二章 1-1
数日後。
「ただいまー」
学校から帰ってきた慶人が靴を脱ぎ、丁寧に並べて上がる。孫たちの靴はきちんと並んでいるが、えなの靴は帰ってきて脱ぎ散らかしたままだった。それをやれやれと言わんばかりにため息をつきながらそろえてやった。
「まったく、あれほどそろえなきゃダメだって言ってんのに……」
慶人がぶつぶつ言いながらリビングに入る。えなはすでに帰宅しており、リビングに繋がる居間のソファに腰かけ、慶仁と一緒にテレビを見ていた。
慶人はスーパーの袋をテーブルの上に置きつつ、勉強していると思われる智世には話しかけず、すぐさまえなに注意を呼びかけた。
「えなー、玄関の靴はちゃんと並べなさいって何度言えばわかるんだ」
えなはソファの上で正座し、それからくるりと慶人の方ほうを向く。あごを背もたれに乗せて口をとがらせた。
「だって、『魔法戦隊キューティクル』が始まりそうだったんだもん」
「そうだとしてもオープニングなんて毎回一緒なんだから、観る必要ないだろ。それに、靴を並べるなんて十秒以内に終わるぞ」
「むうぅ……」
とっさに言い返す言葉が見つからず、見る見るうちにえなの目に涙が溜まっていく。とうとうこらえきれなくなり、顔を手のひらで覆ってわんわんと泣き出してしまった。
「慶さんやめなよ。えーちゃんが泣いちゃったじゃん」
「そうよ。小さい子を泣かすなんて最低」
その様子を見聞きしていた孫たちが、口々に非難の声をあげた。慶人は肩をすくめ、幼少期のえなのことを知らないと思われるふたりに事実を告げる。
「言っておく。えなは簡単に泣くような子どもじゃない。どこで覚えたのか知らんが、これは嘘泣きだ」
すると慶人の言い終えたと同時に、えなは両手をパッと離した。いたずらっ子のような笑顔を振りまくえなの両目には涙が浮かんでいたが、頬には涙の筋がまったくなかった。声色だけ変えて嘘泣きをしていた証拠だった。
「あ」
慶仁と智世の驚きの声が重なり、面食らった様子でえなの顔をまじまじと見つめた。
「もしも俺がいないときに出かけたら気をつけろよ。未来で何があったかは知らんが、おまえたちならなんでも無尽蔵に物を買い与えてしまいそうだからな」
「うん、気をつけるわ」
慶仁は素直に応じたが、智世はあからさまに無視して教科書に目を落とした。
「えなは明日から靴をそろえろよ。言うことを聞かないと、おやつなしだからな」
慶人は内心でため息をつきつつえなに釘を刺した。
「はーい」
えなは手を上げて答え、再びテレビに釘付けとなった。
ひとまず溜飲を下げた慶人は、スーパーの袋に入った食材を冷蔵庫に入れ始めた。最後のひとつの食材を入れ終えたとたん、あることを思い出した。
「なあ、おまえたちに質問がある。ひと通り家事をやってくれるのはすごく助かる。だが、おまえたちは俺たちの身の回りの世話係として未来からやってきたのか? ちがうだろ。余計なお世話かもしれんが、なんらかのアクションを起こさなくてもいいのか?」
数日経っても何ひとつ変化が起きないことに、慶人はいい加減じれてきた。言葉にはでないものの、期待と不安が胸中に渦巻いていておちつかない状態なのだ。
慶人のもっともな問いかけに、智世は教科書とノートを交互に目を動かしながら即答した。
「勘違いしてもらいたくないわ。私はえーちゃんのお世話を含めて未来から来たのよ。だれもあんたの世話をするために来たんじゃない。現に洗濯物は別々に洗ってるし。それに、動くとしてもいまは時期尚早なのよ」
「あっそ……。まあ、ひと通り家事をしてくれるからいいけど、それさえもしないでゴロゴロしてるだけだったら、いまごろは叩き出してるな。それで、いつごろ動くんだ?」
しかし、智世は黙ったまま問題を解いているばかりだ。そこで慶仁が代わって答えた。
「明日中に動くし、あることが起こるってさ」
「ほう、そうなのか」
おちついて言ったはずが、思わずうわずった声で言ってしまった。慶人はしまったとばかりに、唇を噛んだ。
「楽しみなんだね」
こちらを向いた慶仁に的確に指摘された慶人は、開き直った口調で心情を吐露した。
「まあな。何が起こるか検討がつかない。けど、どんなことが起きてもそれなりに対処できる自信はある」
「それは頼もしいや」
「さて、今日からは俺が晩飯を作るぞ。さすがに慶仁に任せっぱなしじゃ悪いしな」
慶仁の料理の腕は相当のものだった。家庭料理はお手の物で、代表的なものは短時間で効率よく作ってしまう。
慶人も負けていないつもりだった。物心ついた時から料理に没頭していて、いまやもう日本の家庭料理だけじゃ飽きたらずに、外国の家庭料理にも手を出していた。
(慶仁に負けるはずがない)
そんな自負心が慶人にはあった。
買ってきた食材を頭に思い浮かべながら、今夜の献立を考える。そんなとき、あることが電撃的によぎった。
「なあ、智世」
「何よ」
シャーペンをせっせと動かし、ぶっきらぼうに対応する智世に、慶人はさらりと言ってのけた。
「おまえってさ、料理作れんの?」
その瞬間、智世は石化した。慶人が首をかしげて不審に思っていると、慶仁が口を挿んできた。
「あのね慶さん、智世姉は……」
「できるわよ」
「へ?」
と、黙っていた当の智世が思ってもいなかったことを口走ったため、慶仁はすっとんきょうな声を出してしまった。
「慶仁、私を見くびるなんていい度胸してるじゃない。いつからそんなに偉くなったのかしら」
「え? え? えー?」
困惑している慶仁を尻目に、智世は余裕気な笑みさえ浮かべていた。
「それで私は何を作ればいいのかしら?」
「そうだな。んじゃ、みそ汁を頼む」
「わかったわ」
智世は勉強道具をかたわらに置いてあったカバンの中にしまい、ついでにエプロンを取り出して身につけた。青の水玉模様がかわいらしく、結構似合っていた。それから流し台に行って手を洗う。
智世の思ってもみなかったエプロン姿に、慶人はエプロンをつけながら目を細める。
「ほう、エプロンを持参してきたのか」
「あたりまえじゃない。常識よ」
「常識ってことはないけど、いい心構えだ。そんじゃ、この鍋に水を張ってくれ。それから食材を切るときは、すまんがテーブルでやってくれ。まな板は二枚あるから」
「わかったわ。それより私のことをいいから、あんたは自分の作る料理に集中しなさい」
智世は水を張った鍋を火にかけながら、うるさくあしらう。
「へいへい。すいませんね、口うるさい野郎で」
慶人は憎まれ口をたたきつつも、包丁でじゃがいもの皮を剥き始めた。すぐに表情が真剣になり、一切何も喋らなくなった。




