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武装法人二階堂商会――転生社長は異世界を株式買収で武力制圧する!シリーズ

武装法人二階堂商会 外伝 記録されない戦い ー 二階堂蓮司の原点

作者: InnocentBlue
掲載日:2025/12/01

(200話記念特別短編)


1 ── 静かすぎる社長室

雨の音だけが、世界の境界をなぞるように響いていた。


夜のオフィスは、都市の谷間に沈む巨大な洞穴のようで、窓に打ちつける雨粒の震えが、ガラス越しに規則正しく伝わる。

照明は最低限。非常灯とデスクライトだけが、闇を細く切り裂いていた。

広すぎる社長室の奥、一台だけ点灯したモニターが、青白く不健康な光を放っている。その光に照らされた横顔は、氷の彫像のように無機質で、静かだが、ひび割れたガラスのような緊張が滲んでいた。


二階堂蓮司。

中堅商社〈二階堂・インベストメント〉代表取締役。


彼のデスクには空のコーヒーカップが五つ、中身の減らないプロテインゼリーが三つ、

端の方には飲みかけの栄養ドリンクが冷たく横たわっている。

スーツの上着は、椅子の背に無造作に掛けられたまま。白シャツの袖は折り返され、ネクタイはほどかれた後に、どこへ置いたのかすら覚えていない。

しかし、疲れの影はない。いや──あるはずなのに、表に出てこない。指先だけが、生きているようにキーを叩いていた。

リズムは正確無比。資料を読み、翻訳し、分析し、送信し、また読み込む。

まるで、睡眠という概念が欠落した生物のように。

海斗が死んで、五日目。蓮司は手を止めた。自分の鼓動と雨音が、同じリズムで鳴っている気がした。


「……次、ニューデリーの案件を取り込む」


声は静かだが、どこか冷たすぎる。感情が削ぎ落とされ、判断だけが残ったような声。スケジュールは完全に崩壊していた。24時間の区切りが意味を失い、タスクとタスクの間に、かろうじて20分の仮眠を挟むだけ。この五日間で、自宅には一度も帰っていない。

ユニットバスでシャワーを浴び、清潔なシャツに着替え、またデスクに戻って仕事を始める。

その繰り返し。社員たちの間では、


「社長、何かが切り替わっている」


と、半ば恐怖めいた噂が流れはじめていた。

無理もない。社内改革も、買収案件も、財務調整も、すべてが狂ったような速度で前に進み続けている。通常の三倍近いレスポンスの速さ。休息ゼロの意思決定。

上層部の判断を一人で奪い取るような集中力。人はときに、喪失で変わる。しかし蓮司は──変わり方が異常だった。

彼は気にしない。というより、気にする余裕を与えないようにしている。

もし一瞬でも思考が止まれば、脳裏に浮かぶのは海斗の顔だ。


「……俺は、なぜ海斗を救えなかった?」


それだけは考えたくなかった。だから指を動かし、分析し続ける。仕事という名の鎧で心を殴りつけ、思い出という刃が刺さる隙間を与えない。

しかし──

完璧な防御というものは、この世に存在しない。ふとした瞬間、心は勝手に逆流し、映像がよみがえる。

海斗が最後に見せた、あの笑顔。


「社長、俺、行ってきます。すぐ戻りますんで」


そう言って、現場へ向かった背中。そのあと、二度と戻らなかった。

蓮司は、静かに奥歯を噛みしめた。指先の打鍵は止まらない。だが、僅かに震えが混じる。

──蓮司の中で、壊れているのは意志ではない。壊れているのは、「喪失を認識する機能」だった。雨音が強くなる。まるで、都市そのものが泣いているかのように。

蓮司は目を閉じた。暗闇の中に、海斗の声が落ちてくる。あの日の、あの普通の朝。

笑いながら、資料を差し出してきたあの顔。


「社長、俺、今度の案件……絶対成功させましょうね!」


開いた瞬間、胸の奥に刺さる痛み。蓮司は、思考の流れを断ち切るように、新しいモニターを立ち上げた。


「……次だ。まだ終わらせない」


呻きにも近い声だった。だが蓮司は悟っていた。

仕事を進め続けても、成長し続けても、買収を成功させても、どれだけ成果を積み重ねても──

海斗は帰ってこない。その事実だけが、彼の内側で鈍く光り続けていた。


2 ── 海斗の机(大幅加筆版)

