最終「界泣」
「体」編「Our名」
ス2ーリー「三位一体のお守り」
崖は川にとってみれば終焉を意味していたが今まで比較すれば緩やかな試練を乗り越えて来たクイナとクリネからすればむしろ始まりと言えた。有機的な物質で作られた橋が架かって居る。最果てを見渡す事も難しい長い長い橋だ。あれから睡眠を済ませ頭の冴えているクリネの魔眼はこれが心技体で言う所の「体」である事を察知した。「技」である心臓と分離された所の肉体はこうして死後連なり結果として橋の様に見える何かへと変貌を遂げたと言う事だ。相変わらず悪趣味な世界設計をしているな、だがこれを渡り切った所に有るかも知れない「心」位は澄んだ存在で居て欲しいものだ、今まで緑の水に触れる事無く透き通った存在としての地位を守り続けて来たクイナに相応しい物としてとクリネは思った。そして彼はこうも思った、今まで空想で遊ばせて来た陸上型使徒などと言うのはまやかしで使徒は100%自分に準えられる鳥しか居なかったのだと。こんな恐ろしく研ぎ澄まされた試練に人間と並んで使徒まで陸上型では足手まといと成り兼ねない。
「やりたい事があるんだ。今なら出来る」
クリネはクイナの方に向き直ると決意の籠った口の結び方が確認出来た。ああ、と思う、多分例の高度飛翔だ。彼女が1m飛翔を時たま交えていたのは何もクリネの気を引こうと言う悪戯心だけからではない。いつか自分が行おうと宣言していた所の10mの高度飛翔、その予行演習だったのだ。
「その前に儀式的な事はやっておこうか。クリネ、命の炎を貰うよ」
そう言うとクイナは両ポケットの羽根を取り出し、片方の羽根は先の方、もう片方は根元の方でクリネの右頬を一撫でした。別にくすぐった訳では無いのだがクリネは愛撫に飢えていた右頬にもやっと救いの日が来たな、と一寸だけ安堵の気持ちに浸った。これは要するに緑の一線を彼女のお守りにも分けてもらおうと言うそういう行為だった。彼女の狙い通り羽根には翠が宿る、上下逆さの位置なので両方を地面に並べて置いたならそれは太陰大極図と言っていい対の存在となり、お守りとしての意味合いがより色濃くなった。
その変化した形を暫く眺め、彼女自身はそれの緑の部分を癒してしまう訳にも行かないので触れない様にそっと両ポケットにしまい込む。利き手の右手側のポケットにその先端に緑を宿した羽根を入れた、こちらの羽根が彼女からすればクリネを意味していた。頭脳が翠に侵されもう元に戻る事は恐らく叶わなくなってしまった相棒。彼女としては利き手側での人だった頃のクリネとの握手をイメージしている、もしくはもっと現実的な方で言えば左頬を撫でる時の手が単純に利き手である。根元が緑の羽根は自身の象徴だ、飛翔能力を悪意の空に中途半端に与えられ結局高度飛翔もままならぬまま地べたをスキップするのが限界の自分。それを足に緑を宿した自分、と言う構図で収めたつもりだ。その羽根を同じく不自由さのある非利き手として左側ポケットへ。
そして崖の端に立つ。崖は左右方向にも果てが見えない、恐らくそれは川の有る左方向ではない右を延々行った所で変わらないだろう。彼女は髪飾りを外している。処刑の光景の時より激しい事にはならないにしてもどの道ああ言った非常識的な負荷が加わるアクションの試行回数が増えれば幾ら粘り強く彼女の頭を彩る位置を固持し続けた髪飾りとていつかは落下して緑の海の藻屑となるだろう。三位一体でなくてはお守りの効力が弱くなる。髪飾りはポケットに入れても良かったが微妙にサイズが大きく、それにポケットの中で羽根と羽根が衝突して緑に唯一冒されていない羽根をそのままにしている意味が失われる可能性もあった。世界の「心技体」、この「体」に挑む彼女の覚悟は儀式によってより一層堅固な物となった筈だ。
3トーリー「届かない夢」
緑の海は果てしなく広い。これはカイナ・クイナの血だけではないな、とクリネは思う。現世の流血の歴史込みの大海だ。そんな膨大な亡霊の声を身に宿したら一瞬で頭が完全にやられる気がしてならない、それにそこはかとなく蒼の薄明時のあの光り輝きを常態でもう既に放って居る様にすら見える。美しさには棘が有る、とは言うがその言葉が似合う不穏さに満ち満ちた光景だ。崖の端に立つクイナも何処となく高度飛翔を前にしてその光景に見惚れている様な素振りが有る。
クイナは髪飾りを強く握り直すと、飛翔を開始した。2m、5m。7m辺りだろうか、無重力が切れ彼女は落下を余儀なくされた、ただ崖の端より向こう側に出ていたので地面に激突はしなかった。彼女は崖から下方に20m位の位置で復活した無重力に救われた。そこから死に物狂いで飛翔を続け崖の縁に戻って来る。大量の脂汗をかいている。それでも彼女は諦めず無重力の復帰を感知したタイミングで間髪入れずにトライする。だが重力は運悪く5m地点ですら簡単に戻って来てしまう。崖から20m、30m、最悪な時は40mまで行ったが彼女はなんとか崖の縁に戻る事は毎回出来た。5、6回やったが結局最高記録は初回の7mで、彼女は遂にへたり込んでしまった。
恐らく重力遮断は自然現象ではない。クリネは彼女の悪戦苦闘を見るにつけ自身の緑の水摂取は不可避だったのだと言う確信を持つに至った。橋を渡る試練を乗り越えてからでも夢を叶えるのは遅く無いかも知れない。この世界が彼女の存在を認めさえすれば、きっと彼女の望む10m飛翔は思いのままだろう。だからそれまでは我慢して今は世界が望む事、彼女が試練を乗り越える事を優先させた方がいつか起こるかも知れない崖の縁に戻る前の重力再発現を目の当たりにせずに済む最適解と言える可能性はある。<クイナ、『今』はまだそのトキではナいのかもシれない>と彼はくたくたになっているクイナに伝えた。どういう事なの、と言いたげなクイナに対し、クリネは視線だけ橋に送る事で答えた。
「何事も順番かしらね…分かったよクリネ。そうしてみる」
クイナは何度も失敗しながらも手放す事はしなかった髪飾りを頭に飾り付けると、両サイドのポケットの羽根を巫女服の上からポンポンと叩いた後橋の方に向き直る形で起立した。
橋にはどう言う原理か海に設置されて居てもいい筈の支柱が無かった。浮遊する力を自在にコントロールする世界からすれば造作も無い事なのだろうか。それに手摺りも落ちてくれと言わんばかりに用意されておらず、歩く為の最小限の構造でしかなく益々クイナの足を折った所の世界の悪意に嫌気が差す。それにこう言った事実からするとあの処刑の光景もより裏付けが濃くなる気がしないでもない。クリネは嫌な発想を振り払う。こうして二人の試練は始まった。いや、夢を打ち砕かれる事が既に試練の始まりだったのだろう。
はな4「置いて行かないで」
クイナは恐る恐る片足を橋の上に乗っけてみたがそれが橋に溶け込むかの様に消えてしまった時、思わず恐ろしさの余り後退しようとした。しかしその片足である右足は決して消えた訳ではなく有機物の橋に取り込まれてしまっただけなので後退は出来なかった。そしてその現象は重力発現と同期していた。クリネは確かに聞いた、<オいてイかないで>と言う橋の魂の声を。これだ、今まで我々を苦しめていた重力遮断の根源は。色々とその非日常性を楽しませて貰った部分は有るにしろ血生臭い思い出と共にも有るその現象は、この世界の胃腸とも言うべき構造物によって思うが儘に演出されている様だ。そして続く音遮断、この時は<オいてイかないで>と言うフレーズが響かない。つまり発語している彼ら自身聞きたく無い怨嗟の声だと言う事だ。彼らは一体の生命体ではない、が結び付けられている「体」相当の存在である。それが脳と呼べるかは不明だが意識、魂は分離しているのに「体」が切り離される事の無いストレスフルな状況が彼らを支配していて、かつそれが永遠に続く物だからもううんざりだとばかりに、重力遮断と言う置いて行かないで構ってくれと言う欲求と、音遮断と言うそんな他者の都合など知るか聞きたくないと言う欲求の鬩ぎ合いの中に閉じ込められた永久機関がこの橋の概要だ、とクリネは伽藍洞の心に響く亡霊が唱える声の助けを借りて結論付けた、つまりここまで到達した亡きカイナ・クイナも少数ながら居たと言う事だ。
