竜に魅入られし不運
眠い体を無理やり連れ出された朱里がやって来たのは、リオの妹の暮らす雪深い森の一軒家。彼女は里から遠い地で一人、隠者のような生活をしている。
3人が訪れた時、運悪く、家の主人は不在だった。
天には、まだ日が高く位置している。少し時計の針を戻せば、月の下で宴を催し、就寝間近だった筈なのに……。自身が時差の生じる程の距離を移動したとまでは、考えが及ばない朱里は、一睡もできぬまま太陽光を浴び、訳の分からぬまま、徹夜明けのような気だるさにみまわれるのだった。
「おかしいな。家だけが戻っている筈はないんだが……?」
あたかもどこかからか家が帰ってきたかのようなリオの表現に首をかしげ、何の変哲もない、太い丸太を組み上げられただけの素朴な佇まいを見上げる朱里の耳へ、雪を踏み固める音が届いた。その、人の近づく気配を感じ取った朱里達の元へ、雪の粉をザッと蹴り上げて現れたのは、長身の若い女性だった。
「ごめ~ん、留守にしてて。ちょっと、麓の長老のところへ招かざる客を送っていってたのよ」
「だ、誰?」
「こちらが、リオ様の妹君ターシャ様でいらっしゃいますわ」
「え?!」
朱里は、問いかけに答えたクマさんの言葉に驚きを返す。
なぜなら、同い年か年下にさえ見えようというリオに比べ、彼女は朱里より年上に思えたからだ。大人びているだけとは、にわかに信じ難い姿がそこにあった。
「はじめまして、お姉様。ご結婚おめでとう」
自分に向かって発せられたものの、朱里は何を言われたのか分からなかった。そんな朱里のために、クマさんが通訳をしてくれる。
「け、結婚? って誰の?」
「? 誰の? ……勿論、リオ様と朱里様ですわ」
「…………………………………………………………ええ!?」
あまりの事に、理解して驚きを発するまで、かなり間をとってしまった。
突然悲鳴にも似た声を上げたものだから、朱里の側へリオがやって来て顔を覗き込む。
「どうかしましたか?」
金の瞳に宿る輝きは、狼狽する朱里の心を見透かすかのように、静かだ。
「どう、か……してるよ! 冗談だよね? ……ね?」
「何が冗談だと?」
「え? あの、その、えっと……だから、その……」
混乱の原因を究明したい朱里だったが、最悪な現実に直面するだけのようで怖かった。
「そんなに取り乱すことですか?」
「え? ええ、と……と、取り乱すよ! 当たり前じゃない! だって……!」
「だって?」
「え? だ、だって……あたし、まだ15よ。子供よ?」
「15? もう少し幼いかと思いましたが……15なら、十分大人ですよ。何も問題ない」
「ええ?! も、問題ない?……そんなあ……」
異世界の洗礼の前に、またしても絶句してしまう朱里だった。
「兄様に気に入られたのが、運の尽きだねえ。……あのさ、お楽しみのところ申し訳ないんだけど、兄様、何しに来たの? 姉様、そんな格好で寒いでしょ? 中、入りなよ。そうそう、カイルなら、さっき魔王に連れていかれちゃったわよ」
あたふたしきりの朱里に、哀れみの眼差しを送りつつ、ターシャは玄関の施錠を解いた。
「ターシャ、僕は別に楽しんでいるわけでは……。しかし、そうだね、まずは、暖をとらせてもらうよ」
ふたりの会話は朱里には理解できないが、そもそも耳にも入っていない様子だ。
「朱里様、大丈夫ですか?」
雪深い外気の寒さから、朱里を包み込んで守っていたクマさんが、事情を察して心配そうに声をかけるも、青ざめた朱里の表情は頑なに閉ざされていた。
☆
心ここにあらずな朱里を寝室へ送り届けたターシャが、暖炉の炎が生む空気の流れに、香草茶の香りを乗せて戻ってきた。
「それで? カイル奪還しに浮城へ乗り込むの?」
ターシャは、両手に持った取っ手の付いた器の片方をリオへ差し出す。そして、自身も暖炉を囲むソファのひとつに落ち着いた。
「まさか。いくら僕でも、表立って魔王に敵対などはしないよ。寧ろ、どういう形であれシンシア様の元へカイルが戻ることには賛成なんだ」
「そうなの? じゃあ何でまた、新婚早々下界へ?」
「僕はね、厄介なことに、カイルが愚かな選択をせぬよう、見張っておかねばならないんだ」
「血の契約を交わしているから?」
「……そう。契約者を死なせたとあっては、やつらに反撃の糸口を与えてしまうことになる」
「何それ? だったら、どうして魔王に狙われてるカイルほったらかしてまで、婚儀を急いだわけ? しかも、あの娘、結婚承諾してないでしょ。騙したの?」
「騙す? いや、単に結論が先になってしまっただけのこと。これから、そこに到る過程を埋めていくのだからね」
「へえ……なるほどぉ。どういう過程を経ようと、あの娘が兄様から逃れる未来は描かれることはないっていう筋書きができてるのね?」
「そう。ただ、逃れようと足掻いてくれねば、面白くはないな」
「姉様、可哀想に……出口のない迷宮に落とされ、もがき苦しむ様を期待されるなんて。本当に、竜族の愛情表現は理解に苦しみますわね、お兄様」
「そうだな。確かに、この点に関して言えば、我が一族は歪んでいるのだろう。ほらここにも、いつまでも脈のない男につきまとい、迷惑行為をはたらく者がいることだしな」
「ん? 誰のこと? え? 何こっち指差してるの? え? あたし?」
「自覚がない分、お前のほうが性質が悪いと思うけどね、僕は」
納得しかねるターシャは、口元を尖らせてみせる。
どちらの言い分に軍配があがろうと、竜族に魅入られたが数奇な運命のはじまりであることは、彼らの会話を前に弁解できぬ事実だった。