もの5たり「翡翠交じりの黒曜石」
鳥使徒も重力の悪戯に難儀していた。体のバランスをどこに置けばいいかまるで掴めない、むしろ鳥なりに歩いた方が楽なのではと思わせる程の飛翔感覚の崩れ具合だ。だが彼は飛ぶ事を辞めなかった。これは男の戦いだ、そう思う。鳥として産まれたのなら、彼女の従者として転生したのなら。これを乗り越え彼女では成し得ない重力を統べる雄々しき鷹となるのが一先ずの彼の見据えたるゴールだった。
だが現実に疲労と喉の渇きは襲い来る。彼は眼下に緑色を宿した不思議な水の一帯、川と呼べそうな地域を見つけた。こんな世界で何処かを目指し何処かへ進んでいる水の存在する目的など有るのか無いのか分からないがなんにせよそれがなんなのか彼は一旦調べる必要性を感じ飛翔をゆっくりゆっくり地面に激突しない様終え着陸した。
まず触れる、羽根に含ませたそれを嗅いでみる。そこまで危険な敵意を孕んだ存在には感じない。そして地面を流れているそれを一口。大変に、旨い。何故こんなに旨いのかと疑問を抱かずには居られないレベルで馨しい味わいが口腔と鼻孔一杯を支配する。文字通り脳が、灼かれる程だ…人は食事をし生活の歩を進める儀式のうちに、自己の避け得ぬ死への着実なステップを、そして咀嚼する生命の死への有難みを常に脳裏でも嚙み砕いている。通俗的な脳を焼かれるの意味で重ねて言うなら鳥使徒の彼の感じている今回のそれはもはや死への憧れ、タナトスと言える。動き回る事で己が存在を陸海空に刻み込む動物サイドの生命にとって緑と言う永遠の自律動作の不在を約束された植物サイドのカラーリングはそれを時に必要以上に想起させる、何もかもが現代社会に属すると呼ぶには原始的で素朴な暴力性に満ちたこの世界では殊更その印象は濃い物となる。この仄暗く緑の光を放つ水を飲み続けると気持ち良過ぎて死ぬ、感受性が今や動物で割とシンプルに寄っているきらいのある彼においてすらこう予見させる物なのだ、今眠り姫をしている人間のあの子に飲ませる、いや、ブーツを脱いで足で踏ませるだけでも何が起こるか分からない。もはや彼女を近付かせる事も憚られる危険な誘惑の毒々しさを湛えた川を越える為、彼はその補水欲求をなんとか振り切り飛び立つ事に成功した…いや、成功したと言えるのかどうか。彼の眼の縁には今まで無かった翡翠色の一線が入ってしまった、美しい黒曜石に彼のその悠々たる黒き翼を例えるなら今や別の宝石をもその身に宿したある種の不純物としての鉱物に格が下がってしまった。だが快楽に満ちたる彼はまだその植物カラーの涙の筋が体に入ったと言う補水における負の結末を知らない、元気に起きた彼女からの指摘をそれは待つ事になる。
その植物の血とでも言えばいいのか、翡翠の涙の一線をカイナと言う獏は今度は舐め取らない。むしろ、してやったり、とでも言う様にそのまま放置しニタニタと眺めている。一線は彼を何処まで蝕む事になるのか、まだ悲しみの連鎖の象徴は鈍い輝きを放ちながら産声を上げたばかりだ。