心配になってクリネはクイナの方に目をやったが、先程の度重なる失敗で一旦磨り減った心の事が有るので大分弱気な顔をしている。この橋をどうにか踏み越えなくてはならないのか、と途方に暮れている様にも見える。<オいてイかないで>が聞こえていない筈の彼女からすれば全く事情が分からないだろう、だからと言ってクリネが考え付いた様な世界の狂気をそのまま明け渡す訳にも行かない。クリネは思案後、彼女に向けこう言う内容の事を伝えた。(クイナ、成長痛の事を覚えている? この世界を歩く事で君は一歩ずつ大人に近付いている、時の存在の仕方がきっとここは変わっているから。この試練も成長痛の一つだ、どうにか踏み越えて欲しい)そして言うだけじゃなく自身もやってみせねば、と言う事でクリネはクイナが捕まっている部位よりちょっと先の橋に乗っかる。だがクリネの場合の方が深刻だった。伽藍洞の心に吹き荒れる亡霊の声はもはや暴風レベルになる様だった、むしろこの世界との親和性が高いクリネの方が試練と言う意味ではその色合いが濃かったのだ。(置いて行かないで、置いて行くな、置いて行くんじゃない、置いて行くなど有り得ない)クリネはあまりの強烈さに嘴から涎を飛ばしてしまった、泣いた時クリネは同じく緑ではない透明な液体を目から流しているがそれに匹敵する位ショッキングな出来事だった。だがクリネは今回泣かなかった、涙は恐らくクイナに伝播する、その事態だけは避けなければならない。たとえ自分のこの橋の上での苦しみがクイナの感じるそれより大きな物だったとしてもそれに対峙し凌駕して見せねば彼女にも自分の覚悟が、熱意が伝わらないし、こちらの思う様に動いて試練を乗り越えようとはしてくれないだろう。
クリネはふと左頬に温かな物を感じた。いつの間にか右足の呪縛を逃れたクイナがしゃがみ込んでクリネを撫でてくれている、左足を今度は捕らえられたまま。ああ、彼女は強いな、と思う、世界の構造を自分の呪いの声による解説の様にちゃんと把握する事が出来なくても、それを相棒から伝えて貰う手段がなくともこうして相手に思いやりを抱いて前に進もうとしている。自分の場合は今両足が捕らえられている。きっと羽ばたくのに疲れてここに舞い戻る時毎度この地獄が待っているのだろうが、彼女と歩調を合わせ絶対に乗り越えてみせるとその温かさに包まれながら彼は思った。
もの5たり「地獄のベルトコンベアー」
こんな事でこの果てを見渡す事も出来ない橋を踏破出来るのだろうか、と言うクリネの疑念は恐らく杞憂だった。ベルトコンベアーか歩行式エスカレーターかと言った具合で足を捕らえられている間勝手に運ばれて行くので移動と言う意味合いではほぼ何もする必要が無かった。それに速度も有り得ない位速い、バランスを崩して足首をやられてしまっても可笑しくない速度だが、自ら無理に異様な態勢を取るなどしない限りはそこら辺のバランス感覚は考慮しなくても良さそうであった。声の種類には9割の荒涼たる怨嗟の中に1割だけの希望への渇望が有る。置いて行かないでだけではなく、確かに無念を晴らしてくれの声が有る。それがこのワープ擬きと言う形で彼らに提供されているのだろうか。
だがクリネの辛さの軽減にそれはあまり機能していなく、むしろ拷問めいた仕様として襲い掛かっていた。翠の声の発信源たる意識の集合体の様なこの橋を滑り行く事は意識のデリケートな部分を常時地面に擦り付けられている様な物で、足が捕らえられている間それから逃げる術は無くクリネは事有る毎に悲鳴めいた鳴き声を上げざるを得なかった。すぐ後ろを滑るクイナも態勢が許す限りは左頬を撫でようとしていたがクリネの苦悶の動作にそれを合わせるのは難しく、滑る以外ほぼ何もしないでいるのと同義な状態を続けていた。休憩タイミングとも言える強制滑走が終わる時に、クリネは次をとても耐えられないので適宜飛んで時間を稼ぐ必要が有った。だがそうすると今度はクイナの高速移動が捗らない、我慢と弱音の天秤に揺れる中でクリネは思う、ここまで軽々しく我々を扱える橋なのであれば今までの物も厳密には我々二者間における音と重力の遮断作用しかその実働きかけてはいないのではないか、その気になれば支柱無しで自らの連続した「体」を支えられる力が有るのであれば。クイナはカイナ・クイナを自覚した時点で神的な意識は有ると言っていた、自身も半分くらいはそうだ、もはや人だった時の自意識と今のそれは剥離している。だからと言ってこう言う圧倒的な上位存在にその力を顕現されると眩暈を覚える様な無力感に苛まれる。飛びながらも早く降りろ、相棒を何時まで待たせるつもりだとでも言わんばかりの重力発現に引っ張られつつそう言った現実逃避思考をする以外、クリネには何かをして自分の苦境を少しでも見ない様にする事は出来なかった。見上げるクイナの心配そうな顔を見ても心が晴れる訳が無い、むしろ逃げ続ける自分への自己嫌悪が増すばかりだ。クリネは一先ず降り立った、ここぞとばかりに橋は両足を掴んで来る。この無慈悲なベルトコンベアーに乗せられ、彼らは死地に向かうのか、天国へ向かうのか。それは神のみぞ知るだが今ここに居る瞬間は正に生き地獄としか言えない恐怖の感覚がクリネを支配していたのだった。
6のがたり「心の宝物」
クイナにはどうする事も出来ない。友人があえて何も事の核心を語らずここまでやって来たのだ、「どうしたの? 何が苦しいの?」と言う言葉を発する事は恐らく今までの彼の隠蔽の努力を無に帰する事に繋がる。何も分かってあげられないなりに彼女は想像したいがあまり考えてしまうと結局緑に染まっている彼の中の理解と染まらずに来られた自分の中の理解が合致した時が怖いのでそれも極力しない様にして来た。だが今回ばかりは相棒の苦しみ方が常軌を逸している。クイナは彼の羽根付きの髪飾りを左手に強く握りながらグロンと言う世界の邪神に祈る、刹那の期間とは言え今までここで過ごして来た上で二人に与えられていた安らかさの欠片、どうかこの橋を渡り切るまでの間はその全てまでを彼から奪わないであげて下さい、と。
またクイナはクリネが今ですら泣いていない事に気付いた。ロック調の一番星の歌で一心不乱に遊んでいて羽根に汗が付いた時にそれを涙に準えて泣き虫だと茶化してしまったのは大分状況が呑み込めていない軽率な行為だったのかも知れない。それこそクイナが理解したらその身に緑が紛れ込み兼ねないような、今の事態を超える狂気の何かにクリネは触れる機会が有ったのでは無いだろうか。そもそも緑を獲得しない事がこの世界を往く上での正解である保証は無い、がクリネはその一念に賭けている、何を隠していてもその事は十二分に伝わっている。それを無下にする気など無いクイナはただひたすらそれを尊重し自分の成すべき事をしたいと言うだけだ、見えている物が違う二者の片割れとして。
そして何時しか徐にクイナは知らず知らず、歌い出していた。鼓舞する男性ボーカル曲メインだ、力強い歌で勇気付けたかった。クリネは最初の方こそ聞く専門で留めていたが、時折緑の声などなにくそとアレンジを加えて途切れ途切れに彼女へ返答をよこした、しかも女性ボーカル的解釈での柔和なアレンジだ。どんな形であれ相棒との対話が成立した事がクイナには何より嬉しく宝物の様に思われた。魔のベルトコンベアーが足の自由を許すタイミングでまで歌ってしまうともはや何の為の励ましなのか分からない本末転倒な事になるのでそのタイミングだけは逃さない様注視しつつ、彼女はもはや限界に近い筈のクリネが時たま届けてくれるアレンジのお茶目な茶化しに負けないレベルの勇壮な歌声を届け続けた。
