天使と彼女の物語 【初期短編版】
天使は告げた。
「2025年」
「なにかを見つけるよ」
たびたび耳には届かぬ声を送ってくる天使は、この夜も音とはならない微かな振動を私に送ってくる。
これからの仕事どうしよう。彼女がそんな思いを心に沈めた時だった。
「2025年かぁ。まだあと6年もあるじゃない」
彼女は呟きながらも、ノートに数字を書き留める。
「この世界を感じて体験して学んでね。楽しんでね」
天使は伝えてくる。
まだ天使との交信を楽しめていた、7月のとある日。世間では天神祭の花火が上がる頃だった。
彼女が天使を迎えるのは3回目。天使は自らのことをミカエルと名乗っていた。3回目のミカエルの出現。3回目と単純に言っても、3夜目というわけではなく。3クールめと言う方がわかりやすいだろう。
天使のメッセージはより明確さを増していき、このまま霊能力者にでもなれるんじゃないかしら、なんて思いながらも体力の限りついていく彼女は、徐々に臨界点を迎えようとしていた。寝食の暇もないほど、天使からの教えは続く。そんな中で少しスケジュールの余裕でもあったのだろうか。この夜、珍しく天使は彼女の未来について教えてきたのだった。
数日後の夜、彼女は臨界点を越えた。記憶は途切れ途切れとなり、可愛いスピリチュアルとか、天使との交流とか、そんな範疇では語れない何かに巻き込まれるなかで、彼女は向き合い続けた。逃げることは許されない、そこはそんな厳しい世界であった。
2019年の夏の終わり。2か月の間を共に過ごした天使は去っていった。精神が衰弱した彼女の様子から、もう限界だと悟ったのか。もしくは何らかの目的を果たしたのだろうか。
「必ず帰ってくるからね」
何度も何度も、そう言い残して。彼女の頬には涙がつたう。最後は笑顔で見送ろう。そう決めた彼女は、笑って宙を見上げた。
感傷の中で眠った彼女。とある白い朝のことだった。
眠りから覚めた彼女は見えないものに惑わされる日々が終わったことにほんの少し安堵した。天使がいないことはさみしかった。ただそれ以上に目が覚めていくとともに、現実というものに気付いていく。ふわふわした世界に覆われていた現実は、一定に進む時間軸の中で確かに形作られていた。
久しぶりに向き合うことのできた現実世界は荒れたものだった。まずは再構築をしなくてはならない。失ったものはあまりにも大きかった。信頼を取り戻そうとするが、一度崩れたものはそう簡単には修復はできず、ここからまた築き上げていくしかないということに気付く。一部の者は去っていったし、人のよそよそしい態度を感じ取るたびに彼女は深く傷ついて、自分の殻に閉じこもっていった。優しい理解者もいるにはいたが、彼女には積極的に関わっていきたいという気力はもうなかった。
信頼の再構築とともにまず試みたことのひとつに、文献探しがあった。図書館に通い、それらしい本を手探り次第に開いても、肝心の記載はない。すぐに飽きて、日常の楽しみに気を紛らわす日々を過ごすようになった彼女は、徐々に自らの経験に蓋をしていき、封印した。この連続した人生の続きを生きていかなくてはならない現実と向き合うことを選び、見えない世界のことは忘れると決めた。天使からの毎朝のおはようがない違和感も、そのころにはもうなかった。
彼女は、現実を生きた。目を閉じて。天使が現れるもっと前から持っていた、見えない世界を信じる気持ちは捨て去り、ただ生きた。生まれて物心ついた時から持ち合わせていたのであろう繊細な感覚は、ただの邪魔者となった。感情と感覚を刺激するような趣味からも遠ざかり、彼女は生きた。コルセットとギブスをはめて目隠しで武装した彼女は、人一倍現実主義者となり、目に見えるものと聞こえる音を頼りに物質を整えることに躍起になっていた。
そうして日常を取り戻していくなかで、物質は徐々に整い始めた。天使の存在は少しずつぼやけていったが、時々ふと思い出すことがある。
「いつもそばにいるよ」
そう言っていた天使のことを。正直、もう天使には出てきてほしいとは思わなかったが、可愛らしく憎めない天使はやはり愛の存在であったから、思い出すと心が温かくなる。そして優しい気持ちで再び封印するのだった。
「愛と勇気を見つけてほしい」
これがノートの最後のページの冒頭に記された天使の言葉。振り返るとその通りで、愛と勇気が道を開くカギであった。勇気を出せば、ささやかに温かな日々はそこにあり、愛を持てば幸せだった。いつの間にか現実を整えたいという欲に近い気持ちは穏やかになっていて、そうすると身近なチャンスの入り口が見えてくるもので、彼女は少しずつ健全な思考を取り戻していた。この世界の体験と学びを楽しみ始めていた。
