第3話 静寂
約二十分ほどして、男と女が乗った馬は、やっとの思いでウィザムの村に到着した。
まだそこまで遅くない時間にも関わらず、簡単な木の柵で囲われた村のあちこちの灯りは落ち、夜のとばりに草木のシルエットが浮かぶ。
温泉地と聞き、もっと賑わいを見せる場所を想像していた進次郎にとって、葉擦れの音にすら侘びしさすら覚える静寂は、来る場所を間違えたのかと思えてしまうほどだ。
しかし、鬱蒼とした空気はない。わずかに硫黄の臭いがするそこは、知る人ぞ知る隠れた秘湯のような情緒ある雰囲気をしていた。
進次郎は正面の建物を見上げた。外観は洋風瓦の三角屋根に、木の格子戸の建て構え。軒先には赤く灯る提灯――情緒ある和に近いテイストのそれに、進次郎は『まるで旅館のようだ』との印象を抱く。
ワンコは他に用事があるらしく、村の奥の黒く塗りつぶされた山の方に消え、いつしか馬の蹄の音も聞こえなくなった。代わりにミミズクのような夜鳥の鳴き声だけが聞こえている。
二人は気まずさを残したまま、格子戸を開く音と共に足を踏み入れた。
外観が“和"だとすれば、内観は“洋"だった。薄ぼんやりとランプ灯りに照らされたエントランスには、腰の高さほどの質素カウンターが設けられている。
そしてそこには、頭に紺色のバンダナと同色の半纏を羽織った男が座っていた。厚ぼったい一重まぶたに、やせ顔……御世辞にも接客業に向いているとは言えない顔つきである。
二人が入ってきたのを確認するや、男はすっくと立ち上がった。
「――姐さん、お久しぶりっす! お待ちしてやした!」
「久しぶりだねぇ〔シュト〕! しばらく厄介になるよ」
「へい……って、何かあったんですかい? 何か顔が赤そうっすけど」
「へ? あ、いい、いや、何でもないよっ!」
シュトと呼ばれた男の言葉に、クレアは顔の前で両掌を左右に振った。
平素を装っていたつもりであったが、悶々と赤らめた顔は隠しきれなかったようだ。
「は、はぁ……? それで、手紙にあったツレと言うのは後ろの――」
「ああ、そう言えば紹介しなきゃいけないね。
うちで新しく働くことになった、シンジ――えーっと……シンジでいっか!」
「おい……」
「相変わらず人の名前覚えないっすね……。
俺はシュトだ。少し前まで姐さんの所で働かせて貰っていたんだ、よろしくな!」
「初めまして、神室進次郎です」
そう言うと、挨拶代わりのハグを行う。
進次郎もハグの文化に少し慣れてきたようで、最初ほどのぎこちなさはない。
二人が離れたのを見たクレアは、少し不安げに本題を切り出した。
「――で、シュト。例の件、考えておいてくれたかい?」
「ええ……ですが、宿は今軌道に乗り始め、ウチのモンが今これなんす……」
シュトはそう言うと、腹の前で山を作る。
それを見たクレアは、落胆の表情を押し隠しながら小さく頷いた。
「ああ、そうだったのかい……ストレト、カブもダメだったし、せんないね……」
「すいやせん、お力になれず……あれ? フォクのおやっさんは?」
「あれも、もういい年だからね――ま、仕方ないね!」
クレアはカラカラと明るい笑みを浮かべた。
しかし、進次郎の目には、彼女は無理に笑っているようにも感じられていた。
「――ああそうだ、シュト。アンタの所にある工具貸してくれないかい?」
「ええ、構ないす……って、もしかして馬車の修理すか?」
「おや、よく分かったね。向こうの山道で車輪割れちゃったみたいなんだよ」
「姐さん、それは事故じゃありやせん! それは仕組まれた罠すぜ!」
「わ、罠!?」
「くそっ! アイツら、姐さんの馬車にまで……っ!」
クレアは驚きの声をあげ、そんな物は見受けられなかったと首を傾げる。
進次郎にも目を向けられ、彼女に同意するように大きく頷いて見せた。
「わだちの中に、車輪幅が広がっていくように石を埋め込んでんすよ!
