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第2話 進行方向

 三日が過ぎたこの日、まだ夜の頃から進次郎たちはワンコの馬車に揺られていた。

 まだ群青色が濃い空の下、舗装されていないリーランド郊外のあぜ道を、ひたすらガラガラと走り続ける。橙色の柔らかいランプが灯る馬車の中では、並んで座る男女が窓の外に浮かぶ草木のシルエットをぼんやりと眺めていた。

 長い沈黙がずっと続いているが不快なものではない。むしろ心地よい静けさであるため、気になったことはいつでも口に出せた。


「――行き先は【ウィザム】の町だっけ、そこはどんな所なんだ?」

「小さな田舎町だよ。でも、ただの田舎町じゃない――」

「と、言うと?」

「温泉があるんだよ! 温泉が!

 ちょっと高いけど、懐が暖かくなったし、今度は体も温めようかと思ってね。

 骨休めには最高の場所なんだよ」

「おお、それはいいな! ダヴィッドさんもいい休みをくれたもんだ」

「休みに関してはありがたいけど……私はまだ、納得がいかないよ」


 ダヴィッドの言葉通り、正式に城から工事中止の下知が下ったのだが、この決定にクレアはあまり良い顔をしなかった。認められたことに喜ぶ反面、契約書に書かれていた一文に納得がゆかなかったのだ。

 そのため、今もなお話題になるたびに『仕事の()()が奪われた』と、不足そうに唇を尖らせる。


「正式に公共事業になって、俺達がその第一人者になったんだからいいじゃないか」

「それはそうだけどさ……。

 今回ばかりは、ダヴィッド様の考えには納得がいかないよ。

 『あらゆる場面において、持ちうる能力・技術をいかんなく発揮すること』

 なんて、全部モノにする気満々じゃない……」


 荒く息を吐くクレアは『せっかく二人で興した事業なのに……』と、消え入りそうな声で続けた。

 それに進次郎は、馬車の正面に広がる真っ暗な道を見据えながら口を開く。


「一個人できる事業じゃないし、城の“御用聞き”になったようなもんだ。

 見よう見まねでやられると危険だし、将来的な暮らしも安定することになると思えば、悪いことばかりじゃないさ」

「将来的……あ、そっそうだねっ! そっか、確かに……」

「ん?」

「い、いやっ、こっちの話だよっ!」


 橙色のランタンに照られされたクレアの顔は、更に赤みが差したように見えた。

 クレアは熱っぽくなっているのを悟られぬよう、顔を横向け窓ガラス越しに流れる草木を眺め続けた。

 ここの所、彼女はずっとこの調子である。どうしたのかと進次郎は思ったが、疑問よりも眠気が勝ってしまった。予定を知らされぬまま、突然たたき起こされたのだ。


「ふぁ、あぁ……朝が早かったから眠い――ワンコ、お前も迎えが早すぎるぞ」

「ウォ? ウォウォンッ!」


 犬の朝は早い。ワンコは『これでも遅いくらいだ』と言いたげに、甲高く吠えた。


「シンジ、今の内に寝ておきなよ。あと三時間もすると道が荒れるからさ」

「ん、そうするか……クレアもここの所あまり眠れてなさそうだけど、大丈夫か?」

「あ、ああっ、私はどこでも寝られるからねっ!

 うん、大丈夫だから……ランタン消すよ」


 チラっと進次郎に目をやりながら、クレアはしどろもどろにランタンの火を落とす。

 彼女の言葉が気になったものの、車内が真っ暗になるとすぐに眩暈がしそうな眠気が襲い始め、それどころではなかった。進次郎は『これなら眠れそうだ』と、そっと目を閉じた。

 それを見たクレアは、小さく気を緩める息を吐いた。

 どこでも寝られると言ったものの、今日に限っては眠れそうにない。いや、今日だけではない――二日前から、ひどく寝つきが悪くなっているのだ。


(べ、別に、そんな気もさらさらないんだけどさ……)


 ふぅ、と息を吐いては胸を落ち着かせる。

 不眠に陥った理由――それは、進次郎とダヴィッドの会話を聞いてしまったのが原因なのである。

 もはや何度目か分からない大あくびをしながら、静かになった進次郎に目を向けた。

 ダヴィッドからの見合い話は、今回に限った話ではない。たいてい話を振られた男は苦笑し、『素敵な申し出ですが――』と白々しく社交辞令を述べられながら断ってくるので、それには慣れている。