両者足の自由が来た。クイナのタイミング逃しへの心配をよそにクリネは透かさず上空へと翼を広げ、己の精神を休める、自分の為、愛すべき相棒クイナの為。その時にも届けてくれている伴奏はしっかりと男性ボーカルオリジナルの物だった。丁度自分が崖に辿り着くちょっと前にやっていた、鼓舞する男性ボーカル曲を音遮断タイミングで女性ボーカル曲に変えて紛れ込ませていたカオスなメドレーの時を思い出す。クリネがあえて見せず懐に抱えこんで苦しんでいる物も、こうして届けてくれる陽気さや強さの中に見え隠れしている。そう考えると別に全てをひけらかしてくれる必要などは無い。大事なのは、クリネが自分が、紆余曲折あれどこの世界において四面楚歌と言う事は無く大丈夫だ、と言う事だ。別れの時は恐らく近いが、それでも出来る限りそばに、そばに感じられる様に自分は在り続けたい。その一心が、クイナを支配する挫けない気持ちの根源だ。
は7し「光の砂時計」
何度目かのクリネの上空逃避を経て、二人は空気の壁にぶつかった感覚が有った。正確には壁と言う事は無く激突して負傷をしたと言う様な話では無いが、感覚的には今までの風を感じるかの様な有機的な橋の上での滑走には無かった新しい変化を齎す地点が確かに在った。そのぶつかる周期は段々と狭まって行き、ぶつかった後の余韻が消えないうちに次が来る様にまでなった所で二人は一瞬で視界が切り替わった事に気付く。橋の上には居るが、間違いなくここは数瞬前に自分達が居た橋の一地点ではない、滑走によるワープ擬きでは無く完全にワープが有ったのだろう。現に景色に今まで見た事も無い様な大穴が広がっている。緑の血の海を丸ごと飲んでいる大口かの様なその大穴は二人の心を奪った。それこそ歌で伴奏で励まし合うその余裕が有るどころの話では無かった、恐怖、畏敬、そう言った感覚に二人は圧倒的に飲み込まれている。クリネは思う、これは「心」なのか? いや、スケール感が我々に収まっていない、これは有機物の橋を胃腸に準えた例を取るなら正に心臓だ、緑の血の還り着く場所。大口が満杯になったならどうなるのか。物事には必ず限界が有るもので、この大口の許容範囲を超える流血の歴史が積み重なるともはやこの血塗られた試練が実施される会場すら与えられる事は無いのではないか。カイナ・クイナの屍で構築されたカイナ獏の砂遊びの場グロン。だが獏とて遊びが永遠に続く物とは思っていないだろう、クイナが流血した時舐め取った様なその鮮血は彼の体に蓄積し限界に近付く筈で、それが分かった上で彼は遊んでいる、人類の行く末を見つめている。赤を空虚な緑にその姿を変えた血だった筈の液体はこうして大口に集う事で何を成そうとしているのか。緑の海の全てが一遍に流れ込んで行かない様大口の境目にある一定の堰き止めが機能しているのを見るにある種の大きな砂時計なのか、全てが大口の下の受ける側に流れ落ちた時、人類には何が待っているのか。そんな事を考えていたらまた大きな空気の壁にぶつかる感覚があり、二人はまたワープさせられた。
二人が振り返っても大口は無い。また大口の向こう側に出たのではなく元居た場所に戻されただけだと仮定し前を見ても今の所は何も見えない。やるべき事は緑の怨嗟に耐えながら希望への渇望を受け取りワープ擬きで前に進む事だ。この世界の「心」ならぬ「真」を見た二人は何かしら燃える闘志を宿していた。あそこが、これから辿り着く場所に関係する何らかのゴールだ。クリネは今まで先も見通せない中でじっと緑の亡霊との格闘に勤しんで来たが、これからはもう少しクイナの行く末に関して案じながらその格闘で相手が繰り出す拳を去なす事が出来る様になっただろう。それこそ、9割の黒い怨念に交じる1割の光の砂の蓄積が折れそうになった彼の心を再度奮起させ昂らせ始めていた。そしてその光の蓄積の中心点にはクイナの思いやりの歌声が有った事は言うまでもない。
8なし2「アンコールとしての祝宴」
場所としてはやはり大口の反対側に出ている様だ。ここまで来るとほぼ怨嗟らしい怨嗟も確認できない様でクリネはやっと人心地がついていた。クイナはクリネが橋の上でもがき苦しんでいる期間中加速度的に野放図に広がった彼の両頬のみならぬ体にも差し掛かった緑の線を、いつものバランスに愛撫も兼ねて仕上げた後でその出来栄えを満足げに眺めていた。その後逆にクリネが彼女を見やった時には髪飾りを片方だけのストックと言う事にしてそれで優雅にスキーをする人、の動作の再現に躍起になって居る様相だった。ここぞとばかり尋ねるクリネ、<『スキー』とイえば、あのトキの”き”ってケッキョク『何』だったのかな>核心を突かれたクイナはスキーでのバランスを崩して転ぶかの様な動作をする。
「誘導尋問じゃんそれー、ブブー、ルール違反です。罰として一般人によるスキージャンプの刑、なお鳥としての飛翔アドバンテージは脚に装着するスキー板の重しにより無効になる物とする!」
羽根を外せば空想上のストックがもう一つ確保出来る事にはたと気付いたクイナが羽根を外した後でビシッと指差しをしながら決め台詞を言う。クリネはそれに乗っかり橋の滑走前半部分で苦しんでいた姿を演じてお道化て見せる。クイナ自身もスキージャンプでプロがやる物ではないが素人なりのポーズとして髪飾りともう一つ先ほど分離させた翠に染まって居ない羽根の仮想ストックを両の小脇に抱えて前傾姿勢を取っている。
「前に泣き虫って言っちゃってごめんね。クリネは本当に強い子だよ、さっき苦しんでるの見ててよく分かった」
真剣な顔を崩さず言う。崩したのはジャンプをしたと言う体で小脇に抱えた両のストック擬きを手に握り直した時だった。笑顔で髪飾りに羽根を刺して続ける。
「”き”の正解はもう少し頑張ってからにしよう。まだこの先何が待っているのか、そしてそれを乗り越えられるのか分からない様な状況だもの。それにクイナの高度飛翔と言うけじめも付いてないしね」
そう言ってクリネの左頬を抓った、恐らく意地悪なスキーと”き”を引っかけた問答の仕返しだろう。
「大体それを言うなら自分だって……いいの真相を明らかにしてないじゃんか。どっちもどっちだからね、クイナだけを一方的に余罪の追及をするのはずるっ子だよね。”可愛”くないなぁ~このこの~」
と可愛いの”可愛”を強調しながら抓りの強度を上げて来た。このまま行くと前半滑走での苦悩の二の舞なのでクリネは降参と言う事で丁度足解放タイミングだった事に合わせて上空飛翔で逃げた。
「あぁー、試練の苦悩と同じ位嫌な事しちゃったのか。ガーン、可愛くないわこれ」
と頭を抱えるモーションをすると同時に髪飾りを頭に戻した。彼女からすれば髪飾りを付け直すと言う事は橋の上での戦いよりおしゃれに意識を傾ける余裕が出て来た、と言う訳でセリフの割には喜ばしい事ではあった。この飾り付けを合図にこうして「体」の試練はほぼ幕を閉じた。クリネが上空飛翔をしたのは前回の足解放タイミングを逃してしまったので前半部分よりは薄まってはいても翠の怨嗟の心での堆さがかなり危ない所まで来ていたせいでもあったのだが、それは他己評価強い子として言わないでおいた。
「心」編「グロンウィッズの少女」
8なし3「15歳世界」
二人はそれから程なくして対岸の崖岸に辿り着く。大穴の反対側に抜けてから二人はある程度スキーの真似事などしてはしゃぐ余裕が有ったのだがそれにも元手となるエネルギーが必要で段々とその様子は消沈し、辿り着く頃には試練での疲弊も有り思いっきり地面に横たわってしまう始末だった。
「あー、疲れたねー。とにかくもお疲れさん、相棒」
とクイナは戦いの中心に居たクリネを労う。<そちらこそ>とクリネは高度飛翔のトライアルを含めたクイナの苦悩と献身を知っているので言葉を返す。
「このまま寝ちゃおうか? でも寝ちゃうと結局お腹の虫が鳴く事になるしまずはこちらの果樹園を探す方が先かな?」
