いても、それによる“利”を手にすることはない。商売があまり上手くないのだ。
「世の中ギブアンドテイク、タダほど怖いもんはないぞ?
あのシンジって男も、よくタダでわんわん族の依頼を受けるものじゃ。
しこたま金持ってる奴から取らぬとは、人間と言うのは阿呆な種族よのう」
「ま、まあ、あれはお節介のお人好しだからね。
と言うか、アンタたちドワーフはそれで金が身に付かないんだろう!」
「我々も恩や情も大事にするがの。親しき仲にも“金”ありじゃ。
ま、お主はあ奴のそんな所に惚れたんじゃろうがの」
「な゛っ……!? そ、そんなはずないだろうっ!?」
予想もしなかった言葉に、クレアは思わず工具箱を落としそうになってしまった。
「そうなのか? 二人で泊まりに来て、“子作りの間”で寝るほどじゃのに」
「あ、ああっ当たり前だ! ……って、私もそれは知らなかったんだよ!」
「それでも寝床を共にするとは……聞くほどに、おかしな組み合わせよな。
事情は聞いておるが、男は女以上に流されやすい生き物じゃぞ?
女がせき止めねば、男はどこかに行ってしまうのじゃ」
「だ、だから私は別に……!」
クレアは必死に否定するが、顔を真っ赤にしているため説得力がない。
傍からみれば親子のような二人であるが、その実態は真逆だった。
ドワーフは寿命が長く、人間よりもゆっくりと生きる。イヴも見た目は十歳程度の子供であるが、追ってきた歳月は既に五十四を数え、クレアよりも二回り近く上回っているのだ。
大きな者と小さき者。馬車のある場所に近づいてくると、突如としてイヴの琥珀色の瞳が、正面をギッと睨みつけた。少し遅れて、クレアもそれに気づく。
「懲りもせず、あのクソガキども……!」
忌々し気に口にしたイヴの視線の先には、赤・黄・緑・紺――派手な服にジャラジャラと、宝飾品を身につけた若者たちがたむろしていたのである。




