蝉。
暑い。
季節は過ぎ去り、いつの間にか梅雨を超えて夏へ移行していたようだ。
朝にはきっと蝉の鳴き声が聞こえてくるだろう。
まず朝は起きない。なぜなら朝に寝るからだ。
いわゆる昼夜逆転生活。
毎日考えることを放棄してはスマートフォンで縦型動画を見漁る。
昔好きだったアニメすらもう見続ける事が出来なくなってしまった。
高校に行く事をやめてしまった六月から今日で一ヶ月は過ぎただろうか。
勉強をしたくない。それだけである。
中学の時は、勉強しなくてもそれなりにテストの点数を取ることが出来たし優等生として先生や周りの友達にも好かれていた。
何もしなくても世界は自分を中心に回っているとさえ思える程、悩みなんてなかった。
高校は地元から少し離れた進学校を担任に勧められたため言われるがまま受験した。
それがすべての間違いだったのかもしれない。
高校には合格した。
倍率は1.55倍。高校にしては高い倍率。両親や担任、様々な人たちが喜び、褒め称えてくれた。正直に言うとかなり気持ちよかった。自分は天才なのだと信じて疑わなかった。
進学校と呼ばれる高校に入学してわかったことがある。
まず僕は凡人であるという事。
入学式を終えてすぐ学力テストがあった。
中学の頃は少し勉強すれば学年で5番以内に入ることは容易いことだったし、何度か1位を取ったこともあった。
当たり前だが同じ感覚でいられるわけがない。同じ感覚で受けたテストの答案用紙には✕が沢山ついていたし学年順位は真ん中よりも少し下。平均よりも下であるという事。
周りを見渡すと自分よりも点数のいい人間が沢山いる。
初めて挫折を覚えた瞬間だった。
二つ目は努力してもうまくいかない事があるという事。
高校一年生の夏のテスト。
過去の栄光にすがるようにしっかりと勉強はした。教科書の内容は一字一句暗記してみたし、寝る間を惜しんで勉強した。両親はそんな僕のために夜食を用意したりと、親身になって応援してくれた。
テストの点数は勿論上がった。上がってくれないと困る。報告すると両親は喜んでくれた。
しかしここまで必死に勉強しても学年順位は三分の一にやっと入れただけ。
その事実を目の当たりにしたとき僕が死ぬ気でやったことは所詮こんなものなのかと思ってしまった。
そんなこんなで高校一年生の夏休みが終わり大量のアニメを消費する事で自我を保っていた僕は縦型動画を見漁るどうしようもないドパガキへと変貌していった。
授業を受けても上の空。
勉強がどうとかテストがどうとか1ミリも興味が持てなくなった。
クラスメイトの中には話しかけてくれるやつもいた。何となく話してみてこいつ頭いいんだよなと思うとないはずのプライドだけが傷ついた。
高校にはいかなきゃいけないという潜在意識という僕の中の歯車が、勝手に手足を動した。高校二年生の五月まで何となく学校に行って何となく授業を聞く。
赤点ギリギリでこれまでのテストを乗り越えていた矢先、とうとう初めて赤点を取ってしまった。
両親がどう思うかなんてどうでもよかったが高校進学への出資者である両親にその結果が伝わるのも秒読みであった。
初めて父親に学校の成績で怒られた。正直、無気力であったため怒られている自覚はあったが聞き流した。
その日の夜、父と母は喧嘩をした。なんの話をしているのかわからなかったが怒鳴り合っている様子から、大体見当がつく。
その次の日から僕は学校に行くのをやめた。
部屋には鍵がかけられたし、朝まで縦型動画を見て朝に寝る。昼過ぎに起き父親と母親が仕事に行って、家にいないことを確認してから冷蔵庫や戸棚にある食料を漁りに行く。そのついでにたまにシャワーを浴びる。
それはまるで家族ノカタチではなく住み着いているナニカであることに違いなかった。
帰宅した両親が怒鳴り合いをする頻度も増えて部屋の中からそれを聞く。上手く聞こえないが感じる。
どんどん物音が怖くなっていった。
それを聞いていると全てが否定されたような気がするためイヤフォンをして縦型動画を見続ける。
完璧であった僕から人間ではないナニカの僕へのなだらかなシフトチェンジが完了したのである。
暑い。
日中はエアコンをつけるが、人の足音に何倍にも敏感になっている今、両親が帰宅する足音が聞こえると消すようにしている。