クイナが果実に言及した事でクリネは対岸における新たな緑の声を聴く。ここまで辿り着いたカイナ・クイナの過少さがそうさせるのかその翠の声ももはやどこか遠く朧気なのだがそれでも何となく伝わる物は有った、こちらの果実は危険だと。見つかった所で単純にそれを平和の中で食すと言う訳には行かないのかも知れない。逆に言えば果実の有る無しに関しては心配する必要は薄そうなので助かるが、そもそも危険と言う事は橋で言う所の怨嗟の応酬に匹敵する何かが待っているのはほぼ確実で今後の煩悶の中心点はそこなのだろうな、とそう感じる。それに「技」を司る所の果実だけと格闘した所で生産性が無い、こちらの何処かに「心」に相当する何かが有る筈だ、まずはそれの当りを付けるべきだろう。あと結局の所クリネは”使徒”だ、話の核に属する存在ではない。クリネだけで偵察に行ってもクイナの血を舐め取り無かった事に出来る世界の作りからして容易に見つけられるとも限らない。対岸世界は14歳だったクイナの成長痛の極まる地、つまり橋を渡り切ったと言う儀礼的な意味込みで15歳世界なのだ。そこで(まずは果樹園だろうがそれはそうとクイナ、誕生日おめでとう、で良いのかな。今までは別れて行動する事も有ったが多分それじゃダメだ。私には君が必要で、君も恐らくそうである筈だ。君の1歳分プラスになった部分を私だと考えてくれ。私の存在など大きさで言えばその1歳分程度の物だがそれでも君にとって不可分な役割を遂げてみせるよ)と祝辞込みの決意表明をクイナに届けた。
「なるほど、確かに成長痛も止まったしクイナの年齢については頷けるね。こんな荒んだ世界でもクリネに祝って貰えるだけで何より嬉しいよ。蝋燭でもあればクリネの右頬から命の炎を貰って果実に刺してバースデーケーキだ、みたいにやりたいんだけどね。じゃあ行こうか果樹園。見るのは初めてだけど、きっと途中に川が有る。そこの誘惑をどうにかしなくちゃ」
15歳世界での二人の短い決戦の旅が始まった。
「”嫌いじゃない”よ、クリネのそう言う謙りキツい分優しいとこ」
こちらの応酬も未だ健在の様だ。
8な4「高度飛翔の成就」
クイナの川越え作戦はこうだ。崖際を進み、川の誘惑がこれ以上は危ないと言う地点からその距離を参考に半径を設定して、川の崖に流れ込むポイントを円の中心とした崖側での半円を描く様にして飛翔し川向こうに辿り着く。こうすれば上手く行った場合地面に激突する事を避けつつゴールを迎える事が出来る筈だ。
「クリネもある程度あの大口を見た後は橋の上で余裕が有りそうだったじゃない? 何と言うか、前に居た崖向こうの一帯より重力に祝福されている感じは受けるよ。大丈夫、今までだって全てどうにかなった」
クリネも頷く。それとは伝えられないがクリネの頭に反響する種類の言葉も昔よりは大分穏やかだ。それがここまで来てくれたねありがとうと言う祝福と呼べる物なのか遂にここまで来てしまったかと言う諦念なのかはクリネには判然としないがそれでもクイナが祝福と言う言葉を咄嗟に出す感性は微笑ましかった。彼女は彼女なりのアンテナでこの世界を感じ取っているのだ。
川にはすぐ辿り着いた。川と言うより小川か。ちょぼちょぼと崖に弱弱しく滝とも呼べない下方への水流を形成している。もうここで流血したカイナ・クイナは数える程しか居ないのだろう。しかし割合と言う事で言うときっと九分九厘上手く行かず死んでいる。供養の意味込みでクイナの作戦は是非成就させたい物だ。クリネもクリネで誘惑に打ち勝つ抗体が有る訳では無いので自身の逃避的飛翔を行い向こう側で待つ事にした。
クリネが向こう側に辿り着いたのを合図にクイナも自身の人としての恐らく最後の大飛翔を敢行する。大体川までの距離、15m。前に走り出してクリネに止めて貰った時より大分近い。近付けると言う事は誘惑する力も川の横幅に応じて弱まっていると言う事か。半径の規模がこじんまりとして居なければ現実的では無いのでこれは随分と好都合だ。その目的の都合上別にこないだの崖際で行った高さ方面での10mトライアルの様に高さ自体は求められては居ないがどの道重力発現を相手取れば英字のW軌道を辿る事になるのでクイナはある程度の高さ、つまり地面と同程度の位置をキープ出来るバランスは維持しようとしていた。最初の重力発現、彼女は見る見る落下して行く。だが落ち着き払ってそれを凌ぐ。中心角で言う45°まで来た、残り4分の3。重力遮断が帰って来た時、彼女は上昇しながらクリネにピースサインをしてみせた。何かを企んでいる様だ。残り半分、つまり崖が無ければ川が続いている筈の丁度その先にクイナが来た時、彼女は進むのを止め上昇のみに主眼を置いた動きを始めた。一度二度と重力発現でそれがリセットされても諦めず、地面から遂に10mのポイントまで来た時に、
「スキー!」
と叫び体で大の字を作る。高度飛翔、その悲願成就の瞬間であった。
8なし5「君が好き」
複雑怪奇なW軌道の半円描きが有った後、クイナは川の反対側に見事着地した。滝の小さなさざめきが少数オーディエンスの拍手かの様に静かに響いている。
「の、ジャンプ!」
と叫んだ後クイナは一目散にクリネの方に走って行き一度抱き枕にした時より激しく、痛覚に作用するレベルで彼を抱き締めた。大量の脂汗を掻いている、むしろ高度飛翔の最初のトライアルの時よりも酷い。事の最中は落ち着いていた様に見えてそれだけ彼女なりに消耗したと言う事だ。
「ハアハア……一世一代の見せ場での絶唱、あれが”き”の答えだよ……次はクリネの番だからね。とりあえず”……’いい’”女にはなったよね、クリネの沈黙部分に期待しているよ……ハアハア」
飽くまでストレートにはやらなかった事が彼女らしい、それでもクリネとしても文句の付け所も無い。……いい、に関しクリネにはクリネなりのやり方を考えてはあった。だが今のクイナの美しい高度飛翔に比肩する自分の大一番はまだ来ていないと感じていたので急いで動く事は無いと判断していた。勿論命を落としては元も子も無いのだが、まだやれる、と言う意味でも自身の試練へ向かう動機の火付け役として沈黙部分にはまだ謎めいていて貰う事にしよう。<マカせておいてくれいいオンナ『人類代表』>よしよしと抱き締め返すには小さな翼で彼女を撫で続けながらそうクリネは思いを新たにしつつ返事をした。
「あはは、葉っぱだけで花が無い。なんだか不思議な果樹園だね、果実の為だけに有るみたい。時間が止まっていると言うか…下が嚙み切れない堅い皮なのは落下時のショック軽減に特化か、割と重量有る実だからなあ。一個お手玉の時にガードの強い部分が下に来る様意識するのは暗かったから無理だったけど」
すっかり落ち着きを取り戻したクイナと共に川向こうに鎮座していた果樹園に辿り着く。果実の数は決して少なくは無い、逆に崖に程近いここにしかもはや果樹園自体が無いのかも知れない。最後、をひしひしと感じさせる光景にクリネは目が覚める思いだ。何が危険なのか、は正直今以って分かる話では無い。元々翠の声は核心に触れる様な事は言わずヒント段階に留まる答えをよこす事が多いがそれが朧気で遠い今となってはよりその傾向が顕著だ。
警戒はしていた、だが14歳世界同様に事を成したイコール果実を一つ落とした今となってはクリネにはその覚悟が足りていたのか分からない。クイナの言う祝福は実際そうなのかも知れない、恐らく重力や音遮断は平常時比較すれば柔和なバランスに留まっている。だが「体」と並ぶ「技」のそれとしての負の存在感に当たる要素はこの15歳世界でやっと姿を現した。凝縮された怨嗟がこの果実に詰まっている、心無しか模様に白妙より赤黒さが増している様に見えるこの果実に。クリネは怨嗟の檻に閉じ込められるまでの死の宣告に囚われた。果実を落とした事で発生したのは平たく言えば死の瞬間の怨嗟だ、マンドラゴラと言う幻想の植物が有るがそれが抜かれた瞬間抜いた生命を死に至らしめると言う悲鳴に性質が近いと言えそうな趣がそこにはあった。私達だけでは無い、お前も連れて行く。かつては二人同様何かの高みを志していたかも知れない先達の名残としての「技」である15歳世界の果実は、何の罪かただただ存在し続けると言う長き月日の間にその味わいと言う部分以前に腐敗し切っていたのだった。
8なし6「君は可愛い」
……いいに込めたる想いの半分は今渡す、もう半分はもし渡せなくても構わない。それはそれでこの世界に敗北したと言う事だ、冥土の土産にするのも一興だろう。それでも「心」の発見に伴って絶対に届ける所まで行ってみせる。込めた、とは言っても後々の出来事に準えた後付けでは有るがそれなりに彼女の届けてくれた絶唱に並ぶ位の自信は有った。後はその想いごと世界の残された謎に体当たりでぶつかると言うだけの事だ。