 なので、今回もハッキリと『No!』と断ってくれれば、彼女自身も『男がなんだ!』と踏ん切りがつくはずだった。……にも関わらず、進次郎は曖昧であるものの『Yes』に近い返事をした。

 “意識”は心を裸にする。そのせいで、クレアはどうして良いのかとずっと頭を悩ませているのだ。


 じっと藍色の窓ガラスに映る顔を見つめた。

 ダヴィッドの言葉通り、男社会の中で育ったせいか、男たちが期待する“女”からかけ離れた性格の、花の盛りを知らぬままの女がそこに居る。

 それが顔に出ている。この国で望まれるのは、卵型の顔に、指先に少し力を込めれば果汁が溢れ出す白桃のような柔肌をした、従順で清楚な女だ。

 頬から顎に。それを確かめるように、顔のラインに沿いながら撫でてゆく。


(……まるで林檎だね)


 丸くて硬い――自分の言葉に、言い得て妙だと鼻で笑ってしまった。

 同時にすっと潮が引いてゆく。

 考えるだけ馬鹿馬鹿しい、と乱暴に身体をもぞりと動かし、楽な姿勢のまま目を閉じた。


(でも、最後は妙に気になる言葉だったね――)


 彼女も女であり、色恋沙汰に興味がないわけではない。

 瞳を閉じれば、瞼の裏に広がる闇が感情を昂らせ、己の“内なる女”を見せる。

 もし、求められたら。その時に困らないよう、事前に考えておかなければ。

 無意識に肉厚な太ももを擦り合わせながら、彼女もゆっくりと眠りに落ちていった。


 ・

 ・

 ・


 リーランドを発ってから一日半が過ぎた夜――厄介な問題が起きた。

 走行中の馬車がゆらゆらと揺れ始めた、と思った直後であった。突如としてガクンッと大きく傾き、雷が落ちたような音とともに強い衝撃が乗客を襲ったのである。

 進次郎は横に思いっきり叩きつけられ、その上から更にクレアの半身の体重が預けられてしまっている。


「――う、うぐっ……ば、馬車が傾いてる、のか?」

「ありゃー……やっちゃったかぁ……」


 ワンコは、『キューン……』と困り顔を車内に向ける。

 クレアは慌てふためく進次郎を押し出すように、いそいそと馬車を降りた。

 そして、それを見るなり(ひたい)に手を当てながら、大きく息を吐いた。


「こりゃ困ったねぇ……今日は工具なんて積んでないよ……」

「な、何が起こったんだ?」

「暗くて分からないけど、恐らく車輪……軸からバッキリと割れてるんだよ。

 ワンコ、町まであとどれくらいだい?」


 クレアの言葉に、ワンコは『ワンワン』と吠えた。


「十一分くらい? 何だい、すぐそこじゃないか」

「そこは十分でいいだろ……。

 ええっと、馬車が時速八キロぐらいとして、それの十一分だから――だいたい一・五キロほどか?」

「え……? 百メートルぐらいじゃ……あれ?」


 クレアは慌てて地面に計算を書き始めているが、メートルに換算していないことに気づいていないようだ。

 自分の解を確かめるように周囲を見渡すも、明らかにその答えの数字内に町らしきものは見えていない。

 しかし……何度計算しても似た計算結果となる。彼女はついに、イラ立ったように足でそれを掻き消した。


「ま、まぁ《コボルド》も歩けば棒に当たるよっ!」

「何でもいいからやってみりゃ上手くいくかもしれんが――ちなみに、徒歩だとどれくらいで到着する見込みなんだ?」

「うっ……ま、まぁ、ね? 一時間以内にはつくよ、あ、あはは……さ、歩こ歩こ」

「こら」


 呆れ顔の進次郎をよそに、クレアが乾いた笑いとともに身を翻した時――ワンコは制止を求める吠え声をあげた。

 二人が振り返ると、馬車を指さし、腕を交差させ、何かを突き刺す動きを繰り返している。


「馬車が壊れたことを示せ?

