87し「浮遊する涙」
「ん…クリネ…?」
じっとそばで嘴に果実を持ってクイナを見つめるクリネ。よく見ればもう一方の果実を踏み台にしている。いつの間にか二つの果実を転がしてかこの状況を作り出した様だ。彼女は喋らなくなった相棒の意図を理解する。これはつまり、間接キスの果実かそうでない方かの選択権を寄越していると言う事だ。彼女は逡巡の後、嘴の果実を指差した。これが最後かも知れないとなると随分と間接キス側の果実確保を温存したものだなと可笑しくなってクイナは乾いた笑いを零す。どうあれ笑顔を取り戻したクイナを見るにつけ、クリネも嬉しさで飛ばないまでも翼を広げる仕草を見せた。ボディーランゲージとまで派手な演出は出来ないが、その仕草は言葉を失った彼にとって出来る最大の感情表現の一つとしてのそれだった。
言葉を失った、は或る意味過大表現ではあった。繰り返しになるが知性の欠落は無い、ただ翠の声に脳を以前よりも支配され対外的な発声機能の脳伝達力が途絶えてしまったとそう言う話だ。左頬の愛らしさ確保は何も遊びと言う側面だけでは無かった、あれによって脳伝達に必要だった絶妙なバランスが維持されて来た。今となっては橋の上でも見なかったレベルで上半身のほぼ全てに緑の太い線が入っている彼はその姿に見合うだけの、自己の声含む内向きの緑の声の数々にひたすら向き合う聲の牢獄生活に入ったと言う事だ。それでもクイナの届ける言葉への理解力は健在で、集中力を外に向けるのが困難になる次の段階に至るまでクリネには相棒として、使徒としての資質が残っているし実際本人も役目を務めるのに吝かでは無かった。
早速のお務めとして何が起こるか示す為間髪入れず爪痕の有る果実を食べた、所謂毒味だ。深まる翠の声の縛鎖。苦しさが、ヒビとしての体の一線の支配領域が加速し自然と涙がクリネの瞳から零れる。それは透明で簡単には乾かない不思議な涙だった。透明な液体、それが存続する──これは実の所この閉鎖世界においては多分に異常現象で、結局クイナが足を折り流血し泣いた時もクリネが処刑の光景を夢見でなのか見て泣いた時も血や涙は即刻乾いた、要するにこの世界は赤い血だろうと透明な涙だろうと緑である液体以外は速攻で存在否定され蒸発してしまう、蒸発と言うか、恐らく翠の水の構成要員として連れ去られるのだろう。だがこの涙はどうか、存続はおろか浮き始めた、そしてふわふわと意志を持つかの様に果樹園の外へ旅立とうとしている。この事態を予期していなかったクリネは見失いたくない一心でクイナを置いて追いかけて行ってしまった。慌ててクイナも後を追い走り出す。二者ともそれぞれのやり方で、クリネは足、クイナは左手に果実を携えながら。瞬間的にはクリネが容易かった筈の嘴を使うのを保留としたのは、遂に間接キスの壁を取っ払って受け取ってくれたクイナへの感謝の念からだった。クイナにも基本的には右手は相棒の為に空けて置くものと言う意識がある。咄嗟に出た行動にも二様の思慮は見え隠れしていた。そしてこの世界における可憐な一輪の花としてのクイナが花として本来在るべき果樹園に初めて滞在した期間は皮肉にも10分と無く、また果樹園には時の停滞した様な異質なマンドラゴラ果実を育む為だけに在ると言う殺風景さが蘇ったのだった。