「クイナ、君は可愛い」
その時クイナには脳伝達を超えたれっきとした発声が耳に届いた様な幻覚めいた物が生じていた。その時とはクリネが二つ目の果実を切り落とした時の事だ。それを最後に頭の中でクリネとの繋がりに関しての何かが捻じ切れショートした様な感覚が有り、そのショックでクイナはしゃがみ込んでしまった。独り、孤独、暗がり、暗澹。勿論クリネ自体は居る、独りである筈がない。だが今まで通常では考え得ない様な精神の温かな繋がりが有った心にはそう言った伽藍洞としての心象風景が入り込んだ。今までのクイナの緊張の糸として存在していたかの様なその絆とも呼べそうな共有感覚はクリネの中にもかつて有って、そして今は無い。一個目を落とした後のクリネが最悪の事態として予期した通り、脳伝達の機能は役目を終えたのだ。「技」として自分が格闘するであろう方の一個目で留めておけば良かったか、いやそれをどうするかで揉めている時間などは無い。多分クイナが食べる事自体は極力止めなくてはならないだけの不穏さはあるがそれでもこれからの旅程で果実を持たずに行けば消耗している彼女の精神衛生上良くない展開になるのは目に見えている。今まで緑の声に纏わる物を届かせまいとして来たクリネの苦渋の独断だった。
暫くしてクイナはまた野放図に広がった左頬の緑の線を治癒しようと動いたがそれをクリネに突いて咎められた時、彼女は潔く諦めた。何しろもしかしてクリネの知性の方にも何か問題が生じたのではと言う悲しい疑いが有ったので、そのクリネが諫める為に知性を発揮して動いた事でしゃがみ込むだけではなくなる程度にはクイナのメンタルにとってのいい風が吹いた。クイナの治癒は己の血を代償とした補填行為である、それは施術をする側のクイナが一番よく分かって居たのでクリネの意志は尊重したい、もうそんな左頬の愛らしさ確保などと遊び人をやって居られる時間や立場は、終わったのだ。
87し「浮遊する涙」
「ん…クリネ…?」
じっとそばで嘴に果実を持ってクイナを見つめるクリネ。よく見ればもう一方の果実を踏み台にしている。いつの間にか二つの果実を転がしてかこの状況を作り出した様だ。彼女は喋らなくなった相棒の意図を理解する。これはつまり、間接キスの果実かそうでない方かの選択権を寄越していると言う事だ。彼女は逡巡の後、嘴の果実を指差した。これが最後かも知れないとなると随分と間接キス側の果実確保を温存したものだなと可笑しくなってクイナは乾いた笑いを零す。どうあれ笑顔を取り戻したクイナを見るにつけ、クリネも嬉しさで飛ばないまでも翼を広げる仕草を見せた。ボディーランゲージとまで派手な演出は出来ないが、その仕草は言葉を失った彼にとって出来る最大の感情表現の一つとしてのそれだった。
言葉を失った、は或る意味過大表現ではあった。繰り返しになるが知性の欠落は無い、ただ翠の声に脳を以前よりも支配され対外的な発声機能の脳伝達力が途絶えてしまったとそう言う話だ。左頬の愛らしさ確保は何も遊びと言う側面だけでは無かった、あれによって脳伝達に必要だった絶妙なバランスが維持されて来た。今となっては橋の上でも見なかったレベルで上半身のほぼ全てに緑の太い線が入っている彼はその姿に見合うだけの、自己の声含む内向きの緑の声の数々にひたすら向き合う聲の牢獄生活に入ったと言う事だ。それでもクイナの届ける言葉への理解力は健在で、集中力を外に向けるのが困難になる次の段階に至るまでクリネには相棒として、使徒としての資質が残っているし実際本人も役目を務めるのに吝かでは無かった。
早速のお務めとして何が起こるか示す為間髪入れず爪痕の有る果実を食べた、所謂毒味だ。深まる翠の声の縛鎖。苦しさが、ヒビとしての体の一線の支配領域が加速し自然と涙がクリネの瞳から零れる。それは透明で簡単には乾かない不思議な涙だった。透明な液体、それが存続する──これは実の所この閉鎖世界においては多分に異常現象で、結局クイナが足を折り流血し泣いた時もクリネが処刑の光景を夢見でなのか見て泣いた時も血や涙は即刻乾いた、要するにこの世界は赤い血だろうと透明な涙だろうと緑である液体以外は速攻で存在否定され蒸発してしまう、蒸発と言うか、恐らく翠の水の構成要員として連れ去られるのだろう。だがこの涙はどうか、存続はおろか浮き始めた、そしてふわふわと意志を持つかの様に果樹園の外へ旅立とうとしている。この事態を予期していなかったクリネは見失いたくない一心でクイナを置いて追いかけて行ってしまった。慌ててクイナも後を追い走り出す。二者ともそれぞれのやり方で、クリネは足、クイナは左手に果実を携えながら。瞬間的にはクリネが容易かった筈の嘴を使うのを保留としたのは、遂に間接キスの壁を取っ払って受け取ってくれたクイナへの感謝の念からだった。クイナにも基本的には右手は相棒の為に空けて置くものと言う意識がある。咄嗟に出た行動にも二様の思慮は見え隠れしていた。そしてこの世界における可憐な一輪の花としてのクイナが花として本来在るべき果樹園に初めて滞在した期間は皮肉にも10分と無く、また果樹園には時の停滞した様な異質なマンドラゴラ果実を育む為だけに在ると言う殺風景さが蘇ったのだった。
8無し7.2「鳥使徒の戦い」
浮遊する涙、それはクリネ自身の涙と言うより果実に込められた先達の無念の想いが形になった凝縮体で、クリネの肉体はある種その表出の為の媒介に過ぎなかった。止まらぬ涙の進行、勢い込んでそれを追う道を選択したクリネだったが上空での蜘蛛の巣張り振りが軽くなっているのは追い風にしても緑の支配が危ういレベルで強まっていて体の自由な行使にまで悪影響が出始めている現状トータルで見れば相当そのレースは不利だった。見失うとどうなるのかは分からないし涙が何処を目指しているのかも不明だが少なくとも今出来る事はこのレースを完遂する事だろう。もし次が有る様なら、つまり今の涙を追うのが終わって次を発生させる為クリネが果実をまた啄まなくてはならない様なら後は緑の縛鎖に囚われておらず比較的健康体なクイナ頼みとするしかない。自分が飛ぶのもこれが最後なのか、脳伝達と言う温かな声色や愉快な伴奏に続き、自由の翼までが失われようとしているのか。クリネは必死で飛翔しながら健康だった日々のこの世界での自身の活躍を走馬燈の様に振り返っていた。
クリネは物理的にも振り返りやや遅れて後方に居るクイナへ足に掴む果実を揺らして見せながらアイコンタクトを送る。それは果実の運搬を頼む、と言う意味であった。クリネは自身の全力を出さなければこの涙の進行速度に追い付けないのが段々見えて来た。そもそもが満身創痍、これでこのレースを戦い抜くに当たって果実と言う足枷は邪魔物以外の何物でもない。重力遮断と発現の間で障害物走かの様に苦慮しつつ疾走するクイナが確かに二度三度と頷いたのを目認すると、クリネはやや低空軌道を取り果実をリリースする。暫くして果実の投下地点に追い着いたクイナがそれを拾い上げたのを見ると、クリネは振り返るのを辞め、ただ前のみを見据える。涙は離れて行っている。クリネは速度を上げる。体にギシギシと軋む様な痛みが走る。雄叫びとも悲鳴とも取れる鳴き声を上げながら、クリネは自身の可能な限りの速度で黒と緑の弾丸となって涙の軌跡をトレースしている。あと20m、あと10m。そしてあと5mまで来た所でクリネは判断ミスに気付く、低空軌道からのリカバリーを怠っていた。重力発現の悪戯が有った時、クリネは地面に激突はしないまでも受け身を完全には取れないままで飛行を強制停止せざるを得なくなった。顔を軽く擦る様な形でクリネは地面に崩れ落ち、後方のクイナが走るのを辞め悲鳴を上げたのが分かった。それでもクリネは涙の行く末の確認を怠らなかった。ここまで追えた事には意味が有る筈だ、そうであってくれ。頼む、グロンと言う邪なる世界の非条理よ、道理の欠片が残っているのならそれを今有りっ丈分けてくれ。
