**第二章 宿る想い**
雨の音が社務所の屋根を叩く。刹那は畳まれた和紙の束の上に、荷物を置いた。
「とりあえず、ここで暮らすことになるらしい」
「そうみたいね。おじいさまから、全部聞かされてるから」
いちごは火鉢に炭をくべながら、静かに答えた。火鉢なんて懐かしいなと思いながら見ていると…
「ここ川が近いからか思ったより冷えるのよ。もう春だっていうのにね」
十年ぶりに会った幼馴染は、記憶の中の少女からすっかり大人の女性に変わっていた。ただ、あの頃と変わらないのは、和紙に触れる時の真剣な眼差しだ。
「お前、相変わらず和紙に執着してるな」
「だって、これが楮の里の命だから」
いちごは火鉢の上で手を温めながら、ふと刹那の顔を覗き込んだ。
「でも、刹那くんは変わったね。昔は『神様なんていない』なんて言って、おじいさまによく怒られてたのに、今は立派な宮司さんじゃない」
「形だけだよ」
刹那は鞄からスマホを取り出すと、社務所の天井を撮影した。
「それより、ここってWi-Fi使える?」
いちごは呆れたように笑う。
「相変わらず現実的ね。でも...」
彼女の声が急に小さくなる。
「ここでは、電波がよく途切れるの。特に夜は」
刹那が眉をひそめた瞬間、社務所の奥から「ガタン」と音がした。二人の視線が自然とそちらに向く。
「...風よ」
いちごはすぐに表情を整えたが、刹那は気づいていた。彼女の指先が微かに震えているのを。
夜、二人で夕食を囲んだ。いちごが作ったのは、地元の野菜を使った素朴な料理ばかり。
「お前、料理も上手くなったな」
「当たり前でしょ。十年も経てば、誰だって成長するものよ」
いちごは箸を止め、刹那をじっと見た。
「刹那くんは...おじいさまと一緒に、大変だったんでしょ?」
刹那の箸が一瞬止まった。祖父の厳しい修行の日々が脳裏をよぎる。
「まあな。でも、それで飯が食えてるんだから文句は言えねえ」
会話が途切れた時、ふと外から子供の笑い声のようなものが聞こえた。刹那が窓を見やると、
「...また始まった」
いちごが呟く。彼女の手の甲には、先ほどまでなかった和紙のような紋様が浮かび上がっている。
「いちご、その手...」
「大丈夫。ただの...」
嘘をつこうとしたいちごの言葉を遮るように、社務所の電話が鳴った。受話器を取ったいちごの表情がみるみる変わっていく。
「...はい、わかりました。すぐに対処します」
電話を切るといちごは急いで立ち上がった。
「町の和紙工房でまたトラブルが。行かなきゃ」
「俺も行く」
「でも刹那くんは今日着任したばかりで...」
「神社関連の仕事になるんだろう?」
刹那はすでに外套を手にしていた。いちごは一瞬驚いたように見えたが、すぐに小さく頷いた。
雨の中を歩きながら、刹那は問いかけた。
「最近、町でトラブルが起こってるのか?」
いちごは傘を握る手に力を込めた。
「...いろんな人が記憶を無くしているの。そして、和紙に奇妙な模様が現れるようになって...」
その時、前方の路地から男がよろめきながら現れた。町の和紙職人・佐藤だった。彼の目は虚ろで、手にはくしゃくしゃになった和紙を握りしめている。
「いちごさん...また聞こえるんだ...紙の中から娘の声が...」
佐藤が差し出した和紙には、血のような赤で「パパ」という文字が滲み出ていた。いちごがその和紙に触れた瞬間、彼女の腕の紋様がさらに広がっていく。
刹那はスマホのライトで和紙を照らした。
「...これは」
和紙の繊維が、まるで生きているかのように蠢いていた。
