湖面、乱れるとき
「まずいな…人が集まって来た」
波音を背に長く影を伸ばした男の呟きどおり、がやがやと人の気配が近づいていた。
「悲鳴を聞きつけたんでしょうね。僕らはこの状況でどう見られることやら…」
応えるのは、意識をもたぬ少女を抱えた、見目麗しい少年。
「人攫いにでも間違われたら厄介だ。リオ、お前の蒔いた種だろ。何とかしろよ。俺は、人のいい猟師とやり合う気なんてないからな」
「もちろん、誰もカイルの馬鹿力の犠牲にはしませんから、ご安心を」
会話を終わらせると、リオは周りの大気を一呼吸のもと、体内へと取り込んでいく。
そのすさまじい量にリオを軸にして大気が渦を巻き、天へ細く伸びる。渦の消失の後、再び吐き出された大気は白く濁り、辺り一面を瞬く間に濃い霧となって覆い尽くした。
「霧を隠れ蓑に、この娘を連れて先に宿へ戻っていて下さい」
半ば無理やりにカイルに少女を預け、リオは漂う霧の内に消える。
「え!?連れて行くのか?! って、お前何処行く気だよ?!リオ!」
待てども、見渡す限り白く閉ざされた空間から、動揺したカイルへ納得のいく返答はない…。
仕方なく少女を抱き抱えたまま、砂浜をあとにする他なかった。軽く膝を折り、伸ばす。たったそれだけの動作で、カイルの体は霧の上空へと脱し、着地点を捜す。霧から覗いた高い屋根や屋上を足場にして、カイルは宿を目指した。
「成り行きとはいえ、若い娘を抱えるなんて……あいつに見られたらどうしてくれるんだ」
焦るカイルの脳裏には、嫉妬深い元婚約者である魔王が浮かんだ。
「長年、培ってきた習性は、簡単には消えないものだな」
自嘲気味に発せられた言葉に、未だ逃れられない想いが募る。
一刻も早くと急ぐカイルの足元で、突然の濃霧の発生に驚き戸惑う人々のざわめきが街を包んでいた。リオの思惑どおり、夕刻に響いた悲鳴は、奇異な現象の前に埋もれていく……。
……そして夜の帳が下りる。
港町の街灯に群がる虫たち。その下で男達が酒盛りに興じている。
「宿屋の向かいが酒場とは、良いのか悪いのか…」
二階の開け放たれた出窓に腰掛けて、カイルは陽気な酔っ払い達の様子を眺めていた。
「旅人に食事と女と酒と語らいの場を提供するんですから、良いに決まってるでしょう?…とは言え、騎士たるもの、酒と女に溺れるは恥辱の極み。カイルには無縁の場所と心得ておいて下さいね」
説教めいた口調とともに、今しがた戻ったらしいリオが顔を出す。
「…人攫いの片棒担がせておいて、今更‘騎士たるもの’はないだろ」
「人攫い?何か勘違いしているようですね。僕らはあの娘を保護したのですよ」
「保護?」
「そうです。あれは別世界の住人に違いありませんからね」
いまいち話の見えてこないカイルだったが…言葉に含まれた緊張に反して、リオの瞳にはどこか楽しげな光が射しているように思えて……心の奥底で言い知れぬ不安の種が芽吹くのを感じた。
世界に投じられた一石に広がりゆく波紋。
その輪の内にそれぞれの宿命を絡めて、湖面を乱す。