第4話 ドワーフの女の子
「おー、いいな!」
脱衣場の曇りガラスの戸板の先には、ぶ厚い湯気がもうもうと立ち込めていた。
湯の温度は高めなのだろう。腕を突き出せば指先が見えないほどの湯気は、蒸気風呂としても利用できそうなほど温かい。
人影は見えない。そこまで広くないものの、貸切状態の浴場に進次郎は胸を躍らせた。
(スパのような賑やかなのもいいけど、こうやって贅沢に使えるのもいいなぁ)
だだっ広い浴場の中央を石壁で間仕切る、銭湯のような一つを二つにする構造をしているようだ。
“もや”が壁に設けられた橙のランプ灯りを拡散させる光景は、何とも幻想的なものである。ぼやけて良く見えないが、三メートルほどの壁より上は共有する空間のようで、向こうよりカラッ……と扉が開かれる音も鮮明に聞こえてくる。
『おぉぉっ、いいなっ!』
透き通った声の主はクレアであった。進次郎と同じセリフを口にしたとは、露程も思わないだろう。その解放感のせいか、ほどなくして鼻歌を奏で始めていた。
クレアは機嫌がいい時は鼻歌を歌う。それは口で歌った方が早いのではないか、と思えるほどボリュームが大きい。
そして、歌うのは“自由区”の脇でよく奏じられている音楽が多い。曲名を尋ねても教えてくれないが、つい聞き入ってしまうほど綺麗な音調に、進次郎はいつも耳を傾け続けていた。
――壁の向こうには裸の女がいる
思春期かと突っ込んだが、先ほどからのアクシデントに、進次郎はつい意識せずにはいられなかった。
“自由区”のサウナと同じく、ここにも洗い場らしきものは無い。いそいそと適当な場所で石鹸で身体を洗い、浴槽脇で湯をかけ流す。
その音に気づいたのか、クレアの奏でもいつしか終演しており、ざばざばと湯を流す音だけが起こっていた。
しばらくの沈黙がおりる中、互いにその水音に耳をすませ続けた。
「あ゛ぁー、いい湯だー……」
ゆっくりと広大な湯船に足を浸し、身を沈める。
浮き上がった身体の中の毒素が、声と共に吐き出されてゆくようであった。
進次郎が至福の時を堪能していたその時――クレアの居る側では、これまでの慎ましいものとは打って変わりった、騒々しい声が響き渡った。
『風呂じゃ風呂じゃー!』
声が反響したことにテンションが上がったのか、きゃっきゃとはしゃいでいる。
クレアはと言うと、見た目はまだ幼い、プラチナブロンドの髪をした褐色裸の女の子に目を丸くしていた。
『――ど、ドワーフか!?
こ、こらっ、大きな声ではしゃぐんじゃない!』
『む? なんじゃ、先客がいたのか。
こんな、【パステアの火山地下道】のような所に来たんじゃ!
気分アゲアゲになって当然じゃろ! むー、この湿気はいいのう!』
『お、お前たちはどこでもそうだろ!』
『わっはっはっ! 確かにそうじゃな! ふむ……?』
女の子は突然口を結んだかと思うと、つま先から頭の先までじっとクレアの身体を観察し始めた。
『な、なんだ、人の身体をじろじろ見るんじゃないっ』
『ま、まさか貴女は――』
隠すように両腕で身体を抱くクレアの姿を前に、女の子が急に慄きを見せる。
『貴女は生き別れの姉さん――ッ』
『絶っ対に違うっ!!』
『――嘘じゃ。アタシは一人っ子じゃからな。
じゃが、毛量からして我々と同じ種族。西部育ちの同胞かと思ったぞ』
『うっ、うるさいな! どいつもこいつも、同胞、同胞と!