涙は、間もなく消えた。クリネの倒れ込んだポイントから目測で20m地点か。それでいい、クリネは次に呪いの果実を啄むべき地点が知りたかっただけだ。その後の涙との格闘の具合は分からない、後は野となれ山となれ。曲がりなりにも疾く往ける鳥使徒としてのクリネの献身は、今ここにボロボロになりながらも永き旅路の果てに完成した。
8無し7.4「癒し手クイナ」
果樹園でクリネが左頬を癒す事を咎めたのを覚えていたクイナは倒れ込んでいる彼を拾い上げた時、自身が今後緑の浸食が止まらない彼に対し継続的に癒しを行使する事になった際最小限の流血で済む様に、彼が丸めて翼と足を収めている体の下腹部のみを右手で支える事にした。左手には両方の果実をまとめて抱えている。まだ現時点では下腹部までは緑の線は来ていないが、もうクリネの体で線が入って居ない部分を探す方が難しい。それにクリネの体重を身を以って感じたのはこれが初めてだったがなんと言う軽さだろうか。こんな小さな体で精一杯の頑張りを届けてくれた相棒に頭が下がる想いだ。
そしてクイナはクリネの視線誘導のままに涙とのレースが終着した地点に向かうが、涙が空中で消えたポイントの真下の地面には雨粒がまとまって一箇所に落ちた様な水の円模様が出来ていた。だがクリネが見届けた感じ涙は落下でなく消えていた、一部がここに目印を残したのだとしてもその全体は秘匿されている何処かへ消えたのではないだろうか、丁度クイナの流した血が消滅し緑の川の礎となったであろう時の様に。クリネがずっと気になっているのはこの世界における透明な液体の欠落だ、緑の汚染水と対を成す所の純粋で透明な液体は一体何処に隠れて集っているのだろう。まだ「心」と言う物の感知はクリネの精神的アンテナには来ていないが、その正体については緑の汚染水と表裏一体であろうとは予測していた。代償を払ったとは言えクリネが涙の、それもクリネやクイナが14歳世界で流したそれが取らなかった挙動として辿った高速の軌跡を逃すまいと執念で追ったのはそんな長らくの発想に基づいての行動だったので無理からぬ事ではあった。
ここに来てクリネはかつての14歳世界を憶う。クイナの血が、クリネを拾い上げた時便宜上触れてしまい緑の線を癒す事となったその代償としての流血の跡が、現地点から20m離れている彼の不時着地点には残っていた。あちらの世界でもやろうと思えば果樹園の向こう側でなら癒し手の血が地面に残った、と言う事では無いだろうか。つまり、クイナ落下時の獏による血の舐め取りと恐らくイコールである所の体内血流の復活が発生せず即死以外の手段で比較的楽に死ねる。この試練で使徒と亜神が置かれていて然るべき中心地点から抜け出ると段々と重力遮断に代表される夢か魔法の様な物理現象上の異常の影響半径が薄くなって行くと言う事か。であれば、状況はかなり良くない。クイナは今後癒しをクリネに施しつつ地面にも回収されない血を流出させる事になるだろう。橋の上での試練がクリネ主眼の物だったとすればこちらは正に試練の主格たるクイナの在り方が追及されている。クリネがクイナに触れない様にするのは今からでもなんとかはなる、クイナの持ち歩く果実を二者の緩衝材かの様に扱い、彼女が支え持つその上でクリネが彼女に触れる事の無い様静止していればいい。ただ緑に染まらない部分が無いとクリネは近く絶命する、常から一心不乱に勝手な事を語りこちらだよこちらがいいよと呼び掛けている緑の声の世界に魂ごと連れ去られて行ってしまう。だから今の状態は最適解かつ逃れ得ぬ最悪の事態と言えた。苦否、彼女の癒し手としての苦を否むと言う側面は今重要局面でその真価を問われていた。
8無し7.6「透明な想い」
14歳世界の果実に何も先達の想いが籠って居ないのか、と言う話は実際そうではない。むしろ緑に染まっているクリネにも緑に染まって居ないクイナにも等しく食の癒しを与えられていたそれは属性的には透明な液体側の、エコーの科学が発展しない時代から脈々と受け継がれて来たほぼ緑の声を知らない死者の蓄積だった。
クイナは今ひどく悲しい心境に在った。相棒も喋られない挙句苦しい状況で、追い掛けた涙の行方も分からず彷徨う事しか出来ない。川を自身の編み出した作戦で決死の想いで乗り越えた結果がこれでは浮かばれない。クイナには今出来て以前では出来なかった事がある、自身の血を長時間見る事だ。クリネの浸食防止で流れ出る血を見続けると死を否応にも実感せざるを得ない。恐怖、諦念。自分はここまで来ておいて結局選ばれた回のカイナ・クイナでは無いのか…。
血は地面に落ちた瞬間、不純物交じりの液体と化す。仮に水分を弾く種類の地面だったとしてその後体内に戻ったとしても人体を支える血の巡りの中に入る事はもうない、むしろ健康を酷く損なう。それは或る種空気に触れても不純さは一緒だ。だからこそ血はデリケートで扱いは慎重にならなければならない。浮遊していた透明な涙と並ぶ純粋さを誇る血、そのこの世界における在り様…。
涙はクリネの落下とほぼ時同じくして消えた。涙は何処かへ向かっていたのでは無く、クリネの限界を引き出す亡霊でしか無かったのでは無いか。つまり、あの円模様の位置には然程重要な意味がない、たまたまあそこになった。自身が亜神、この世界の化身だとすれば、重要なのはむしろクリネそのものだ。クリネは今限界まで緑に染まっている、多分15歳世界の果実を啄みなどすれば即座にこの世界から命の灯を失い去る事になる。朦朧とした意識の中しきりに果実を啄もうとする手の内のクリネをクイナは何度止めただろう。クイナは思い立ち、クリネが落下した地点こそ目的地だったと言う仮説を実証すべく当て所無く彷徨っていた場所から戻る。当初ただの血だまりだった様に思われたが、今となっては赤土、と言っていい様な円模様がそこにはあった。この世界で初の、クイナの血が地面と交わりかつ停滞しそのステータスを維持している部分。ならばあの涙側の円模様はこれの影だ。あそこに混ぜるべきは、15歳世界の果実の苦みを知る前の美しく壮健だった頃のクリネの、緑。閃いたクイナは涙の円模様にゆっくりと近付く。果実とクリネを優しく置いた後ポケットから羽根を二枚取り出し、その上下に付いた緑色を確認する。これを癒したら終わりだ…扱いは慎重に、デリケートに。そして火に薪をくべるかの様に二枚で互い違いになって居る羽根の緑側の方を円模様に付着させた。大部分の14歳世界の先達の涙、そして少数の15歳世界の先達の涙、その両者が実りを迎える刻は今ここに来た。
8無し7.8「思い出の一番星」
涙の円模様は緑の煌びやかな輝きを宿す。赤土に見えた方も煌めき出している。そして二つの円模様の間に現れたのは巨大な泡だった。人が一人すっぽりと収まりそうなそれが空中に揺蕩っている。クリネの探し求めた「心」。そしてこれが、これこそが
「…界泣だ」
とグロンの名付け親クイナは名を思い付いた。この世界に降り立ち泣く泣くステージから降りる事を余儀無くされた数々のカイナ・クイナ達の遺した結実。それを今、二人は勝ち取り目の当たりにしている。透かさずクイナはクリネの方を振り返る。クリネももう譫言の様にやっていた果実を啄もうと言う病的な仕草から離れた様で、満足げに座りながら界泣を見つめている。
「左頬、治してもいいかな?」
おずおずとクイナが聞くとクリネは頷いた。その先の事、自身の身の危険を省みず喋られるレベルまで回復を図ってもいいか、と言う所までは踏み込めなかった。クリネは先だって赤土の輝きの近くに座る為よろよろと歩いて近付いていた。多分、彼には界泣と言う涙の船に同乗する意図は無い。別れの地、畢生の閉じ処としてそこを選択し座っている。愛する友の覚悟を見透かしたクイナにはそんな無神経な一言は持てなかった、飽くまで彼の譲歩を引き出すのみだ。