海斗の席は、まるで時間だけがその場所を避けて通ったかのように、死の知らせが届く前の状態を保っていた。机の表面には、微かに手の跡が残っている。

海斗が仕事中、何度もノートを広げて、


「社長、ここ、ちょっとおかしくないですか?」


と、顔を近づけながら資料を指した、その癖の跡。

椅子は半分だけ引き出されたまま。PCはスリープ状態で、青い点滅のLEDだけが、主の帰りを待つように規則的に光っている。

机の端には、まだ温もりが残っているように思えるほど丁寧に積まれた書類。

そしてその一番上には──


「確認お願いします」


と小さく書かれた付箋が、海斗のきちんとした筆跡のまま貼られていた。

蓮司は、それを見た瞬間、胸の内側を握られたような痛みを覚えた。


「……海斗」


呼んでも返事はない。

当然だ。しかし、言葉は自然に滲み出た。蓮司は付箋の付いた書類を手に取った。

海斗の字は、丸く、やわらかく、誰よりも読みやすい。文字を見ただけで、彼の几帳面な性格がにじみ出る。

〈反社リスク調査:一次〉

〈評価:問題なし。ただし後日、二次情報の再確認〉

〈理由:前回の案件での抜けを反省しています〉

〈社長に迷惑をかけたくないので、慎重に進めます〉

──海斗らしい。

本当に、誰より真面目な男だった。彼は毎朝、誰より早く出社し、夜は最後まで蓮司に付き合った。雑務の多い下積みを愚痴一つ言わず、むしろ楽しそうに片づけていった。

そして数年後には、蓮司の右腕と呼ばれるまでに成長した。

M&A案件の一次調査。反社チェックの徹底。資金繰りの逆算。競合の裏ルートの洗い出し。

そのすべてが驚くほど早く、正確だった。

あるとき海斗は、資料を抱えて笑いながら言った。


「何か変な感じですね、社長。俺が社長の隣で働いてるなんて……新卒の頃なんて、遠い存在すぎて、社長に声かけるだけで心臓バグってましたからね」


蓮司は、その時何と返したか覚えていない。

ただ、海斗の誠実な笑顔と、少し照れた様子は今も胸に焼き付いている。

……胸に焼き付いたまま、消えない。

蓮司はゆっくりと、机の引き出しを開けた。そこには海斗の私物が整然と並んでいる。

文房具。ホチキスの替え針。ミニサイズの消臭スプレー。そして──蓮司が渡した名刺入れ。


「お前、これ大事に使ってくれてたんだな」


名刺入れの革には、丁寧に扱われた跡があった。蓮司は海斗のノートを手に取った。

黒い表紙に「Kaito N.」と自筆のサイン。

海斗はどんな細かい業務も、必ずノートに記録した。

ページをめくるたび、蓮司に質問した日のメモ、案件の復習、自分への反省と、成長したいという言葉が連なっていた。

そして──最後のページ。


《社長、俺はあなたの背中を追い続けます》


しっかりとした筆跡。迷いのない文字。読み終えた瞬間、蓮司の頭の奥で、何かが鈍く響いた。涙は出ない。出る余裕がない。

だが、胸の奥に溜まっていた冷たいものが、ゆっくりと溶けていくような感覚だけはあった。それが痛みなのか、後悔なのか。判断すらつかない。

蓮司は、深く、静かに息を吸い、ノートを閉じた。


「……追い続ける必要はなかった。俺が……守るべきだった」


声には震えがない。冷静で、丁寧で、いつもの蓮司の声だった。

だがその奥には、乾いた砂が音を立てて崩れるような痛みが沈んでいた。

守れなかった。あの日の判断が、海斗の命を奪った。

──だから蓮司は、もう誰も失わないと決めた。

海斗の机の前に立つ蓮司の背は、人間というより、これから何かを背負って歩む者の姿に見えた。

まるでこの机こそが、彼の原点であり、罰であり、誓いそのもののように。


3 ──葬儀と、沈黙

雨は止んだはずなのに、葬儀場の空気はしめり気を失っていなかった。重く、湿った布を肩に掛けられたような空気。控え室の白い壁には、祭壇の灯りがゆらゆらと反射し、無風なのに、どこか揺らいで見える。

海斗の葬儀。喪主席の最前列。蓮司は、背筋を伸ばしたまま、両手を静かに組んで座っていた。黒い礼服の肩が、微かに震えていた。しかしそれは感情の揺れではない。

ただ──冷え切った空気のせいだ。

遺族席では、海斗の母親がハンカチを抱きしめるようにして泣いていた。時折、その肩を支える父親の手が、震えている。同僚たちは青ざめ、目を腫らし、花を手向けるたびに、誰かが噛みしめた声を漏らした。