時はすぎ、2025年。十分に回復した心と身体は、以前よりも強くなっていて、楽しいという気持ちを大事に暮らす日々。着実に道が開けていく感覚は、自信を彼女にもたらした。このまま生きて行けたら幸せだ。そう心から思えた。
まだ暑さの残る秋の始まりに明確な変化が意識として突如現れた。整った土壌から、薄緑の芽が出るように、何かがちょこんと現れた。深呼吸をしてみた。目を瞑りピンクがかった白のなかで呼吸を整えてみた。大丈夫だ。様子をうかがいながら殻をたたいていく。思いつく方法で。今なら自分の性質を抑えようとしなくてもいい。もし仮に何かが開けたとしても、闇にいざなわれずに碇を下ろして生きていけるかもしれない。そう何故だか思えた。
根拠はない。ただ、風向きが変わったことを知らせるシグナルのようなものをぱらぱらと暮らしに見つけるなかで、ようやく水面下の流れが整いつつあることを感じ取っていたのだろう。なんどかの嵐を迎え、凪を経て、ようやく爽やかな追い風が吹き始めた気配を肌で感じていた彼女は、解放することにした。封印が解けてもいい。素直に心の赴くままに生きてみたい──。そう思い、殻から抜け出るのであった。
それまでの数年間は、性質を抑え込むかのように暮らしの中で重りと器具で矯正していたし、見えない世界を開きそうななにかはことごとく避けてきた。途中で、ちょっとくらいなら大丈夫かなと何度か心が惹かれるも、勇気が出ずに引き返す。そして心が進みたがる方向から目をそらし、守りに入り満足していた。
もちろんその過程にも意味があったのであろう。外から矯正しながらも、同時に内から一歩ずつ詰まりや埃やサビを溶かしていたからこそ、すんなり働いてくれる碇と健全な肉体を手に入れつつあるわけで、生まれてから見て見ぬふりをして放置していた余計な何かは溶けて流れ出るときを待っていた。
これからは怖がらずに、見えない世界のことにも向き合ってみよう。そう決めた彼女は、様子をうかがいながら現実向けに整えた装備を外していく。なぜだかますますすんなりと進む日常。久しぶりの旅にも出てみることにした。奇異の始まりは、ある温泉宿と神社に向かう旅の直前から起きたものであったから、彼女は旅からもしばらく遠ざかっていた。温泉宿も好きだった神社巡りも封印していた。
今回の旅先には、温泉も神社もある。神社を訪問することを決めた時、天使は再び彼女の世界に姿を現した。
天使のいる日々は、ひとりでも賑やかで、心配になるほど頻繁に出てくる天使。少し何かを思えば、質問をしているわけではないのに勝手に答えを届けてくる。始めは警戒していた彼女だったが、無邪気な天使のペースに飲まれていく。おはよう、と天使が朝に現れる度に温かい気持ちになるのであった。
久しぶりの旅は雨の予報。旅の日を迎えた彼女は、天使のいる暮らしも悪くないな、なんて思う余裕も出てきていた。折りたたみ傘を持ち、家を出る。道中たびたび天使と話しながら久しぶりの旅を楽しんでいた。雨が列車の窓にパチパチと当たり始める。
列車が緩やかに止まり降りれば、涼やかな風が歓迎した。雨はやんでいた。列車が雨雲を越えたのかな、降らないうちに楽しまなくちゃ、と足早に階段を登った。荷物を預けて身軽になる。傘はどうしようかと少し悩んだが、預けることにした。こういうことには楽天的な彼女。上着も傘も預けて、旅を楽しむ気は満々だ。濡れてもいいやと、薄手のワンピース1枚と小さな白いバッグを斜めに掛けてコインロッカーに鍵をかけた。
初めての道の新鮮さを味わいながら、駅前の賑わいを抜けていく。人が向かう方向から少しそれた道を選び、海辺に吸い寄せられた彼女は、人気のない浜辺を歩くことにした。
海が広がる。青い空には薄く白い雲がかかる。まだ雨は降らないだろう。始めは上品に歩き進めていたが、次第に開放感に導かれ、裸足になった。靴は左手に持ち、海へと入ってみた彼女。水は思っていたより優しく冷たい。時々ふくらはぎまでやってくる波の先と、足の下から抜け出す砂と沈む足。心地よく繰り返すリズムのなか、波打ち際を踏みしめながら歩いていく。
青空を眺めていると、女神が現れた。
「神社もいいけど海でたくさん遊んでねっ!」
まるで自分の庭を誇るかのように女神は言った。久しぶりの女神は、変わらない可愛さで美しく自信に満ちていた。