別に、こ、これぐらいは普通だろう!』
『ま、アタシに比べれば少ない方じゃな。ほれ』
『な゛っ!?』
背丈が小さくスマートな身体――幼い見た目に反し、各所に大人顔負けの体毛が生え揃っているのを見て、クレアは目を丸くしてしまった。
成長期を迎えるとそうなると聞いていた彼女も、これには驚きを隠せない。
それに堂々と見せつけてくるドワーフの女の子に、逆にクレアの方が恥ずかしくなってしまうほどである。
そして――それは“壁向こうにいる者”も同じであった。
湯に浸かっていた進次郎は、よく通る女たちのあられもない会話に耳を傾けてしまっていたのだ。
“女の子”に関しては『そうなのかー』で済むのだが、クレアに関しては『そうなのか!?』と驚き、身体がそちらに傾き、頭と耳は更に多くの情報を求めている。
(そういや確か、中世って男女入り乱れる混浴だったんだっけ……?)
頭のどこかで期待してしまい、高くそびえ立つ壁が憎らしく感じていた。
彼とて男であり、女に興味がある。ただ単に意識しないようにしていただけだ。
壁向こうで、ざぶんと水に飛び込む大きな音が聞え、すぐにクレアの叱責が飛ぶ。
そのやり取りはまるで親子のようだ、と水面の上に苦笑を浮かべ、大きな波紋に揺らされながら目を瞑った。
瞼の裏で思うのは、ダヴィッドからの言葉であった。
目的か、過程か――最大の問題はそこにある。 彼自身の目的は『帰る術を見つけること』であり、その手がかりを知っているであろう王女に近づかねばならない。もしそこで帰る術が見つかれば……この世界で〔シンジ〕と呼ばれる存在が消えることになる。
つまり、ここで得た物は全て捨てねばならない。
住めば都、今もしそれが分かれば『帰る』と言う選択ができるのだろうか――と。
『ふーむ……? これは生きておるのか?』
思案に耽っていると、彼の耳に興味の声が届いた。
眉間に生暖かい風を感じ、進次郎はそっと目を開くと――猫のような瞳が、視界いっぱいに広がった。
「うわぁぁっ……だ、誰だお前っ!?」
「おお、動いたのじゃ! 死んでおるのかと思ったぞ」
とぼけた顔で、目の前にいた褐色肌の者は『にししっ!』と笑うと、今度はくりっとした鼈甲のような目で、進次郎の顔をしげしげと監察し始める。
「ふぅむ、ここの人間じゃない珍しい顔立ちじゃな。
南……いや、この薄さはもっと別か?
あの<イントルーダー>の依頼品にあった絵に近いが……いや、ふむ」
「へ……?」
その見た目から、想像もつかない大人びた言葉使いであった。
しかも、よく聞けば声も高い。進次郎の頭に、ある“おそれ”がよぎった。
「も、もしかして、女の子……?」
「そうじゃが? 『男を間違えた』とかじゃったら、鉄拳パンチが飛ぶぞ?
次の言葉をちゃんと選ぶのじゃぞ? アタシはスタンバっておくからな」
確かここは男湯だったはずだ、と進次郎は周囲を見渡した。
なのに目の前にいるのは、何度見ても十代前半のような体躯の小さい、褐色肌の女の子なのだ。
父親と一緒ならまだ説明がつくが、それらしき人物は見当たらない。進次郎は『もしかすると、男の娘かもしれない』と改めて確認しても、膨らみかけの胸と、色濃く茂るプラチナブロンドの体毛……そして、ぶら下がるモノがなかった。つまり女の子だ。
「な、なな、何で、女の子がここにいるんだよ!? こ、こっち男湯だろ!?」
「なーにを言っておるんじゃお主は……ここは男・女関係ない所じゃぞ。
ほれ、そこの壁――とは言っても、ただぶち抜いただけじゃがな」
「は……?」
呆れた表情で女の子が指差すが、進次郎には湯気でよく見えなかった。
そして、じっと目を凝らしていた時――その方向から、ざばざばと水を掻き分ける音が近づいて来るのが分かった。
「ど、どこに消えたんだ……? もしかしたら排水溝とかに落ち――」
「く、クレアッ……!?」
「あ、シンジ! ここに女の子が来な――え?」
クレアは固まってしまった。
進次郎はとっさに目を背けたが、一瞬映ったその姿は脳に焼き付けられている。
ここは風呂場であり、互いに隠すものを隠していない。隠せるのは、浴槽の手前で途切れている壁ぐらいなのである。
「え……あ……え……?」
「何じゃ、二人は知り合いかの? ふむ。聞いた所では、シンジとクレアじゃな。
アタシの名は〔ライアーヴ・コーパル〕――イヴでよいのじゃ……って、聞いておるかお主ら?」
「な、なななっ、なんでシンジがここにいるんだいっ!?
