夢のはじまり
今日も空が青い。
数日、一滴の雨も降っていない。
初夏の日差しの中、屋上で仰向けに寝転がっていると、空に溶け込んでいくようで心地いい。
制服が汚れることも、腰まで伸ばした自慢の黒髪に砂が絡み込むのも、気になりはしない。
「帰りたくないなあ」
閉じていた瞳が、伏せ目がちに開かれた。
はっきりした二重の瞳。意思の強そうな眉。これで鼻筋が通っていれば、キツい感じの美人だが、少女は、低めの鼻と丸みを帯びた頬をしていたので、見る者にやわらかな印象を与える。
少女の名は遠野朱里。先月高校へ入学したばかりの15歳。
「ほんと、帰りたくないよお~」
朱里は溜め息混じりに、独り言をはじめた。
「お姉ちゃんに‘結婚おめでとう’なんて言えないよお~。あたし、泣いちゃうよ、絶対」
両手で顔を覆い、そのままゴロンとうつ伏せに転がる。
「バカバカバカ。お姉ちゃんの旦那が初恋相手なんて、もお、最悪!」
思いのほか大きな自分の声に、朱里は我に返った。そして、すっくと立ち上がると、制服に付いた土埃を払い、乱れた髪に手グシを通した。
「もう、来てる頃かな?」
今日は二人が結婚の挨拶に来ることになっている。
朱里はありもしない部活を口実に、家から逃げ出していた。早く帰るように言われていたが、姉達の訪問時刻はとうに過ぎていた。
「バスに乗り遅れたってメールしとこっ。そのあと、定期を学校に置き忘れて、取りに戻ってたことにして…2時間はかせげるかな?」
足元にある、小さな薔薇柄の手提げを拾い上げると、携帯を取り出した。
「今日はこれで乗り切ったとして、結婚式とかどうしよう。仮病?……あ~もう!神隠しにでもあって、消えちゃいたいよ~!」
朱里は両腕で頭を抱え、そのまま、うずくまってしまった。
すると、何の前触れもなく光が曇った。
先程までの晴天が一変して、いつのまにか、どんよりした暗雲が雨の匂いを辺りに漂わせている。そして、ポツポツと数滴こぼれ落ちたかと思うとすぐに、乾いた大地を潤す夕立がやってきた。
すべてを圧倒し、掻き消していくかのように打ちつける雨音。
しかし、実際には、朱里ただ一人を連れ去っていった。
再び天を支配した太陽の輝きで、朱里を捉えることは、もう叶わない。
神隠し。天からの使者が、朱里の願いを聞き届けたのだろうか……?