「まさか……あいつが……」

「昨日まで笑ってたのに……」


取引先の人間は、形式的な慰めを繰り返す。


「惜しい人を亡くしましたね」

「立派な若者でしたよ」

「御社にとっても痛手でしょう」


蓮司にとって、それらはただの空気の揺れでしかなかった。言葉として意味を成していない。音として届いても、心に入ってこない。雑音だった。葬儀が進む中、蓮司は祭壇に置かれた遺影を見つめ続けた。海斗の笑顔。明るくて、真面目で、どこか照れ屋な表情。その写真は、仕事の合間に同僚が撮った何気ない一枚だと聞いた。

──遺影にふさわしい笑顔だ。

そう思ってしまった自分を、蓮司は心のどこかで責めた。

ふさわしくなどない。これは、ふさわしい場所ではない。海斗は、ここにいるべきではなかった。

やがて儀式が進み、会場全体が深い沈黙に包まれた頃。海斗の母親が、足元のおぼつかないまま蓮司に近づいてきた。目は真っ赤で、涙は拭っても拭っても溢れ、声を出すだけでも辛そうだった。


「社長さん……」


蓮司は立ち上がり、丁寧に頭を下げた。


「……この度は、心よりお悔やみ申し上げます」


海斗の母は、震える唇で言葉を紡いだ。


「……あの子、本当に……あなたのこと……」


そこまで言うと、声が裂けた。喉が悲鳴をあげ、言葉が続かない。泣き声に飲まれ、その先が聞こえなかった。しかし、蓮司にはわかっていた。

海斗が、どれほど蓮司を信じていたか。誰よりも、深く。誰よりも、真っ直ぐに。


「社長の判断なら間違いないです」

「あの人についていくのが俺の道です」

「どんな現場でも、俺は社長の盾になります」


何度も、海斗はそう言っていた。その言葉は決してお世辞ではなく、嘘でもなかった。

だからこそ──海斗は、蓮司の指示で現場に向かった。

そして──海斗は死んだ。

蓮司の判断が、彼を死地へ追いやった。それは、どんな慰めも、どんな言い訳も上書きできない事実。

蓮司は、誰よりも冷静に、誰よりも静かに、その事実を胸に刻み込んだ。


「海斗さんは、本当に、あなたの……」


海斗の母親が、泣きながら言いかけたとき。蓮司は、そっと目を閉じた。


(……わかっています)


声にはしない。言葉にした瞬間、それは慰めのための言葉に成り下がるから。

蓮司は葬儀場の奥、祭壇に灯る小さな蝋燭の光を見つめた。燃え尽きる寸前の炎。

わずかに揺れながらも、必死に形を保つ。海斗も、最後の瞬間まで踏ん張っていたのだろうか。助けを求めたのか。怖かったのか。

それとも──蓮司の指示を信じたまま、逝ったのか。

考えるたび、胸の奥で何かがひび割れる音がする。葬儀が終わっても、蓮司は動かなかった。

誰もいなくなった祭壇の前に、たった一人で立ち尽くしていた。

視界は澄んでいるのに、どこか遠くの風景を眺めているような感覚。

静寂だけが残った空間で、蓮司は胸の内で確かな言葉を刻みつけた。


──俺の判断が、海斗を殺した。


これが、二度と忘れてはならない戒めの始まりだった。

この夜を境に、蓮司は変わったのではない。

壊れたのだ。そして壊れたまま、〈二階堂・インベストメント〉という企業を、容赦なく巨大化させていくことになる。


4 ──復讐ではなく、整理

海斗の死は──表向きは事故だった。だが、蓮司は誰よりも早く気づいていた。これはただの「不運」では片付かない。その背後には、複数の思惑と怠慢が絡み合い、小さな綻びが連鎖的に積み重なって起きた必然の事故だと。

