一章 1-3
「はいはい、開いていますよー」
慶人の呼びかけに、人影が一瞬戸惑いを見せた。
「ん? どうしました?」
少し間があって恐る恐るドアが開かれた。
「……おじゃまします」
遠慮がちに玄関に入ってきたのは、慶人と同年代ぐらいの少女だった。しかもかなりかわいい。
くっきりとした二重の瞳にそれをふちどる長い睫毛。すっと通った鼻筋、後ろ髪を頭の高い位置で結び、余計な贅肉などついてなさそうなほど華奢な体。
慶人がぼうっと見惚れていると、少女が意を決したように口を大きく開ける。
「あ、あのねっ……」
しかし一言を言ったきり、彼女は慶人がある物を持っていることに気づき、口を開けたまま硬直してしまった。
慶人は彼女の目線の先を追った。左手だった。その左手には、先ほど少年から奪い返した雑誌が無造作に握られていた。表紙はクシャクシャながらも、大体の想像はできた。水着姿の女性が恥じらいの表情しつつも悩ましげなポーズをとっている。
そう、これはエロ本だったのだ。
「こ、これは、ちちち、ちがうんです! ……ッ?」
視線を戻して慶人は思わず息を呑んだ。少女が真顔になり、いつの間にか拳が作られ、右腕がやや後方に引かれていた。足もある程度開き、すぐにでも体重の乗った力強い右ストレートを繰り出される状態だ。
慶人は弁解の余地なしでダメだと思った瞬間、玄関のドアが勢いよく開いた。
「たっだいまー。あれ、お客さん?」
「お、おかえり。ま、まあ、そうだな」
「ふーん。で、そのおとなのおねーさんが描かれてる本はだれのー?」
「え? あのな、それはだな……」
兄としてのメンツを保ちたい慶人は窮地に陥った。いまはとても妹に細かい説明なんかできない。というよりも小学校二年生が性のこと、ましてや年ごろの野郎の性事情を同年代の女子でさえ首をかしげるほどである。あたりまえだが到底理解できるはずがないのだ。
まずいまずいと脳が警報を絶えず発している。
何かいい案はないかと必死に考えをめぐらすが、警報が出ているさなかで思いつくわけがない。
ならばと尻目遣いに周囲を確認する。すると階段の二段くらい上がった所に、顔だけこちらに向けている者がいた。さっきの少年だった。相変わらずニヤニヤとした顔で、こちらの様子を安全圏で盗み見ている。
(あいつに頼るしかない!)
そう直感した慶人は首を少し動かし、アイコンタクトをこころみた。
(これをおまえにやる。だから、いまは助けてくれ)
少年は待っていたとばかりに、すばやく首を縦に振った。
(ありがとう。恩に着る!)
慶人も首を縦にわずかに首肯して、エロ本が握られている左腕をバックパスするように力強く振った。数秒の滞空後、それを少年が腕だけグッと伸ばしてキャッチした。
えなが帰ってきてから一分間の出来事だった。
「あいつのー」
止まっていた時間をむりやり動かすように、慶人が振り向いて指を差すと、少年はエロ本を持ってないほうの手を満面の笑みをのぞかせて振った。
「ふーん。じゃあ、このお姉ちゃんはだれー?」
えなの質問に答えるために、慶人は正面に向き直った。そこには、いまだに右ストレートを放ちそうな格好で固まっている少女がいた。
「んー……」
どうしたものかと眉間にしわを寄せ、慶人はうなった。
後ろにいる少年は同性だから、まだ友達と言い訳できる。しかし、慶人は女友達ゼロで女っ気がない。
しかもこのように敵意剥き出しの格好をされていては、言い訳しようにもできないのだ。
こちらが悪いとは言え、殴られそうになったから悪者に仕立て上げてもよさそうではある。けれどそれでは良心が痛む。それに、なんとなくではあるが、他人の気がしないのだ。
(まるで『未来と過去の交流』のような展開だな。細かいところはちがえど、人物と会うところまではおおまかに似てる。でもなぁ)
慶人はうんうんうなり続ける。
そうしているうちに、少女がえなの好奇の眼に耐えられなくなったのだろう。構えを解いてえなのほうに体を向けた。すると、少女の顔がたちまちパッと明るくなり、えなを軽々と持ち上げた。そして、とんでもないひと言を口にした。
「えなおばあちゃん、逢いたかったよ」
とろけるような物言いに、始めはキョトンとしていたえなだったが、少女に頭を優しくなでられてまんざらでもないらしく無邪気に笑う。
「は?」
唐突のことに状況判断ができない慶人は、少年を振り返る。だが、奴はエロ本を食い入るように眺めているだけで、こちらにはもはや興味がなさそうだった。
玄関を見れば、こんどは少女がえなに頬ずりし始める始末だし、えなは早くもなつき始めている。
(なんなんだ、この状況は……?)
慶人はしばらくどうすることもできず、自分なりに頭の整理がつくまでその場に立ち尽くしたのだった。