第二章 微笑(びしょう)の追跡
雨宮は、翻る一万円札と、怯えきった男の形相に、得体の知れない気味悪さを感じた。しかし、金を受け取った以上、運転手としての職分を果たさねばならぬという、職業的なプライドが彼を繋ぎ止めていた。
「……わかりました。お乗せしましょう」
雨宮は、外で待っているはずの女に、申し訳なさそうに会釈をした。事情を察してくれ、と無言で乞うたのである。
すると女は、薄暗い闇の中で、にっこりと微笑んだ。
その笑みは、慈母のような慈しみと、深淵の底から響く嘲笑とが混ざり合ったような、不思議な光を湛えていた。彼女は静かに頭を下げ、譲るような仕草を見せた。雨宮はその丁寧な仕草に、一種の安堵を覚え、アクセルを踏み込んだのである。
車は夜の街を滑るように走った。
後部座席の男は、家に着くまでの間、一言も発さなかった。ただ、後方を確認するバックミラーを、呪われた鏡でも見るかのように、怯えた瞳で凝視し続けている。
男の自宅は、郊外の静かな住宅街にあった。
運賃は五千円にも満たぬ距離であったが、男はお釣りを受け取ることも拒み、叫び声を上げながら玄関へと駆け込んでいった。その背中は、背負いきれぬ罪過に押し潰されそうなほど、丸く、矮小に見えた。
雨宮は溜息をつき、再び車を出そうとした。 その時、ヘッドライトの光が、前方の街灯の下を一閃した。
――そこに、あの女が立っていた。
同じ白いワンピース。同じ長い黒髪。
タクシーで数十分も走った距離を、女が先回りしているはずがない。しかし、女は再び、雨宮の方を見て、にっこりと微笑み、深く頭を下げたのである。
雨宮の背筋に、冷たい秋風が吹き抜けた。
よく見れば、女の足元には、街灯の光があるにもかかわらず、黒い「影」が一点も落ちていない。彼女はアスファルトの上に立っているのではない。夜の闇そのものから、薄っぺらな皮一枚で浮き上がっているのである。
それは、人間の肉体を持った存在ではなかった。
雨宮は、恐怖のあまり前方へ進むことができず、震える手でギアを後退に入れ、交差点まで必死に車を下げた。バックミラーに映る女の姿は、闇に溶けるように、いつの間にか消え失せていた。