葬儀の翌日。蓮司は喪服のままオフィスに戻り、社長室に資料をすべて並べた。

机の上には、海斗が最後に携わった案件の関連書類、社内メールのログ、取引先との交信記録、内部監査のレポート、競合の動きが記されたメモ。

そして──海斗の提出した最終報告書。

蓮司は椅子に座らない。立ったまま、次々と資料を取っては読み解き、壁に貼ったホワイトボードへ矢継ぎ早に線を走らせていった。

線が増える。関係性が炙り出される。矢印の先に、歪んだ構図が浮かぶ。

蓮司は、一枚の資料の前で手を止めた。社内派閥による情報遮断。

ある部署が、蓮司の改革方針に反発し、海斗への安全確認のルートを「意図的に」省略していた可能性。

次に目に入る。取引先の水面下でのルール破り。報告時点で「安全」を装ったが、実際は現場の状況を隠し、海斗へリスクの高い任務を押し付けていた事実。その下に重なる。

競合他社による情報操作。海斗が掴んだ市場情報は正しかった。しかしその裏では、競合が虚偽データを流し、まるで安全な案件であるかのように見せかけていた。

そして──蓮司は最後のメモに指を置いた。

社内の怠慢。海斗が現場へ向かう前、リスク管理部署が「確認を後回し」にした形跡。

たった一つの怠慢が、連鎖し、連鎖の先が──海斗の死。

蓮司は全てを見終え、静かに呼吸を整えた。脳裏に浮かんだ結論はただ一つ。


「俺の組織が、弱かったから海斗は死んだ」


それは責任の所在を探す言葉ではない。合理の果てに辿り着いた事実だった。

海斗は優秀だった。真面目で、誠実で、調査も正確だった。

問題は──海斗ではない。組織そのもの。構造そのもの。意思決定のプロセスそのもの。蓮司は椅子に座り、海斗が残した報告書を手に取った。

そこには、彼が最後まで粘り、慎重に確認し、蓮司の判断を支えようとした努力が詰まっている。

ページの端に、海斗自身の反省が鉛筆で書かれていた。


《社長に迷惑をかけないように、もっと精度を上げる》


その言葉に胸が鳴る。迷惑ではなかった。むしろ、蓮司が迷惑をかけたのだ。組織の弱さを放置した自分の責任だ。

蓮司はノートを閉じ、天井を見上げた。復讐という感情は、わき上がらない。怒りでもない。悲しみでもない。感情はすべて、あの葬儀場の静寂の中で死んだ。

残っているのは、ただ一つ。再発を許さないという、冷たい決意だけ。感情を燃料にする復讐は、必ず歪む。だが、論理を燃料にした改善は──止まらない。

蓮司はホワイトボードの前に立ち、一つひとつの線を見つめた。海斗の死を誰のせいにするか。そんな問いは、蓮司にとって意味がない。必要なのは──

構造的欠陥の排除。組織の強化。二度と同じ失敗を起こさない仕組み。その一点だけだった。

蓮司はペンを取り、ホワイトボードの最上段に大きく書いた。


《弱さの全排除》


これが後に、〈武装法人二階堂商会〉の鉄則となる。

直属の部下には絶対に甘えさせない。だが、同時に──絶対に死なせない。情報の流れは一本化し、安全確認を徹底し、誰も一人で決断しない組織。

リシュアの財務統制。ガロウの武力配置、ミナの諜報網、ルーチェの魔導統制。

そのすべては、この弱さの全排除から始まっている。

復讐ではない。感情ではない。これは、二階堂蓮司という男にとって世界を守るための当然の整理だった。

ただの必然。そして、この必然こそ──後の異世界で、最強の商会を築く礎となる。

蓮司は資料を閉じ、机に置いた。


「……海斗。お前の死は無駄にしない」


声は驚くほど静かだった。だがその静けさこそが、誰よりも深い覚悟の証だった。


5 ── 鬼社長の誕生

海斗を失ってからの数ヶ月。〈二階堂・インベストメント〉には、異様な緊張と熱量が渦巻いていた。その中心にいる男――二階堂蓮司。

社員たちは、彼をこう呼ぶようになった。

鬼 と。理由は単純だ。

蓮司が「人間らしさ」を完全に捨て、仕事だけを、生きる目的に据えはじめたから。

出社時間は午前四時。退社時間は存在しない。会議は五分単位で詰められ、タスクの優先度は秒単位で更新される。複雑な財務モデルを、蓮司は数十秒で読み解き、間違いを見つける。

アナリスト三人が一週間かけて作る資料を、一時間で精度二倍に仕上げてしまう。

その一方で、怒鳴り声は一切ない。机を叩くこともない。ただ、静かに、丁寧に――だが逃げ場のない最適解を淡々と突きつけるだけ。


「この案件、利益率が 2.6% 低い。理由を」


低すぎでもなく、高すぎでもない。まさにそこという地点を、数字の揺らぎだけで察知する。


「財務モデル。ここのキャッシュフロー、裏側の参照式が揃っていない。――五分で修正を」


言葉は淡々。だが指示は完璧無比。怒っているわけではない。圧をかけているわけでもない。ただ……蓮司が正しいだけなのだ。

人間の限界を踏み越えた論理性と、機械のような連続稼働。その異常さが、逆に誰よりも雄弁に語っていた。

二階堂蓮司という男は、感情を凍らせた。その成果は、あまりにも残酷に現れる。

短期間で、会社の売上は二倍に跳ね上がり、投資先の企業価値は三倍に伸び、敵対的買収を仕掛けてきた三社は、すべて蓮司の無音の逆襲で沈黙させられた。社内では、胃痛を訴える役員が続出した。