 ――ああ、このまま放置していくわけにもいかないからね。

 そこの山の脇道に置いて、壊れた旨を描いておくかね」

「ペンキとかあるのか?」

「セイズ村に行った時のなら積みっぱなしだから、何色かあるよ。

 しかし、どう書こうかね……『事故・気にせず行け』だと書ききれないね」

「なら、超シンプルな【進行方向】の矢印のマークでいこう。白一色でいいし」

「それいいね! じゃ、言いだしっぺに頼んだよ」


 クレアはそう言うと、取り出した白いペンキ缶を進次郎に手渡す。


 ――してやられた


 時既に遅し……クレアはにこやかな顔を浮かべるだけだ。

 こうなると進次郎は弱い。彼女に『やれ』と言われたら従うしかなかった。

 Noと言えない日本人の()()を呪いつつ、白い塗料を吸ったハケでさっと馬車の後部に大きな矢印を描いてゆく。その作業は三十秒もかからず終わるのが幸いだった。

 ペンキの缶を馬車に戻すと、その背後ではワンコが留め具を外した馬を連れていた。


「何? この馬に乗っていけって?」

「――ああ、その手があったね。

 シンジ、さっきの答えだけど、やっぱり十分ぐらいで着くよ! うん」

「こ、こいつ……。だけど、鞍がなきゃ馬には乗れないだろう?」


 進次郎の言葉に、クレアは片眉を上げた。


「おやっ? シンジは裸馬にも乗れないのかい?

 頭があっても、実戦で役立てなきゃ意味がないねえー」

「ぐ、ぐぬぬっ……」


 先ほどの仕返しとばかりに、クレアの鼻は高々と夜空に向いている。

 悔しいが、このような有事においては知識よりも行動力がモノを言うため、進次郎は何も言い返せない。

 しかし、クレアは顎をわずかに持ち上げたまま、チラチラと視線を送るだけに留まっている。


「ま、まぁその、どうしてもって言うなら、の、乗せてやってもいいよ!」

「へ?」

「こ、こんな夜道を、じゅ、従業員を一人で歩かせるわけに、い、いかないしさ!

 うう、後ろに乗りなよ……!」


 二頭いる内の一頭はワンコが乗るので、元々そのつもりだったのだろう。

 ワンコは既に踏み台を用意しており、悪戯含み笑みを浮かべている。

 最初にクレアが軽々と跨ると、馬の頭に取り付けられている、頭絡(とうらく)と呼ばれるハーネスの手綱を握りしめた。

 頭にだいたいの絵柄が思い浮かぶ。クレアも進次郎も、『背に腹は代えられない』『仕方のないことだから』と自分自身に言い聞かせた。


「じゃ、じゃあ――よっ! ……と、ととっ!?」

「も、もっと前にだよ……! そこじゃ馬が辛いし、落ちちゃうよ……!」

「ま、まだなのか?」


 ワンコは進次郎の尻を押し、前に移動するように指示を出した。

 どんどんと前に、前にと誘導してゆき……遂には密着寸前まで来ている。


「マジで……?」

「は、早くしておくれよ――」

「わ、分かった……!」


 クレアの背と密着した瞬間、彼女はビクりと身体を震わせてしまった。

 ワンコはお構いなしに進次郎の腕を彼女の腰に回させ、ぎゅっとしがみ付くような仕草を見せる。

 進次郎は呼吸を忘れてしまいそうなほど、ガチガチに緊張していた。

 それはクレアも同じであり、今にも破裂しそうなほど心臓が激しく鼓動している。

 馬の背に脹脛(ふくらはぎ)の膨れている部分をかけるよう指示だけされると、急ぎ気味に馬を前に進ませ始めた。


「――お、おぉっ……動くぞ!」

「そ、そりゃ動くに決まってるじゃないか……!」

「ここの世界の人は、みんなこうして馬に乗れるのか?」

「私は父さんから教えてもらったけど、乗れないのは女と進次郎ぐらいだよ。

 ああ、女でも中流階級以上は嗜みで乗る者もいるかな」

「ぐっ……だけど、いつまでも乗せてもらうわけにはいかないな……脚と尻が痛い……」

「脚で浮かせるように、ぐっと尻を浮かせるんだよ。こうして――」

「ちょっ、それだめっ!?」

「なっ、ど、どうしてだい……!」

「い、色々とヤバいから……」


 密着している下半身の温もりすら意識しないようにしている進次郎にとって、目の前の女の弾力・刺激は非常に危険なものである。

 乗馬時の腰の動きは、ただ大げさにやっているものかと思っていた進次郎も、今この瞬間に考えを改めたようだ。


 首を傾げたクレアであったが、ほどなくして彼女もそれに気づいた。

 到着までの数十分――シンと静かな夜空の下で、馬の蹄の音だけが響き続けた。

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