雨に煙る路地で、いちごは和紙を両手で包み込むように持ち、目を閉じた。その瞬間、彼女の腕に浮かんだ紋様が鮮やかに輝き始める。
「……お願い、私に預けて」
かすかな囁きと共に、和紙から赤い霧のようなものが立ち上り、いちごの腕の紋様へと吸い込まれていった。刹那は思わず手を伸ばそうとしたが、何もできずに拳を握りしめるしかなかった。
いちごは娘さんのそばに座り、額に手をかざして
「……お願い、戻って」
囁くと今度は青白い光がいちごの腕の紋様から娘さんの額に流れていく…
「……よし」
ぱっと目を開いたいちごが、和紙を佐藤に返す。紙面にはもう血の文字はなく、普通の白い和紙に戻っていた。
「お嬢さんの記憶、少し戻しておきました。今夜はゆっくり休んでください」
「ありがとう、いちごさん…本当にありがとう!」
涙を浮かべながら頭を下げる佐藤を見送り、いちごはふらりとよろめいた。刹那がすぐに支える。
「大丈夫か?」
「うん…ただちょっと疲れただけ」
しかしその顔は明らかに青ざめ、唇まで色を失っていた。刹那はいちごの腕を見て息を呑んだ。紋様が濃くなっており、今や肘まで達している。
「これ、どんどん酷くなってるんじゃないか!」
「大丈夫…休めば戻るから」
雨の中、刹那はいちごの体を支えながら神社へと戻った。重たい沈黙が二人を包む。足元の水たまりに映るいちごの姿が、なぜか二重に見えるような気がした。
社務所に戻ると、いちごは火鉢の前に崩れるように座り込んだ。
「お前、火鉢焚いてたのは自分の身体を温めるためだったのか?」
いちごはバツが悪そうな顔をして目を逸らす。
「…これ、よくあることなのか?」
刹那が問いかけると、いちごは火の粉を見つめたまま答えた。
「最近は…増えてるの。みんなの記憶が和紙に吸われてしまう現象」
「原因は?」
いちごはゆっくりと刹那を見上げた。その瞳には刹那の記憶にはない、深い悲しみが宿っていた。
「…多分、原因は刹那くんにある」
「俺だと?どういうことだ?」
「あなたが子供の頃にした約束を果たすため、紙神様が…目覚め始めたの」
いちごの言葉に、刹那は驚きを隠せない。祖父が無理やりにでも自分をこの町に送り込んだ理由。神社の不自然な位置。そして今起こっている異変―全てがつながり始める。
「いちご、もっと詳しく話してくれ」
「…まだ全部は言えない。でも」いちごは苦しそうに胸に手を当てた。「刹那くんが本当のことを思い出せば、きっと―」
突然、いちごが激しく咳き込んだ。その手のひらには、和紙の切れ端のようなものがくっついていた。
「いちご!」
「大丈夫…これも、よくあることだから…」
だがその言葉とは裏腹に、いちごの顔からは生気が急速に失われていった。刹那は咄嗟にスマホを取り出した。
「病院に連れて行く―」
「ダメ!」いちごが必死に袖を掴んだ。「外に出たら…もっと酷くなる。ここが…一番安全な場所なの」
刹那は歯を食いしばった。無力感が胸を締め付ける。神職の資格は持っていても、こういう事態に対処する術など何も教わっていなかった。
「じゃあ、どうすればいいんだ!」
いちごは弱々しく微笑んだ。
「…お茶、淹れてくれない?ゆっくり休みたいから…」
刹那は台所へ急いだ。やかんを火にかけながら、ふと窓の外を見やった。雨はますます強くなり、社殿の影が不気味に揺れている。あの場所に、あの奥に―幼い頃、だれかと秘密の約束を交わしたという記憶が、朧げによみがえる。
「待ってろ、いちご…いま準備する」
そのままいちごは眠りにつく。刹那も気を張っていたようだ…横になるとそのまま深い眠りにつくのだった