三章 1-1
「おはよー、智ちゃん」
「……おはよ」
「ねえねえ、智ちゃんって野球好きだよね?」
「……まあ、それなりに」
「昨日の東郷のピッチングは圧巻だったよねっ。広島の強力なクリーンナップが手玉に取られてて、爽快だったなぁ」
「……そう」
「それからさ……」
静莉が言葉尻を浮かせたそのとき、教室に入ってきたクラスメートから声をかけられた。
「おはよう、静莉ちゃん」
「おー、みっちゃんおはようっ」
静莉は肩越しに振り返り、手を上げてあいさつを返した。一瞬後、静莉に向き直って少し苦く笑う。
「じゃ、今日もよろしくねっ」
智世は表情を微々として変えず、無言でうなずいた。まもなく静莉は、先ほどあいさつを返したクラスメートのもとへ歩みを進めた。
一連のふたりのやりとりを、黒川の席から見ていた慶人と鮎川と黒川。鮎川は小声ながらも自信満々に断言した。
「ありゃ、冷戦だな」
「は?」
慶人と黒川の驚いたような小バカにしたような、どちらともつかない声が重なった。
「『は?』じゃなくて、明らかにそうだろ。静莉ちゃんから話しかけられてるときの智ちゃんの表情は、明らかに『話かけんじゃねーよ』って不機嫌なオーラが出てた」
「それはおまえがじーっと智を観察していたからじゃないか? 『うわっ、あのコンタクト野郎私のことをじろじろ見てる……!』つー感じで」
「直江の言うとおりだ。おまえは智さんと静莉さんを直視するのはまだ早い。あと、お得意の百合妄想なんかしてみろ。おこがましいったらありゃしないし、あれをしてるときのおまえのツラはとんでもないことになってるんだぞ。絶対にやめとけよ、絶対にだ」
ふたりの言葉に、鮎川は憤慨した。
「あいも変わらず君たちはひどいことを言ってくれるじゃないか。百合妄想をして何が悪い! 百合こそ正義かつ至高じゃないか! ああ、あのなんとも言えない甘美で恍惚に満ちた世界……! なぜ人々はこのすばらしい世界を知らない、いや、知ろうとしないのだろうかッ……!」
ふたりは呆れて肩をすくめた。
「まーた始まった。こんなことを大声で言っちゃうから、見てくれはいいのに女子がドン引きして近寄ろうとしないんだよな」
「まったくもって同感だ」
ひとりだけイスに座っている黒川が、相づちを打ちながら肩越しに振り返る。そこには数名のクラスメートと談笑している智世の姿があった。
「本当、こう言っちゃなんだけど、静莉さんだけに冷たいよな。直江、何か心当たりはないのか?」
「いんや、まったくない」
本当なら、心当たりと言うなの矢が慶人の全身を突き刺していたのだが、ここはとぼけるしかなかった。
夕方、静莉と慶人は台所で料理。慶仁はえなの宿題を見ている。智世と倫は並んでテレビを観ていた。
「あはは、それはずるいよね」
「うんうん。まさか梅干しの種をそんなふうに使うなんて」
すっかり親しくなったふたりは、お互いにあった遠慮がちな丁寧語も取れ、くだけた会話をしていた。
智世の表情そのものは穏やかだったがしかし、心中では暗澹とした思いが、沸騰した水に生じた泡のように次々と浮かんでいたのである。
(学校ならまだしも、家にまでこられちゃストレスが溜まるわ……。かと言って感情のおもむくままにストレスをぶつけたら、柿崎がこなくなってしまう可能性がある。それじゃダメ。でも、このまま指をくわえて慶人と柿崎の仲がよくなっていくさまを見てるのは悔しい。だけど最悪、パラドックスが起きて、私は本当にどうしようもなくなってしまう……。はぁ、打つ手が思いつかない。どうしたらいいんだろう。いっそ慶仁のように、楽しむだけ楽しんで帰ったほうがいいのかしら……)
智世は心中で長いため息をつく。ふと、視線を感じて顔を向けると、倫が少し不安げにほほ笑んでいた。
どうしたものかと智世は口を開きかけるが、倫のほうが先に言葉を発した。
「……ねえ、ちーちゃん」
「ん?」
「ちょっと相談したいことがあるんだけど、いいかな?」
「そんな、改まらなくてもいいのに。私と倫さんの仲じゃない」
「そう言ってくれると嬉しいよ。実はスーパーの人員がたりなくて……。ほら、以前のレジのトラブルがあったでしょ。私を助けてくれたときの。そのときのことを店長がすごい褒めてて、よかったらまずはバイトとして入ってほしいって言ってたの」
「え?」
「ダメ……かな?」
顔からわずかな笑みが消えて不安しか残っていない倫の目に、涙が急速に浮かび上がってくる。
智世は一にも二にもなく「いいですよ」と即答しかけた。
「うーん……」
しかし、暗澹たる気持ちと倫の提案に結びつきがあることに気づき、迷うようなしぐさをしつつ、考えがまとまるまで時間をかせぐことにした。
(これは私が柿崎の来てる時間帯に、家にいなくてもいい口実になる。でも……いや、これしかないわ。倫おばあちゃん、あなたの好意を自分の都合と結びつけて考えてしまう悪い孫でごめんなさい……)
智世は倫を安心させるために笑みを浮かべ、明るい調子で言った。
「ダメなんか言わないわ。喜んで引き受けさせていただきます」
「ほ、本当っ? ありがとうっ。智世ちゃんに断られたら、私、どうしようかと思ったよ」
「さっきも言ったように、倫さんのためならどんなお願いも聞くわ」
倫はとんでもないと言わんばかりに、首を横に振った。
「これ以上頼みごとがあったとしても、ちーちゃんに悪いよ。あ、そうだ。慶人さんにも伝えないと」
「その必要はないわ。私からあいつに言うから」
智世の暗い心中に、ひとつの光明が射した気がした。
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