「社長についていこうとすると、胃が溶ける……」と。


新人は恐怖で近づけず、古参は覚悟を決めてついていき、中堅社員は「辞めるなら今」と冗談にならない冗談を言い合った。

それでも――不思議なことに。誰も蓮司を嫌っていなかった。

蓮司の指示は、怒りでも、八つ当たりでもなく、ただ正確で企業を強くするためのものだったから。数字は一切嘘をつかない。蓮司も嘘をつかない。

そして社員全員が知っていた。この地獄のような改革は、海斗の死が引き金になっている。誰も口には出さない。

だが、社内全員が薄々感じていた。蓮司は、何かを断ち切るために動いているのだと。

ある深夜。蓮司は社長室で、大量の資料を一人で捌いていた。部屋には、雨のようなキーボードの音だけ。外では風が鳴り、ビルのガラスを震わせている。その音さえ、蓮司には届いていない。彼は仕事という名の海底へ、自ら沈んでいくように没頭していた。

作業量を倍にし、意思決定を高速化し、休息という概念を削り取る。

食事はゼリー。睡眠は20分。休日はゼロ。まるで自分の心を埋めるために、仕事を流し込み続けているようだった。


――違う。


埋めているのではない。過去を思い出す暇をなくすために、仕事を押し込んでいるのだ。海斗が倒れた日のこと。事故現場の匂い。救急隊の声。遺族の泣き声。

お前の判断が、海斗を殺したと内側で誰かが囁く前に、思考を止めなければならなかった。だから蓮司は働いた。働くことで自分自身を静かに殺し続けた。

そして気づけば、〈二階堂・インベストメント〉は業界トップに躍り出ていた。

競合の牙は砕かれ、腐敗の芽は摘み取られ、社内から怠慢が消えた。数字は完璧。業績は右肩上がり。投資家は賞賛を送る。

だが、その勝利のどこにも――喜びはなかった。

成功の瞬間に湧き上がるべき感情が、蓮司には欠落していた。それはそうだ。彼は「勝つ」ために動いたのではない。「思考を止めるため」に動いていたのだから。

海斗がいない勝利など、何の価値もない。意味もない。だから蓮司は、今日も仕事を積み重ねる。

過去が追ってくる前に。痛みが形を持つ前に。後悔が声をあげる前に。数字の海へ潜り続ける。

鬼社長の誕生は、誰かを倒すためではなく――自分の心が倒れるのを防ぐためだった。


6 ──夜明けの剣

深夜三時。ビルの外では、都市の灯りがとうに眠り、ただ道路清掃車のかすかな音が遠くで響いていた。

〈二階堂・インベストメント〉の最上階。

誰もいない社長室には、デスクライト一つの淡い光だけが落ちている。大量の資料を処理し終えた蓮司は、静かに椅子から立ち上がった。PCのファンが、「まだ止まるな」と言わんばかりに回り続けている。

蓮司は、その側に置かれた一本の黒い刀袋へ手を伸ばした。

中から現れたのは、刃渡り二尺四寸の、日本刀の写し――本来は飾り物にすぎない。

だが蓮司にとっては違う。これは、訓練器だ。静かに鞘から抜く。抜き際のわずかな金属音が、社長室の空気を震わせた。刃は月光を浴びていないのに、どこか青白く光って見える。蓮司は深く息を吸った。


すっ……


最初の一閃は、水面を割るように静かだった。すっと斬り上げ、すっと斬り下ろす。動作に無駄がない。肩の力が完全に抜けている。だが、その剣筋には、どこか必死さが混じっていた。