高校に行くという必要最低限のミッションすらこなせず、自室に引きこもる生活で得たモノと言えば外の人間への恐怖感くらいだ。
僕がこの家を壊した。
そんなことを考えると吐き気がする。
だから外界とのかかわりを断ち、真っ暗な部屋でイヤフォンをしながらボーっと縦型動画をスクロールする。無限に時間があるような感覚と安心感の中で僕は目を閉じた。
通常なら朝まで起きているのだろうが夜に寝ることができたようだ。
あまりの暑さで目覚め、仕方なく窓を開ける。少しばかり生ぬるい風に吹かれてカーテンが揺れる。久しぶりに外の空気を感じた。
スマートフォンを確認する。画面の中の数字は夜中の二時を表示した。
今日は両親の声聞こえなかったな。
そんなことを考えながらウトウトする。
異常に今日は眠い。
また眠りに落ちようとしたとき、かすかに風の音が聞こえてカーテンがめくれ上がった。
一瞬で空気が冷えた。そんな気がする。
急に冷や汗が止まらなくなった。起きあがろうとしたが体が動かない。ナニカが体の上に乗ったような、そんな重たい感覚。
初めての感覚に戸惑いながら必死に考えを巡らす。これはきっと金縛りというやつに違いない。
金縛りは睡眠障害の一種であると何かの本で読んだ。声を出せば金縛りが解けると書いてあった気がする。両親の足音が頭をよぎったが声を出すしかない。なぜかかなり冷静に物事を判断していた。
「ゥぐgjぉkpvm;sウ゛」
声よりも鳴き声に近いそれは久しぶりに、僕の声帯を震わせたまま視界は黒に染まった。
目を開けるとなぜか視界は社会の授業に出てきたようなブラウン管テレビのガサガサとした質感。先程まで巡らせていた思考が急に止まったような感覚に陥る。
古い畳の匂いと薄暗い豆電球、ここは明らかに僕の部屋ではなかった。畳の上に埃っぽい布団が敷かれていてそこになぜか寝ていたようだ。
「起きたのかい」
不意に声をかけられた。しわがれたお婆さんかお爺さんか分からないような声であった。
「ここはどこですか」
一ヶ月ぶりに人と話すことと動揺からくる緊張で声が上ずった。
「それよりもこれを飲みなさい。そんなに寝汗をかいては倒れてしまう」
そのお婆さんかお爺さんか分からないような声の持ち主は、質問に答えずお茶を差し出した。
訳もわからずそのお茶を飲み干す。
「すごくうなされていた様だが悪い夢でも見ていたのかい」
僕は悪い夢を見ていたのだろうか。確かに汗で体は濡れていた。
「悪い夢…」
ゆっくりと止まっていた思考が動き出した。
ナニカが、いや、全てがおかしい。
僕が会話しているナニカの顔が認識できない。
ナニカは僕の飲み干したお茶を片付けながら
「どうしたんだい。きっとまだ悪い夢を見ているんだね」
顔の認識できないナニカが優しく少し笑ったような気がして意識は消えた。
また眠っていたようだ。
意識がプツプツと切れる感覚だ。
ここがどこなのか考える余地を与えてくれない。
不意に耳を澄ますと、後ろからギコギコと包丁を研ぐような金属がこすれる音がした。
振り返ってはいけない。本能がそう言っている。
しかし恐怖と好奇心がせめぎ合った結果、振り返らざるを得なかった。
暑さと裏腹に僕の冷や汗はとまらない。
ギコギコという音が止み、うす暗い部屋に蝉の鳴き声が響く。
振り返ると人のカタチをしたナニカが刃物を振り下ろす。
恐怖を感じる間はない。鋭い痛み。
さっきまでの視界とは打って変わって鮮明な赤に服が染まっていくのが見て取れる。
痛覚で歪む顔に対して人は死ぬときどんなことを考えるのだろうかと呑気に考えたりもした。
ナニカは笑いながら何度も何度も僕のことを刺した。
鮮やかな赤が飛び散る。
刃物が腹部に何度も沈む。
意識が地中に沈むような感覚に戸惑う。
戸惑いながらもここまでされたら死ぬのだろうということだけはよくわかる。
なぜか両親の顔や学校のことを思い出す。
痛みを感じながら、失いかけた意識の中でナニカの顔を見る。
そこには静かに笑っている僕がいた。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
初めて書いたホラー作品です。
夏の間にホラーが書けてよかった。
少しでも楽しんでいただけたなら幸いです。
金村りん




