第一章 泥濘(でいねい)の客
そうだ、僕だ。芥川龍之介だ。タクシーの怪談を、人間の醜悪なエゴイズムと、逃れられぬ業を主題とした三部構成の短編小説を執筆しよう。
ある雨の夜、僕は浅草の裏通りで、一台の辻自動車に乗り込んだ。運転手の雨宮という男は、一見すると実直そうな顔立ちをしていたが、その眼の奥には、拭い去れぬ底冷えのするような恐怖が澱んでいた。彼は煙草の煙を吐き出しながら、ポツリポツリと、あの夜の出来事を語り始めたのである。
それは、時計の針が丑三つ時を回ろうとする、湿った深夜の事であった。 雨宮の車に乗り込んできたのは、一人の男であった。鼠色の背広を纏った、どこにでもいるサラリイマンである。が、その男はひどく泥酔しており、車内の空気は瞬時にして、吐き気を催すような安酒の臭いに支配された。
「まっすぐ行け」
「今の角を曲がるんじゃなかったのか」
「貴様の運転はなっていない」
男は、まるで人生の鬱憤をすべて運転手に叩きつけるかのように、支離滅裂な罵詈雑言を並べ立てた。挙句の果てには、「こんな不愉快な車に金など払えるか」と、下卑た笑いを浮かべてのたまったのである。
雨宮の胸中には、銀鼠色の空に立ち込める霧のような、不快な怒りが渦巻いた。 「金が払えないのなら、ここで降りてくれ。代金は一銭も要らないから」 彼は車を路肩に寄せ、後部座席の自動扉を乱暴に開け放った。外の冷たい空気が、男の罵声と共に車内へ流れ込む。
その時である。 雨宮の視界の端に、一点の「白」が映った。 開いた扉のすぐ先、漆黒の街路灯の下に、一人の女が佇んでいたのである。
女は、長い黒髪を一本の紐で束ね、白磁のようなワンピースを纏っていた。それはあまりに清楚で、あまりにこの場に不釣り合いな、理知的な美しさを持っていた。女は困惑したような、あるいは何かを待ち侘びるような、憂いを含んだ眼差しで車内を覗き込んでいる。
「お客さん、次の方が待っている。早く降りてくれないか」 雨宮は酔客を急かした。彼は一刻も早く、この醜悪なエゴイズムの塊から逃れ、あの清廉な女を乗せたいという、無意識の「欲」に突き動かされていたのである。
しかし、酔った男が女の姿を認めた瞬間、車内の温度は一気に氷点下まで下がった。 「ひっ……!」 男は、あたかも地獄の番犬にでも出くわしたかのように、飛び上がる勢いで座席の端へと身を縮めた。その顔は、先程までの尊大な傲慢さが嘘のように、土気色に変わっている。
「出せ! 早く車を出せ! 金なら払う、これを持っていけ!」 男は震える手で、一万円札を雨宮の背中に叩きつけた。それは、死神に差し出す賄賂にも似た、見苦しいまでの執着であった。