刀の軌跡は美しい。理想的だと言っていいほどだ。けれど――完璧ではない。刃の通る角度が、微かに揺らいでいる。

蓮司の内側にある空洞が、剣筋を乱していた。斬るたび、耳の奥で声がする。


「社長、いつ寝てるんですか……!」

「社長、俺まだ半分も追いつけてませんよ!」

「社長、その判断は……リスクが高すぎます。俺、調査し直します!」


どれも、海斗の声だ。

仕事中の茶化しも、案件への不安も、真剣な指摘も。ひとつひとつが、まるで今ここに存在しているかのように鮮明に蘇る。

蓮司は、わずかに歯を食いしばった。素振りの速度が上がる。部屋の中で、風が起きた。


シャッ

シュッ

シャッ…


静まり返った社長室の中で、刀の音だけが響いた。切っ先が通るたび、空気が震え、まるで蓮司の内側の何かを削ぎ落としていくようだった。

だが、斬っても、斬っても、削ぎ落ちないものが一つある。

後悔だ。蓮司は突如、動きを止めた。荒くはない。だが、僅かに呼吸が乱れていた。刀身を見つめると、自分の顔が揺らんで映っていた。


そこには──


冷たい空洞があるだけだった。蓮司は刀をゆっくりと鞘に戻した。鞘に収まる「カシリ」という音が、社長室の空気に妙に大きく響く。刀を置き、窓辺に立った。外は、静かな雨の音だけが残っていた。深夜の東京は、まるで巨大な器に雨粒を落としているような静けさだ。蓮司は、濡れた街を見下ろしながら、ゆっくりと口を開いた。


「……海斗。お前がいたら、俺を止めたか?」


返事はない。当然だ。だが蓮司は、その沈黙こそが答えのように感じた。海斗はいつも、蓮司の暴走を止めてくれた。


「社長、ちゃんと寝てください」

「社長、この案件は俺がやります」

「社長、過密すぎます。少しペース落としましょう」


あの明るい声が、あの真っ直ぐな眼差しが、もうどこにもない。蓮司は喉の奥で息を震わせた。胸の内側には、深い、深い空洞が広がっていた。その空洞は、仕事でも埋まらず。数字でも埋まらず。勝利でも埋まらず。剣を振っても消えはしない。

ただ、広がり続ける。静かな雨音が、蓮司の心をさらに深く沈めていった。


7 ──成長の代償

海斗を失って半年後。〈二階堂・インベストメント〉は、

業界で怪物と呼ばれる企業になっていた。その成長は、誰の目にも異常だった。

営業利益は三期分を一度に跳躍したように伸び、取引数は倍増し、大型案件は必ず〈二階堂・インベストメント〉に流れ、競合は蓮司の影を恐れて、交渉のテーブルにつく前に撤退の準備を始めるほど。

成功という言葉が意味を失うほど、会社は肥大化し、強靭化していった。

だが、その中心に立つ男――二階堂蓮司は、誰よりも鋭く、誰よりも冷静で、そして何より……誰よりも綺麗に、壊れていた。

蓮司の髪は整っている。服装も乱れない。声も静かで丁寧。態度も紳士的。

だが、どこか人間の温度が消えていた。打ち合わせ中に笑わない。取引先の冗談に反応しない。社員の小さな失敗にも怒らない。むしろ怒りという感情が削ぎ落とされている。

だけど、不思議なことに――誰よりも正しい。判断は一歩早く、提案は一段深く、視野は常に俯瞰し、相手の心と市場を同時に読む。社員たちは震えながら、しかし誇らしげにその背中を見つめていた。

社内では、こんな噂が生まれた。


「社長は、感情をどこかに置いてきたんじゃないか」

「……いや、感情じゃなくて、海斗さんごと置いてきたんだよ」


誰も声を大きくはしなかった。その話題だけは、社長に触れてはいけない暗黙の空気が会社全体を包んでいた。しかし噂は止まらない。


「社長、海斗さんが亡くなってから……笑ってないよな」

「笑ってないどころか、落ち込んでる姿も見てない」

「いや、それが怖いんだよ……なにも感じてないみたいで」

「違う。感じてるけど……閉じてるんだ」


ささやきは静かだった。だが、それは恐れの裏返しだった。蓮司はそんな声を聞いても、何も反応を示さなかった。

気にしない。というより、気にするための余裕を自分に与えていなかった。仕事を止めた瞬間、あの日の景色が蘇る。事故現場の赤いテープ。鳴り止まない救急車のサイレン。濡れた路面に散らばる資料。海斗の手帳。間違いありません、社長と笑った姿。

止まったら、海斗の死が本当に重くなる蓮司はそれを理解してしまっていた。理解した瞬間、蓮司は人間の心を一度、そっと机の引き出しにしまった。閉じた。鍵をかけた。そして二度と開けないように、その上から仕事を積み上げた。積んで、積んで、積み続けた。

やがて机は山になり、山は壁になり、壁は蓮司の心の墓になっていった。その墓に眠っているのは──


感情。

弱さ。

迷い。

海斗。


蓮司が後戻りしない理由は単純だった。心という墓標を掘り返したら、蓮司は前に進めなくなる。だから彼は今日も、鬼のような速度で仕事を積み重ねる。誰よりも高く、強く、完璧な判断を続ける。自分自身の心を守るために。社員たちは知らない。この半年、蓮司は一度たりとも自分のために仕事をしたことがない。ただ、止まることが怖かっただけだ。

