第三章 虚栄の終焉
数日後、雨宮の勤めるタクシー会社に一本の電話が入った。
「あの日の運転手を出せ。釣銭を誤魔化された上、無礼な態度を取られた。詫びに家まで来い」 電話の主は、例の酔った男であった。
雨宮は、上司に事の経緯を説明した。あの夜の異常な恐怖と、影のない女のことを。会社側は毅然として対応したが、男は執拗に、自分の住所と名前を告げ、訪問を要求し続けた。それは、己の不道徳を棚に上げ、他者を屈服させることで自尊心を保とうとする、救い難いエゴイズムの表れであった。
ところが、その日の午後。 再び電話をかけてきた男の声は、一変していた。
「……先程の件は、私の勘違いでした。もう来なくていい」
その声は、掠れ、震え、死の床にある病人の如く弱々しかった。
「私の住所は、誰にも教えないでくれ。絶対に、誰にもだ……」
電話はそこで一方的に切れた。
雨宮は、受話器を置いた上司の、青ざめた横顔を見つめた。 あの男に何が起きたのか。それは誰の目にも明らかであった。
男は、女の霊に追い詰められたのだ。
恐らく、あの女はかつて、あの男の無責任な傲慢さや、冷酷なエゴイズムによって、命を絶った者だったのであろう。彼女は復讐のために現れたのではない。ただ、男が自分を「見捨てる」瞬間を、そしてその瞬間に露呈する「醜悪な本性」を、じっと見つめ続けるために、地獄から戻ってきたのである。
雨宮は、最後に僕に向かって、独り言のように呟いた。
「私は、あの時、女に『乗っていい』と言ってしまったんです」
その言葉の響きには、冷たい虚無感が漂っていた。
彼は親切心からそう言ったつもりだった。しかし、その「善意」こそが、女に男を追いつめる権利を与え、男を永遠の闇へと引き摺り込む手助けをしてしまったのである。
人間は、自らが正しいと信じている瞬間ほど、残酷な加害者になり得る。
雨宮は今日も、銀鼠色の都会をタクシーで走り続けている。だが、彼の隣室の座席には、あの日からずっと、目に見えぬ「白い影」が、にっこりと微笑んで座っているのではないか。
僕は雨宮と別れ、再びスクランブル交差点の人混みへと紛れた。
ふと振り返ると、行き交う人々の中に、影のない白い服の女が混じっているような気がした。が、それは僕自身の内側にある「罪」が見せた、幻に過ぎなかったのかも知れない。
夜風が冷たく、僕の襟元を通り抜けていった。




