第1話 土方、異なる世界へ
闇の底に沈みきった瞬間、世界は途端に白く輝いた。
ハッ……と見開かれた男の目に、板張りのくすんだ天井が映る。
(また“死んだ”時の夢か……)
起き抜けのぼうっとした状態のまま、男は大きく溜息を吐いた。
嫌な夢を見た。夢の内容はすぐに忘れるが、悪夢は粘液のように記憶にべたりと貼りつく。
それでなくとも現実に起ったことであるため、一時的に忘れられたとしても、記憶の根底にあるそれは、容易く剥がれ落ちてはくれないだろう。
――夢を見るたび鮮明になってくる
もう一眠りしようとしたが、完全に目が覚めてしまったようだ。
ずんと重い瞼をシパシパとさせ、ベッドを軋ませながらゆっくりと身体を起こした。
そこは、質素な病室だった。
ただし、“現実”ではない。しかし、“天国”と呼ぶには難い場所でもある。
ぎゅっと目をつむり、ゆっくりと開くも、視界に映るのは“別世界”の病室のまま、何一つ変わらない。
室内には三つのベッドが並び、最奥の窓側のベッドに自身が養生している。
ここに来て二ヶ月あまり。色あせた石壁は白かベージュか、未だに分からない。
壁から脇にあるチェストテーブルに目線を移す。そこに置かれているヒビの入った黄色のヘルメットが、“悪夢”が現実であったことを証明していた。
「はぁ……」
男は胸を開いて深呼吸をした。
襦袢のような白い寝間着は、嫌な寝汗でじっとりと湿っている。
すぐに“この世界”の服に着替えたい所であったが、身体にはまだ“異変”が起こったままのため、もうしばらくこのままでいたかった。
「うーむ……」
男は思案に耽っているせいか、パタパタと軽い足音が近づいていることに気づいていなかった。
やがて、軽いノックの音と同時に、蝶番の鈍い音がゆっくりと部屋に響き渡った。
「シンジさん、起きていま――あ、朝っぱらから、なに馬鹿なことをしてるんですか……っ!」
部屋に入ってきた茶髪の女は、白い掛布団を持ち上げているそれを見るなり、慌ててそっぽを向いた。
目鼻の整った顔立ちをしており、彫の深い目元がその印象をより深くする。
「お、〔リュンカ〕ちゃんか。いやね、これ見る度に思うんだよ。
エレガントなエレファントになってるこれは、やはり現実なんだなって」
「わ、わけの分からないことを言ってないで、隠すか、し、鎮めてくださいっ!」
「……時間かかるんだよなぁ」
「き、着替え、ここに置いておきますからねっ……!」
リュンカと呼ばれた女は、黒く長いワンピースのスカートを揺らしながら部屋を飛び出した。
彼女はここ一人娘であり、シンジと呼ばれた男が倒れているのを見つけ、運び込んだのだ。
意識を取り戻したのは、それから一ヶ月ほどしてから――その時も今日と同じく、“事故の夢”で目が覚めた。
(まだ、二十歳そこそこなのに医者の卵なんだもんな……)
リュンカはその後も甲斐甲斐しく看護してくれ、退屈しのぎの会話の中で、“この世界”のことをいくつか話してくれた。
そこで、この世界には、故郷・【日本】と呼ばれる国が存在しないことを知る。
『地理関係には疎いですが、まるで聞いたことのない国ですね……。
この国は【リーランド王都領】と言い、ここは【セイズ村】と言います』
まるで聞いたことのない国や、村の名であった。
そんな国のほぼ南端にあるような村の近く、湖の近くで血だらけで倒れていた、と話す。
『血や排泄物で汚れていたので、衣類は処分してしまいました……。
しかし、上着に字のような刺繍がされてありましたので、それだけ残しています』
と、血染みが鮮明に残る作業服を差し出された。
【株式会社カムロ 神室 進次郎】
その胸元に刺繍されていたのは――自身の会社、自身の名前である。
それを見るなり、彼はしばらく苦笑いを崩せなかった。
(嫌いな仕事がよもや、己のアイデンティティになるとはなぁ……)
身体が落ち着き始めたのを見て、進次郎はベッドを軋ませながら降り立った。
病室の入り口横には、木の枠で縁取られた大きな楕円形の鏡が掲げられている。
それを覗き込めば、二十八年間共に歩み、嫌と言うほど見てきたムサい顔が映った。
(――以前の俺は“死”に、別の世界でリスタートを切ったのか?)
ここは死後の世界か、それとも死に際に見ている一炊の夢か。
顔や身体はほぼ以前のまま。新たに生まれ変わったわけではなさそうだった。
なので、この身一つで西洋の田舎町にやって来て、ふとしたことで病院の厄介になっていると思えば違和感はないだろう。
相違点としては、少し伸ばそうとしていた髭が綺麗になくなっており、身体のパーツも一部が違うだけ――今一度、それを確かめるように覗き込む。
死なせてしまったお詫びか。理由はどうであれ、男にとっては嬉しい誤算である。
(ここで生きてゆく分には、問題無さそうだが……)
世界に適した肉体を得たのか、それとも適するようになったのか――肉体の変化だけでなく、“音”にも変化があった。
顔つきは日本人とはまるで違う、どちらかと言えば西洋人に近いリュンカとの会話も、問題なくスムーズに行うことができているのだ。
進次郎は顎に手をやって、再び何かを思い出すように思案した。
(心臓止まったら、パソコンが木端微塵に吹っ飛ぶシステムが欲しいな)
でなければ、死んでも死にきれぬ、と進次郎は思った。
会社でもあり自宅……そこで共に暮らす親たちの存在は、一時的に記憶の奥底に仕舞い込んでいる。
今の自分が知り、考え、理解すべきことは、この村とリーランドと言う国と文化・習慣のみ――この世界のどこかに、“もしかすれば”があり、それが叶わぬと分かった時に涙するつもりだ。
なので、今は“死んだ”と仮定するだけにし、『その国に応じた身体を持ってこちらにやって来た』と考えるだけにしている。
(だけど、この村の外に出る時は来るのか……?)
進次郎はリュンカが置いて行った、この村の者がよく着ている着物を手に取りながら思った。
この国では、農民や職人、商人で着られている物が違うらしく、農業で生計を立てているセイズ村の者たちは、前開きの上着と脚衣をよく着用している。
それを見た進次郎は、真っ先に『日本の作務衣や襦袢のようだ』と思い、懐かしさをも覚える。
色に関しては村で決められているのか、男はオリーブ色、未婚女性は茶色、既婚女性は朱色のそれを纏わねばならないきまりであるらしい。
手慣れた様子でそれに着替えると、進次郎は静かに廊下に続く扉を押し開いた。