止まれば、海斗の死が襲ってくるから。

止まれば、後悔が胸を貫くから。

止まれば――蓮司は壊れてしまうから。

それがわかっていたからこそ、彼は人間であることをやめて、会社を動かす機構になった。そして業界全体は、その異常な強さに震えた。〈二階堂・インベストメント〉は怪物になった。

だが、その怪物の中心にいる男は――心を失った人間ではなく、心を守るために手放した人間。それこそが、二階堂蓮司だった。


8 ──最後の言葉

ある日。蓮司は何となく、海斗の私物をまとめた段ボールに手を伸ばした。意図はなかった。理由もなかった。

ただ――ふと身体が動いた。封を切り、書籍やノート、名刺入れ、小さなホチキスや付箋を取り出していく。その中に、ひとつだけ黒いUSBが紛れていた。市販の、どこにでもあるタイプ。海斗の癖字で《Kaito》と書かれたシール。

蓮司は一瞬だけ迷い、躊躇し、だが次の瞬間にはPCに差し込んでいた。

クリック音が響く。中身はフォルダが二つ。


《案件資料/202X》

《未送信》

蓮司は、心臓の鼓動がいつもより明確に聞こえる気がした。手が勝手に動く。

《未送信》

フォルダを開くと、そこには一通のメールデータだけが入っていた。

《宛先:二階堂社長

件名:まだ言えていないことがあります》

それを見た瞬間、蓮司の呼吸が止まった。クリックする指が、わずかに震えているのを感じた。深く息を吸い、静かに開く。メールは短かった。

だが、誰よりも海斗らしい言葉で埋まっていた。

________________________________________

社長、俺はあなたの判断についていきます。

でも……社長は、ときどき一人で全部抱えすぎます。

社長の背中を追うのは誇りだけど、

もし社長が倒れたら誰もついていけません。

どうか──もっと、自分を許してください。

________________________________________


たった数行。なのに、世界が揺れたように感じた。蓮司は無意識に、画面を閉じた。閉じても、言葉は脳裏に焼き付いて離れない。


「……許す?」


思わず声に出た。許す?何をだ?

自分の判断か。自分の無力さか。自分が海斗を死なせたことか。過去のすべてか。世界の理不尽さか。

それとも──

弱さを憎んだ自分自身か。蓮司はゆっくりと、額に手を当てた。その姿は、誰の目にも疲れた社長に見えただろう。だが違う。蓮司が押さえつけているのは、痛みではない。

海斗の言葉は、蓮司の胸の奥に沈めていたあの冷たく深い空洞に、初めて石を投げ込んできた。

波紋が広がる。感情の輪郭が滲む。止めなければ、と蓮司は思った。しかし、身体は動かない。深く、深く息を吐く。

だが――今吐いた息は、仕事の合間にいつも吐いていた調整のための息ではなかった。

胸の奥に滞っていたものを、押し出すための息。まるで、自分自身の鎧に小さなひびが入ったようだった。USBは静かに点滅している。まるで海斗が、


「社長」


そう呼んでいるかのように。許すとは何か。なぜ海斗はその言葉を選んだのか。蓮司には、まだ理解できない。いや、理解したくなかった。理解してしまえば、自分の壊れた部分が浮かび上がってしまうから。

けれど――

海斗の言葉は、蓮司がどれほど閉ざしても、どれほど目を逸らしても、確実に届いていた。


「どうか──もっと、自分を許してください。」


その意味がわからないほど、蓮司は壊れていた。だからこそ、この一言だけが胸を刺した。何を許すべきなのか。何を赦せばいいのか。誰を赦せばいいのか。

そして――自分を許すとは、一体どういうことなのか。蓮司は、答えのない問いを抱えたまま、

静かに目を閉じた。息を吐く音が、社長室の広い空間に沁み込んでいった。

その吐息には、わずかな揺れがあった。それは波紋。ほんの小さな波紋。だが、確かに蓮司の内側で何かが揺れた。

そしてその揺れは、後に蓮司が異世界で仲間を絶対に死なせないと誓いとなる。


9 ──夜のビルの屋上にて

その夜。蓮司は、ひとりビルの屋上に立っていた。

オフィス街の夜は、深夜でも完全には眠らない。大小さまざまな光が交差し、車の流れが光の筋となり、高層ビルの谷間を切り裂くように風が吹き抜ける。下を見れば、東京の街が、まるで星空を地上に落としたようにきらめいていた。

