望む未来は違えども
カユサリ帝国オリビェレール地方は、王都キサから遠く西方に位置し、同盟国ルキと国境を接する辺境である。穏やかで過ごし易い気候区域に位置し、廻る四季はそこに生きる命に恩恵のみを授け、干ばつや洪水、豪雪などの自然の脅威は、どの季節にも姿を現すことはない。それどころか、この100年あまり、疫病や抗争といった類が報告されたことすら皆無であった。肥沃な耕作地は豊かな実りを約束し、奥深い広大な森と、そこに点在する湖によって、多くの資源がもたらされている。
ここオリビェレールは、大いなるものに守護された神秘的な土地であった。
そんな平穏な暮らしを営む人々の昨今の話題といえば、彼らの敬愛する領主クラルクの長男失踪事件である。外界から隔離された平和特区の住民にとっては、世界的な魔王降臨の衝撃にすら優る関心事なのだ。
「領主様んとこの若さん、見付かったらしいわよ」
広場の井戸へ水汲みにやってきた女の第一声に、その場の誰もが一斉に飛びついた。
「まあ! そりゃ本当かい?」
「ええ、うちのエマが言うには、お嬢さんと庭で遊んでるとこへ、居候のハルさんと一緒に空から落っこちてきたらしいのよ。ついさっき、帰ってそうそう興奮気味に話してくれたんだけどね」
「エマちゃんから聞いたのなら、間違いないわ」
「どこぞ怪我なんぞしちゃいないだろうかね? 心配だわ」
「今日はもうじき日暮れだし、詳しい事は明日かしらねえ?」
ひとしきり井戸端会議に花を咲かせた女達は、その手土産を各々が家庭へ持ち帰っていくのであった。
こうして、村中の噂になっている当人はといえば、久方ぶりの家族との対面に涙しているかと思いきや、口喧嘩の真っ最中だった。
元気そうな様子に安心した彼の両親、弟、双子の妹たちは、男二人のいさかいには、早々に無関心を決め込み、騒がしい2名を離れへ隔離すると、夕飯の準備に取り掛かっていた。
領主とはいえ、身の回りのことは全て家族で分担している。違いと言えるのは、少しばかり大きな家に住み、ささやかな飾りの施された調度品に囲まれていることくらいだろう。それもこの地を訪れる客人の宿泊施設としての役目あってのことにすぎない。
ただ、客人から居候へと立場を移した男によって、数年、客間はずっと使用中だが……。
その離れの客間で淡々と文句を吐くのが領主の長男であり、その不当な評価に異議を唱えているのが、ここの居候であった。
「まったく、余計なことをしてくれたよ、ハルは」
「は?! 余計なことってなんだよ?」
「僕はあのままでも良かったのに……勝手に僕の解放を交換条件にしただろ」
「ディアス、お前……! さては、また危険な女に惚れたな?! 何回不毛な片想いしてんだよ! 例えればだ。同じ猫科でも、お前は室内飼い猫。あれは猛獣だぞ! どんなに愛情注いだところで、喰われてお終いだって……気付けよ!」
「僕が誰をどう想おうと、ハルには関係ない」
「関係大有りだ! いままで、どれだけ迷惑被ったことか!」
「それは……確かに結果的にそうなってしまってはいるけど……」
「けど? けど何だよ? 結果が全てを物語ってるだろ! 頼むから、触るな危険!標示の女に構うのは金輪際止めてくれ!」
ハルが珍しく余裕の無い表情を見せたことに戸惑い、ディアスは反論を躊躇した。ハルに言われるまでもなく、同じ舞台に立ち得ない相手にばかり惹かれてしまう自覚はある。その都度ハルを面倒に巻き込んできたことも事実だ。
「……分かった。今後は慎むよ」
「その言葉忘れるなよ。しかし、今回の件がこのまま終わると、楽観できないのが怖い」
「え、どうして?」
聞き返すディアスの声に、心なし弾んだ色が付いたことをハルは見逃さなかった。
「おいコラ、お前、今ちょっと喜んだだろ?!」
「そ、そんな……ハルの被害妄想だよ」
「いいや! 俺は確信した。お前は女運が悪いなんてレベルじゃない。まさかとは思ったが、これはもう、俺にも見抜けない強力な呪いがかかってるに違いない!」
「また大げさだな」
「待ってろ。最上位クラスの災い除けアイテムと、呪い返しの奥義書取ってくるから」
「帰ったばかりで、何もそんな急がなくても」
「ラスボス相手に待った無しだろ!」
猪突猛進の勢いになったハルには、どの言葉を選んでも軌道修正不可能だ。
既に闇の深まる空を、彼は疾風が如く切り裂いていってしまった。
「ハルの開け放った扉を閉じるのは、もう何度目だろう。基本、僕がこういった役回りだったのだけど……こと女性が絡むと途端おかしくなる。いったい何の呪いなんだか」
呪いなど本気にしてはいないが、ディアスは自嘲を含めて沈んだ息を吐いた。カタンッと木戸の閉まる音が重なる。……と、そこへ、割って入った赤い煌きがひとひら。
「ん? 蝶? ……夜に蝶が迷い込むとは珍しいな」
それは、ひらひらと引き寄せられるようにディアスの手に収まると、驚いたことに2通の赤い書簡に姿を変えた。
そこへ零れるように、金の文字と世界地図が綴られていく。
明日、婚礼の儀に招く……とだけ伝えた簡素な書。
地図に浮かび上がった名は、かの姫の祖国、ウエリレイトス。
「……シンシア様……」
役目を果たし輝きを失った花弁の残り香が、甘くディアスの心を満たすのに、時は必要としなかった。理性を手放し、形を持たぬ呪縛の懐へ落ちていく。
そして、幸か不幸か、災いの神の悪戯か……ハルに赤い蝶が舞うのは、この数日後となる。