クイナはクリネの近くに座り、そっと左頬を癒す。輝く赤土に新たな火種として新鮮な血が入り込み、火焔としての輝きの度合いは一層煌びやかさが増した。二人のそばで輝くそれは、まるで歌で描いたあの一番星の様だ。クイナは平和な愛らしさを取り戻した左頬を愛おしげに撫でながら、クリネが紡ぐ事の出来なくなった一番星の歌のそのジャズ伴奏アレンジ部分のメロディーを覚えている限り口笛で代わりに歌う。クイナ曰くのノーケストラの最終楽章、二人の間を静かな優しい時間が流れている。
「聞いてクリネ、界泣に続いてもう一つ名前を思い付いたんだ。ここはグロンウィッズ。現実ではとても実現出来ない事を成す魔法使いだった二人の共に生きた、経験の富に満ちた広大な世界」
グロン・ウィッズ。共に-with-、富-wisdom-、広大さ-width-、そして魔法使い-wizard-…一見響きを合わせただけのただの言葉のおもちゃ箱であるが、これはグロンと言う呪詛に打ち克つ為に並べた彼女なりの五芒星だった。ウィッズ絡みの単語としてはその実四つだが、withはクイナ、クリネの両者に付随する物として彼女の中で重複カウントしている。五芒星を土に描くクイナ。だがそれに付け加えて描いたのは星のてっぺんに飾るwithの頭文字wの二つだけだった。ww、と文字同士で手を繋ぐかの様な踊っているかの様な楽しげな筆致で描かれている。後は賢いクリネならば自分と別れた後でこの程度の軽いクイズの答えは出してしまうだろう。クイナなりの最後のプレゼントだ。
そしてクリネも何か嘴で文字を書き始めた。いが二つ、いい。そして遠くの方を向いた。その方向は、クイナが大飛翔で乗り越えた因縁の川の方だ。クリネも皆までは言わなかったが、クイナは真意を理解した。川いい。二度目の可愛いと言う事であるのと当時に、14歳、15歳両世界における川での光景、写真に収めたくなった様なあの二人の時間と君の晴れ舞台である高度飛翔は良かったねと言う旅の要所の振り返り文言であり、弱り切っている筈のクリネの渾身のラブレターだった。
クイナはたまらず涙を落とすと、それがクリネの目にたまたま入った。知らなかった、涙も治療になるのだ。そう言えば一番最初に痛いの痛いの飛んでいけをしていた時以外、緑の支配を介してしか彼女の顔を見る機会は無かった。一瞬だがその支配を抜けて見る事が出来たクイナの切なげな笑顔、健康的で愛らしい顔をしている。多分、自分は彼女の笑顔を緑から守護出来たのだろう、とクリネは感慨に浸る。
クイナ自身食事もせずずっと来ていた上とてもじゃないがあの魔の果実を食べて自身の緑からの純潔を守れるとも思えないのでもはや時間が無い事は分かっていた。こうしてクリネとの親交を育んでいても何処かふらふらして来ていた、回収されずにいる血も大分流し過ぎてしまった。後ろ髪引かれる思いでは有るが自分には自分の役目がある、クリネもきっと背中を押す為によろける身体でラブレターを寄越したのだろう。羽根のお守りを二枚、元の持ち主に返す。間接キスの果実の上に元緑の根元が有った羽根イコール自分の羽根、クリネが涙と格闘する切っ掛けとなった食いかけの果実の上に元緑の羽先があった羽根イコールクリネの羽根を置く。見分けはもう付かないが自分とクリネの依り代だった物だ、クイナはちゃんとどちらがどちらかを覚えていた。自分が界泣に携えるのは、旅の間ずっと美しい黒をキープしていた羽根と髪飾りのみ。
遂にクイナは界泣に乗り込んだ。どこにそんな重量を支える力が有るのか界泣は乗り込んでもびくともせずに静止している、支柱が無かった橋と同じで魔法じみていて可笑しくなる。クイナは髪飾りと羽根でストック擬きをまた作り、界泣の内側で座り込みながらスキーで滑る仕草をしてみせる。好きだよ、大好きだよ。クイナは界泣がまだ自分を取り込んで完全な閉じた球を構成していなかったので思わず降りてしまった。間接キスでは足りない、そもそも果実は齧ってすらいない。まずクリネが寄越してくれた未だ何処も齧られていない果実に口付ける。そして次にクリネがラブレターを認めた嘴にしゃがみ込んで口付ける。クリネは段々とひたすら二回目の啄みをしようと試み続けていた頃に精神状態が傾きつつあったのだが、自分が遂にキスされたと言う事実で驚きと共に小覚醒した。一瞬丸めた体から開かれる翼。クリネの脳裏では、喜びで天を旋回する自身の姿が有った事だろう。
再び界泣に戻るクイナ。戻った時涙がまた流れ落ちたのだがその涙を決定打として取り込んだのを合図に界泣はクイナを完全に取り込み急発進した。振り返った時もう既にクリネの座っている場所はかなり遠くになってしまっていた。
「好きー!」
とそこで絶叫したがクリネの所まで届いたのだろうか。クイナは何処に向かっているのか知っている、あの大穴だ。あそこまで思わせぶりな存在が何もこの旅路に干渉しない筈が無い。ここでお腹の虫が鳴る。自分のエネルギーももはや尽き掛けている。決意を湛えた凛とした顔で羽根を刺した髪飾りを改めて装着する。クリネに貰ったまたとないカイナ・クイナとしての最後の大舞台。これを達成せずには、クリネに顔向けは出来ない。
8なし「グロンウィッズの……」
クリネはクイナが去ったのを見届けた後、五芒星の各頂点のwwが既に描かれているてっぺん以外にwを嘴で書き足した。中でも右上の頂点には15歳世界の川での健闘を讃える大文字での六つ目のWが来た。特にWの真ん中が飛び出ているのは高度飛翔の表現だ。それが五芒星から右にやや離れて書かれているいいと言う文字と連なっている。wwの絵の様に二人が連れ添って眺めた光の川も良かったし、Wとしての高度飛翔もクリネにとっては見事な、魔法使いが空を舞うのを見る様な出来事だったと言う感想文だ。クリネは眠りに就く。もう彼の瞳にこの世界で映すべき事象など残ってはいない。後は脳裏にクイナの活躍を思い描いて応援する事位なものだ。クイナが吹いてくれた口笛でのジャズ伴奏アレンジの再現、他人に聞かされると何処か即興なので自作としての拙さが目に付いた。が、そんな幼さも今は子守歌として心地が良い。それをひたすら脳内で反芻させながら、穏やかな微睡みに身を任せる。微睡世界で真に安らいで微睡めたのはクリネも初めてだったし、もしかするとエコーの過去の亜神使徒全て引っくるめて見てもそれは最初の出来事だったのかも知れなかった。
クリネは可笑しさに気付く。もう役目の全てが終わったと言えるのだから迎えが来てもいい筈なのに何も起こらない。まるで次のイベントが開始する事が約束されている様な不思議な安寧が場を支配している。そして人影。人影? 次代のカイナ・クイナか? 死地としての色合いが強いと言っていいここは引継ぎ作業などと事務的な打ち合わせが有る様な滑稽な空間だったのだろうか。そして人影は声を掛けて来た。
「おはようグロンウィッズの少年、もといクリネ。だなんてちょっと気障ったらしい挨拶になっちゃったかな。迎えに来たよ、14年経った今」
情報量がかなり多い。クリネははっきり言って睡魔には襲われていたがまだ意識の遮断とまで行っていた記憶が無い。それに経ったとは言っても体感せいぜい一時間程度だ。だがそもそも成長痛の在り方からしてこの世界と現世の繋がり方はよく分からない部分がある。この場所は時を超える。カイナ・クイナ入れ替わりの一時間と言う14年も有り得ると言う事なのか…。
それにこの人物。性別はどちらなのか、クイナの面影は何処となく有るが彼女それ自体ではない、別人的な雰囲気は絶対的に感じる。クリネは警戒を解かない様に話しかけた。
「すまない君は誰なんだ? クイナと言う相棒が世界の中心に旅立ったのは見届けたのだがそこから今の状況への整合性が分からないんだ」
クリネは流暢な自身の脳伝達に驚く。脳伝達である事は確かなのだがあの長文読解に向かないとでも言うか、そう言う伝達上の齟齬の生まれ易い舌足らず感が無くなっている。いや、驚くのはそこばかりではない。何時自分は健康体に帰って来たのだ? 気付けば今までの刺す様な緑の声の圧迫感は消え、主従で言う上下関係が反転しているかの様だ。目の前の人物が笑って答える。
「あはは、クリネ結局緑交じりのままでそんな脳伝達が出来る様になっちゃったんだ。素直に嬉しいよ、私がここに居た時は見てられない位苦しそうでこっちまで胸が痛かったから。