綺麗な砂浜が続く海だった。ワンピースの裾が濡れることも気にせず、波と戯れながらゆっくりすすむ。潮の香りを吸い込んで。全身を包む風と香りと音。まるで数年間の淀みが流されていくようで、彼女は精いっぱい胸に空気を吸い込みながら、じんわりと足から何かが抜けていく様を感じていた。
明くる朝、古い歴史を持つ神社へ進むにつれて、さらに元気になっていく天使と女神。それにしても坂が急で、息を切らしていたその時にも、天使は伝える。
「身体をすこし後ろに傾けるっ」
天使の教えを聞いた彼女は重心を少しだけ引き上げ後ろにずらす。するとなぜだか楽に上れて鳥居までたどり着いた。
神社の中では天使は静かになり、かわりに女神がたくさん話し出す。鳥居を抜ける時に、彼女は振り返り頭を下げた。女神はいつものように明るく可愛く
「またねーっ」
と見送りの言葉を伝えてきた。
坂を下る。ここからは観光だ。
最終便の船まで観光を堪能した彼女は、早めに桟橋にたどり着いて船の到着を待っていた。お土産のワインを手にした彼女は、待合室から抜け出し海を眺める。白鷺が美しく近づいて、こちらを気にせず水面をつつく。ずっとここに住めたらいいのに。彼女は夕暮れ前の潮風を感じながら佇んでいた。
船に乗り込み、空と海を眺め、カモメが舞い交う様子を見上げた。ゆっくり進む船。平日の最終便は人も少なく、夕暮れが沈む西側の柵に腕をのせて、優しい潮風に吹かれていた。カモメが1匹ゆうゆうと船のポールに止まっている。その時、彼女はふと気付いた。しばらく天使の存在がないということに。鳥居をくぐり抜けてから数時間、あれだけはしゃいでいた天使の存在は消えていた。今までも、常時いるわけではなく時々存在はなかったものだから、特に気に留めてはいなかった彼女は、予想もしていなかった天使との急な別れに戸惑った。
もう夕暮れだからか、カモメもまばらな船のデッキで、彼女は静かな海を眺めていた。昨日黒鷺がいた小さな岬には白鷺がいて、羽を大きく広げていた。
天使は役目を果たしたのだろうか。天使は自分のもつ性質と役割を教えに来たのかもしれないな。彼女はそう思いながら呟いた。
「ありがとうね、ミカエル」
天使のいない日々を再び過ごしていた彼女は、なにげなく天使の言葉を書き留めたノートに目をやった。数冊のノートが、無造作に紙袋に詰められている。怖いから捨てるかどうかまよってたんだったな。重い記憶が蘇ろうとする背後から好奇心が顔を出してくる。
手を伸ばして、青い1冊のノートを取り出した。あ、当たりだ。似たようなノートのまとまりから彼女が選び取ったものには、1枚のルーズリーフが挟まれている。
天使が現れる前の数年間の記録から始まるそのノートは、時系列に沿って整理された冷静な分析から始まり、夢みがちな空想のあとは、混沌とした殴り書きへと続いていた。さらにページをめくっていく。天使との交信の記録へと入ると、可愛い天使のリズムと言葉がいきいきと蘇ってくるようで、こころがふわりと明るくなった。天使からの言葉は、具体的な西暦の年、望まれる役割や行動が続く。ところどころに2025年の数字が現れ始めた。
「あっ、2025年だ」
点と点とが線となる。ノートを読み返すたびに、その線は弧を描き丸みを帯びて、形となっていく。
彼女は発信していくことに決めた。この世のことを。この世界の美しさを。今度は勇気を出して、向き合ってみよう。そんな思いで覚悟を決めた。
天使が名付けてくれた名前を再び使い、天の声を遥か遠くまで伝えていこう。今回は、もう邪魔されない。しっかり地にも足を付けて、芯を強く持ち、心を身体を清浄に保って、惑わされないんだ。自分に誓った。
そして今、彼女は文章を紡いでいる。人の喜びのために真実を。楽しみのために創作を。生きるために芸術を。記憶の蓋を勇気をもって外して、少しずつ取り出して紐解いていきながら、彼女は彼女の世界を形として表し世に送りはじめた。
天使との記録が書き残されたノートの最後のページ。その最後の行は「2025 ハルカセラピー スタート」で締められていた。そうだった、当時は占い師やセラピストを目指すのかと思っていたな。タロットを再開すると言ったら、ミカエルに反対されたっけ。思い返しながら、「ふふっ」と笑みがこぼれる。彼女は優しくノートを閉じた。6年以上の月日が過ぎた今、ようやく始まる物語。
いま彼女の横に天使はいるのかって? ミカエルも一緒だよ。いまも彼女を見守っている。よくがんばったね、って喜んでるよ。
原作:「天使と彼女の物語」 アマネハルカnoteにて公開
カクヨム版:「天使と彼女の物語」 桜あんずにて投稿