海斗と何度も歩いた街。仕事帰り、コンビニで肉まんを買って笑った道。深夜のタクシーで移動した喧騒の通り。


「社長、これもう飲み会いきません?」


と海斗がわざとらしく言っていた交差点。それらの景色が、まるで今もそこに在るように思えた。風が吹き、蓮司の黒髪を静かに揺らす。彼はビルの縁まで歩み寄り、空を見上げた。星は見えない。東京の光が強すぎて、夜空は黒というより、薄い灰色に薄まっていた。

蓮司は、その虚ろな空に向かって、ぽつりと呟いた。


「……海斗。俺は、今……怪物になっているのかもしれんな」


風だけが返事をした。機械の音も、車の音も、遠くのざわめきもすべて消え、ただビルの上の風だけが耳を撫でた。蓮司は、夜空の向こうに海斗がいるかのように、静かに言葉を続けた。


「社員はついてきている。会社は成長している。俺の判断は……正しいと評価されている」


淡々とした声。だが、それは自嘲の気配を帯びていた。


「それでも――」


蓮司は、胸に手を当てた。違和感があった。冷たく、深く、底の見えない穴。心が、どこか虚ろなのだ。勝利の喜びも、成長への満足も、賞賛の声も届かない。すべてが、まるで他人事のようだった。蓮司はゆっくりと目を閉じた。


「……それでも俺は前に進む」


その言葉には、決意というより呪いに近い響きがある。


「お前を救えなかった俺が、立ち止まるわけにはいかない」


その瞬間。誰もいないはずの屋上に、海斗の笑顔がよぎった。


「社長、俺、まだまだ追いつけませんよ!」

「社長、いつ寝てるんですかっ!」

「社長、その判断……正直ちょっと怖いです。でも、俺ついていきます!」


聞こえない声。見えないはずの顔。だが蓮司には、鮮明すぎた。

夜風が吹く。東京の街の光が遠のく。ビルの上に、長い沈黙が降りた。沈黙は、蓮司を責めもしない。励ましもしない。ただ寄り添い、ただ揺らめいた。蓮司は目を開け、灰色の空をもう一度見上げた。

そして――誰に聞かせるでもなく、ただ夜空へ向かって、ひそやかに、深く、呟いた。


10 ── 決意の残響


「……俺は、間違っていないだろうか……海斗」


その言葉は、夜の東京の風に溶けるように、かすかに震えた。答える者はいない。返事はない。ただ都市のざわめきが、遠くの深海のように静かに渦巻いているだけだった。だが蓮司にはわかっていた。これは問いではない。

祈りだ。

誰に向けたのかわからない祈り。届くかどうかもわからない祈り。だが、蓮司が生涯で初めて、自分自身に向けた祈りだった。言葉が消えると同時に、胸の奥に広がっていた空洞が、ほんの僅かだが形を変えた。埋まるのではない。消えるのではない。ただ、沈んだのだ。深い、深いところへ。

蓮司の心の底に、もう誰の手も届かない場所へ。蓮司は、その静かな沈降を感じながら、ゆっくりと息を吸った。

冷たい空気が肺に満ちる。それは、決意の温度を持たない、完全な無音の息。そして気づく。海斗を想う痛みは、もはや過去ではなかった。今も、これからも、蓮司の中で生き続ける軸になっていた。


「……行こう」


蓮司は、自分にだけ聞こえるほどの声でそう言った。風が止む。街の光が一瞬だけ鮮明になり、夜空の灰色がわずかに薄くなった気がした。この瞬間、蓮司はまだ知らない。この夜に刻んだ言葉が、

半年後、銃弾に倒れ──命を落としたあの瞬間にも、ずっと胸の奥で燃え続けていたことを。

そして。

蓮司が死を迎え、まったく別の世界に目を覚ましたとき――仲間を失わないという誓いは、すでに完成していた。

それは異世界での力ではなく、スキルでも、魔法でもない。もっと根源的で、もっと鋭く、もっと強い。

一人の人間が、愛する者を失った痛みから生まれた、絶対に揺るがない信念。

あの夜。ビルの屋上。東京の光。そして風に消えた海斗の名。全てが、蓮司という男を形づくった。だからこそ、後の世界で――

蓮司は誰よりも優しく、誰よりも冷静で、誰よりも強い社長になる。

大切なものを失わないために。二度と、海斗のような犠牲を生まないために。

そしてその誓いは、やがて数百人、数千人の部下と民を守る力となり、一つの世界の経済を動かす武装法人二階堂商会という巨大な物語の始まりとなる。


──すべては、あの夜の続きにある物語だ。

二階堂蓮司、誕生。


ここから先は、異世界で紡がれる、まったく新しい戦いの章である。



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