今の状況までの事は説明出来る部分とそうじゃない部分があるかな。端的に言って、私は受精卵に還ったんだと思う。界泣に乗って大穴に入って行ったんだけど、緑の水が意志を持つかの様に涙の泡の壁を破壊しようとしているのが分かって。で私はぶつかって来る緑の水に対抗すべく殴ったり髪飾りを投げてぶつけたりしてたんだけどその内それらに意味が有るのかも分からないまま眠くなっちゃって。しょうがないよね、不穏だった果実は置いて来ちゃってエネルギーなんて残ってなかったんだから。でクイナとしての自覚が芽生えたのが5歳の誕生日だったかな? そこまでの事は説明しようがない、私であって私ではない幼い魂が親の導きの元平和に暮らしていたと言う位で、特に言及する気も無いかな。目覚めた後は怖かったな~、闇の国に連れ去られて人体実験されちゃう~なんて思いながら裏世界グロンウィッズを知っていると言うステータスをひた隠しにして生きていたから。で14歳になるまでにそんな心の内を打ち明けない臆病者では親友らしい親友も出来ないまま、私は死んでしまった」
親友はクリネだからね、とここでクリネは軽くデコピンされてしまう。クイナの方からあんな情緒的な事をしでかしたのがものの一時間前なのに14年の月日がそうさせるのか物凄い心理面の隔絶を感じずにはいられない。こんな空回りの心境が寂しいと言うか、そんな相変わらずのらしさが気持ちいいと言うか。
「死ぬ必要性については考えていたんだ、次代が空席のままなのはこの世界と感覚的に繋がっている者としての確信が有ったから。だけど自殺じゃ多分クリネにもう一度会う事は叶わないんだろうなと思ってね。じっと迎えを待ってたってわけ。どう死んだかは分からない、多分そんな物抱えて心が壊れず生きて行ける人なんていないからそれでいいんだと思う。で私は再度転生しましたとそんな話。しかも15歳世界だよねここ、スタート地点がここなんだなあ。まあそうじゃなきゃクリネに会えないから良かったけどね」
もう警戒はしていない、友人であると言われて気を良くしたのも有るし目の前の人物がクイナ彼女そのものではない理由についても合点が行った。だがどうしても聞いておきたい事が有る。
「詳しい説明をありがとう、生まれ変わった相棒。ところで君は、女性なのかい? 男性なのかい?」
目を丸くする元クイナ。
「あー考えた事も無かったよ。そもそもあっちで5歳で覚醒した時女の子だったんだ私。クリネ言ってたもんね、カイナ・クイナには異性としての転生が有り、その使徒には人から動物としての転生が有るって。じゃ私は今男の子、なのかな?」
と巫女服に覆われた自身の肉体を探る。いや、巫女服と呼ぶにはデザインが中性的な物に切り替わっているなとクリネは率直に思った。そして元クイナは首を傾げた。
「あれ不思議だ、触っても分からない。体は女性なんだけど男だと思って考えると女の自意識に辿り着くし女だと思って見るとその逆になる。なんだろこれ、亜神からもっと神寄りになっちゃったのかな?」
クリネも失礼ながらまじまじと下半身だけでなく身体の全体の特徴を見て掴もうとするが容姿は完全に女性だ、だが元クイナの言い分も分かる、受ける印象が100%の女性ではない、両性具有と言えば良いか。ここの作りが夢世界と言う事もあってかなるほど確定的にどうとは言えなさそうだった。
「ごめんね訳分かってなくて。でも核という圧倒的存在が居なければ私自身こう歪な事にはならない。私思うんだ、この世界は本来有ってはいけない空間だって、こんな緑の血の薄気味悪い貯蔵池などと。でもそれでもこの世界が有ると言うのはチャンスでもある、と言うのもこの世界は現世の為の伽藍洞世界なんだ、ifの世界を可能にする。私はカイナ・クイナで世界で初めて現世に還った人間、そしてその後殺される事も無く回帰まで果たした。核を否むか、はたまたそれを更に否むか。私は否む方を選択しようと思う、つまりこの緑の血、人々のもっとこう生きたかったああ生きたかったって願いの巨大な海を使って核もエコーの科学も無い世界に一度リセットを掛けてみる。ついて来てくれるよね、次の旅にも。クリネ?」
そう言って元クイナはしゃがみ込み左頬と右頬両方を触って来る。もう癒しは働かない、多分緑を従えたのはクリネではない、世界のルールそのものとなった元クイナが緑とクリネが共存出来る様にそう”願った”のだ。
そのルールメーカーである元クイナが軽く触れた更に否むとは、つまり核の否定もしないが肯定もしない、か。核の事でSFチックな考えだがクリネは一度考えてみた事が有った。時間停止、繰り返しの世界。核を持てば早晩種として存続が危ぶまれる人類が核と共存する道は一つにそれだ。そうすれば恒久的に科学の叡智の恩恵を授かりながら人類は偽りの平穏に身を浸す事が出来る。もしそんな夢物語が実現すると言う事で有れば。この辺は追々元クイナも話してくれる筈だ、何せ健康体になった自分にも元クイナにも時間だけはたっぷり有りそうだ。元クイナは続ける。
「そうすればきっと一度きりのチャンスとしてのグロンウィッズも消滅する、でもクリネが言ってくれた様に人類代表だもん、やれる事はやるよ。リセットすればまた人類は核滅亡の道へ行かない為にはどこへ行けば、どうすればいいのだろうと悩み進む事になる。彷徨いの徊に疑問の奈。徊奈、これを今後の私の名前として動くよ。クイナとしての私はもう十分生きたし。さあまずは14歳世界、その後はその更に遡った原初世界だ、行こうか相棒!」
パンパンと自身とクリネの頬両方に景気付けのビンタをしながら立ち上がるカイナ。翠除けとしてクイナの名を薦めた立場上元クイナがカイナの名を選んだ事にはクリネは驚きを禁じ得なかった。そうか、グロンウィッズまたの名を腕、その束縛し微睡みを強要して来る腕枕の禍々しさとは言い換えれば避けて通れぬ本質であり、それを敢えて被る事で拓ける未来もまたあると、今や緑の海の持つ力をある程度思いのままに出来る視点からのそう言う宣言か。そんな緑の使い手として在っても内なる緑の声についての言及が無いのを見るに、その緑から一線を画している神寄りの亜神としての自我の在り様は前世での徹底した翠除けによって確立された、でいいのか。翠まみれの邪神寄りの亜神も有り得たかも知れないしそれが件の否みを否む側である可能性はあるが、自分が見たかったのはこの目の前に居る輝かしい天使にも見紛うカイナだ、今はそれでいい。クリネは祝意と共にその名を心に刻み込む。
「でも思うんだけどいい女人類代表って、クリネが取っておきにしてた”可愛い”より重いフレーズじゃない? あの時息切れしててなんとなく流しちゃったけどさ」
赤面するクリネ、いい女と言い出したのはあの時のクイナだ、だが売り言葉に買い言葉で重い告白を開陳してしまったのは確かかも知れない。クリネは言い訳出来ない悔しさとカイナの中にやはりクイナの生きた証、記憶が有るのだなと言う嬉しさで泣き出してしまった。
「ま、泣き虫クリネの言う事は程々に受け止めますけどさ」
そう言って橋の方に向かって居たカイナはクリネを振り返る。
「嫌いじゃないよ、そう言う大言壮語を回収出来ないお口”鳥”ガーハッピーなとこ」
その笑顔の向こうには、いつもの黄昏の空。もうすぐ蒼の薄明が来そうだ。道すがら人としての記憶が残っていそうな彼女の楽しかった事嬉しかった事など聞かせて貰いながら、今度は拙くないジャズアレンジで彼女の心を弾ませられる様にせいぜい聞き上手な吟遊詩人でもやらせてもらうか。彼女と言う言葉が出たのは男女どちらとも取れるカイナの二面性からだ、クリネはまた何処かで彼女を彼と呼ばざるを得ない頼りになる場面に遭遇するだろうが、まだ今は思い出の重さが勝る。
「あ、あとクリネが寝てる時に見たんだけど。あの六個目のW。…ありがと、カイナやっぱり好きだよ、嫌いじゃないじゃなくて」
表情の機微が分かりにくくなる蒼の薄明前で良かった、勇ましいカイナの中に赤面する少女クイナの面影が見られた。