そこにハマり込んだら、ぐぐぐっと広がって――ばきっと車輪が割れるってんす」
シュトは眉間に深い皺を寄せ、ぐっと握り拳を作った。その様子からして、この村の者たちも何らかの被害にあっているのだろう。今すぐにでも乗り込みに行きそうな、一触即発の様子である。
「――シュト、馬鹿な気を起こすんじゃないよ。
あれの持ち主は《コボルド》、それを報告したら奴らが動いてくれるさ」
「それがダメなんす! 奴ら大公領の、“十二席”のせがれたちなんす!」
「大公領とか別に……って、何だってぇッ!?」
「な、何だその大公領・“十二席”って……?」
進次郎の問いかけに、クレアは『大公側のトップ・国政を担う貴族連中だ』と言葉短く説明した。
「《コボルド》の集落が一つ、この山の中にあるんすけど……王都と同盟関係にある彼らにとって、下手に手が出せず、手をこまねいている状態でやして……」
「それ、<巨紳兵>は動かないのかい?」
「来てもおかしくない状況すが、どういうわけかまったく……。
恐らくは大公領と法が違うからか、殺人らの重罪を犯していない、ガキどものヤンチャ止まりのせいか……。
奴らはそれを良いことに、『客を足止めしてるんだから感謝しろ』など言いたい放題。
王都に嘆願状も届いているはずなんすが、このままだと《コボルド》も村の奴らも暴動起こしかねないす」
「――で、先頭切るのはアンタだろう?」
「へ、へへっ、つい昔の血がたぎって……ですが、睨んだらビビって逃げる連中なので、その気になりゃすぐにでも行けやすぜ!」
まったく、とクレアは呆れたようにため息を吐いた。
相手は次男などの家督を継ぐ必要のない、放蕩息子たちで形成されたグループであるらしく、『世直し組』などと名乗り、商人の積み荷などを奪うなどの悪事を積み重ねている、とシュトは話す。
「ま、その件に関しては、私からもダヴィッド様に直接言っておくよ。
あの人なら知らぬ存ぜぬは言えない――村の連中にはそれまで、辛抱するように言っておきな。それと、アンタもだよ」
「へいっ! さすが姐さんっ、頼りになるっす!」
「じゃあ、この話はお終い。
早く温泉にも入りたいし、部屋の鍵をおくれよ」
「了解っす! これがその鍵、一番人気のある部屋を用意しておきやした!」
「お、さすがだね!」
責任感と言うべきだろうか、このような時のクレアは頼もしかった。
もしダヴィッドが答えをはぐらかそうものなら、納得のいくまで詰め寄っていき、城にまで乗り込んでゆきそうなオーラを放っている。
進次郎は感心したようにクレアを見つめていた。
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ランプ灯りを頼りにしながら、白色の漆喰の壁の廊下を歩く。
今日の宿泊客は、進次郎らの他に一人――どうやらシーズンがあるらしく『今の初夏の頃には客がまったく来ない』と、シュトは言う。来ても《コボルド》らばかりであるので、この間に改装などを済ませる所も多いようだ。
この宿も二年前の今頃に一部改装したようで、廊下や指示された部屋の格子戸はまだ真新しさを残している。
どうして村が閑散としていたのか、進次郎はそれを聞いて納得がいった。時ならぬ温泉ブームは来ていないらしい。
ほぼ貸切り状態のためか、気持ちが急いているクレアに苦笑しながら、進次郎はガラリと引き戸を開け、部屋に明りを運ぶとそこは――
「な、何だいこりゃあっ!?」
「な、何でこんな部屋があるんだ……」
クレアと進次郎は驚愕の声をそろえた。
眼前に広がっているのは、八畳ほどの部屋の床に置かれた一組の大きな布団――。
一人用の物ではない。枕が二つ並べられた、明らかに同衾用の夜具が敷かれている。
クレアはそれに驚いていたが、進次郎はもっと別の場所に驚きを隠せなかった。
「ど、どうして“この世界”に、和室のようなものがあるんだ……?」
薄い萌葱色の板張りの床は畳を模したようであり、奥にある白い板に木枠を貼り付けた引き戸は障子戸を――更に奥はテラスがあり、黒いローテーブルと椅子が置かれている。
すべてが“もどき”であるその部屋は異様であったが、進次郎はどこか懐かしさのような物も覚えていた。
「わ、わしつ……って?」
「俺がいた“日本”の旅館はこんな感じなんだ。
外観もそれに近かったんだが……どこかに似た文化でもあるのか?」
「私はこんなの、見たことも聞いたこともないよ……!
じゃ、じゃあその……こ、この床に直接寝るのもそう、なのかい?」
「う、うーん……普通は人数分の布団が並ぶんだけど……。
その、何というか、男女の旅行とかだとこんな、ね……」
「んな゛っ!?」
先ほど馬上で感じた、男女の“異なり”を思い出し、クレアは当惑した。
進次郎はクレアの“肉感”に意識を持っていかれ、思わず反応させてしまったのだ。
そして、クレアも薄っすらと男の“異変”に気づいていた。
幾重の布を隔てて伝わるそれに、呼吸の仕方すら忘れそうになったほどである。
「――へ、部屋用意してもらう、か?」
進次郎の言葉に、クレアはハッと顔をあげた。
その言葉は、彼女にとって願ってもない提案だっただろう。
だが――
「あ……でも、流石にそこまでは図々しくやると悪いし、さ……。
それに、アンタのところの文化ならその……体験しても、いいか、な?
だ、だけどっ! へ、変なことは考えるんじゃないよっ?」
「あ、ああ、分かってる!」
言った後で、クレアは後悔した。しかし、それは何に対しての後悔か、自身でも分かっていない。
入口に掲げたランプの灯火が、ジジ……と音を立てて揺れた。
どれほどの間、静寂が続いたのか――熱気にじわりと汗が浮かび始めた頃、突風が強く窓を叩きつけた。
「――そ、そろそろ風呂に入るか!」
ここしかない、進次郎はその音をきっかけに口を開いた。
「そ、そうだね! 疲れたし、汗も流してゆっくり寝たいしさ!」
風呂に入り、この悶々とした気持ちを洗い流そう。
薄暗い部屋の中、二人はそそくさと支度をしながら、心の中でそう願っていた。