い、いくら、いくらその……私でも心の準備ってものが――」
「ち、違うっ!? ここの風呂、混浴らしいんだよっ!?」
「こここ、混浴ぅ!?」
クレアもとっさに胸を股ぐらを手で隠し、さぶんっと湯の中に身を沈めた。
慌てて周囲を確認すると、壁の終わりには確かに最近壊したような跡がある。
二人のそのような様子に、イヴと名乗った女の子は不思議な顔を浮かべていた。
「何じゃ? ここ混浴になってから人気が出たの知らんのか?
入口で『混浴だから、抵抗ある者は湯着を着用しろ』って書いてあったじゃろ」
「そ、そんなこと、一言も聞いてないよ!
三年前に来た時は、ここ別々だったから……!」
「ああ。同胞に改装の依頼が来て、壁をぶち抜いたのは最近じゃったな」
進次郎は字が読めないため、論外である。
互いにのぼせ上がるほど体温が上昇し、背中合わせで音頭を取りながらゆっくりと湯からあがってゆく。
上がり際、誘惑に耐えきれずクレアの方を見てしまったせいで、石床のタイルの上でしばらく身体を冷まさねばならなくなっていた――。
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「――ああ、大変な目にあったよ……」
部屋に戻るなり、二人は疲れ切ったように床にへたり込んでいた。
顔も身体も真っ赤に火照り、じっとしているだけで汗が噴き出してくる。
「混浴について考えてたけど、まさか本当になるとは思いもしなかった……」
「……へぇー」
「い、いや、別にやらしい意味じゃないぞ!
中世では禁止になったな、とか、そう言う世界はどんなのかと勉強にだな――」
クレアは冷たい目線を送るが、進次郎は冷や汗が噴き出るばかりであった。
「まったく……。アンタの世界で禁止になったのも、男どもがスケベな目で見てたからじゃないのかい」
「うっ……ひ、否定できない」
「まさかと思うけど、あのイヴって子にもそんな目で見てたんじゃないだろうね?」
「そ、それはないぞ、絶対に……!
あれはクレアを見たからで、あんな子供にムラっとしたらそれこそ――」
「え……?」
うっかり口を滑らせてしまい、進次郎はしまったとの表情を浮かべていた。
「あ、い、いやっ、今のは言葉のあやで……」
「そ、そうだよね……っ!」
「ああっ……うん……!」
「……」
「……」
カチ……カチ……と、時計が進む音だけが響く。
引いてきたはずの熱が再び湧き上がり、息が詰まるような空気が続いていた。
次も静寂を打ち破ろうとするが、重い空気のせいか言葉が思い浮かばない。
しばらくの沈黙が続く。緊張から身体のどこかを触る音すらも、とんでもなく大きな音に聞こえてしまう。
その静寂を打ち破ったのは、その夜最後の定時を告げる鐘の音であり、二人はそれにハッとした表情を浮かべた。
「明日は早いし、そ、そろそろ寝ようとするかね……っ」
「あ、ああっ、そうしよう! 眠くてたまらないからな」
私も、とクレアは言ったが、二人して『今日は寝付けそう』にないと直感していた。




