第三界「sight無」
8なし「飢えた野獣を宿す体」
クリネの焦りは一つに知識の共有が出来辛い事だ。何から何まで緑由来の情報を垂れ流してしまうと何がトリガーでクイナの頭に緑の硝子の破片が刺さるか分からない。家族の様に長時間接するのであれば隠し通すのは不可能だろうが、この試練間で考えた場合刹那の優しい嘘として命が尽きるまでの短い期間なら実現可能であろう、と言う希望と呼べるとすれば一応の希望的観測で彼は今鼻歌交じりのクイナと歩を共にしている。
翠の亡霊の声は丁度臨死の体験談の様な物で、クリネが欲しがる事柄にせいぜい辿り着いていて9割程度までの事しか言ってない、緑の水に人が触れたら、とか飲んだらとかそう言った核心たる情報は入っていない。幾らカイナ・クイナの死が積み上がろうとも死そのものやそれに近しい属性の情報、起因は遮断されていた。そしてそれは人類の歴史上死んだ人の死んだ瞬間の感覚が克明に表現された事が無いのに比肩していた。逆に分かる事として言えば触れるとかあまつさえ飲んでしまう、それらは恐らく相当度フェイタルなのだ。
クイナが触って流血したクリネの頬は愛すべき鳥使徒の肉体と言うクッションを挟んでいる分緑の根源そのものではない筈で、その温かな触れ合いのミステイク事例と似通った声はクリネの心にも届いて居る。もし体内に癒し手の朱き血が巡っている彼女をしても翠の魔が入り込んだら実際自己を元に戻す事は出来ないのでは無いだろうか、そもそも亡霊の声の中に緑を宿した人の事例が見えないのでなんとも言えないが避けるべき事態なのは間違いない。
何処までが自由意志なのか、ここもまたクリネにとっては疑問符が付く所であった。第一に陸上型使徒では無いのだから無視して飛んで渡り抜ければいいものをわざわざ蜘蛛の巣の空による翼の邪魔立てを搔い潜って着地して飲まなければならない程自分は喉の渇きに苦しんでいたかどうか。この嫌な発想は今のクリネのパトロール思想の根幹で、川から500mから1kmはキープ出来る距離を保ちつつ歩ける様気を付けてクイナを下流へと誘導している。多分あの異様な水への渇望は近付けばクイナをも襲う筈で、そうなったらもう止められない気がしてならない。
もう一つ言えば、そうまで徹底した言わば水害対策などしてまで歩を進める事自体一体何を動力源とする行為なのだろう。以前クリネはクイナから宙返りへの憧れを聞かされなんとなく制止したのだがしかしその宙返りとはこの世界においてなんだ、重力が発現する前に首から落ちずに完遂し得る行為なのか、単なる断頭台への歩み寄りなのでは無いか。止まる、もしくは歩んで来た道を戻る。これらの亡霊の声も聞いた事が無い、多分過去にもこの着想を得た者は当然居るだろうがその顛末が分からない。分からないと言う事は多分に恐怖に彩られた何かが待っていると考えるのは当たらずとも遠からずと言った所か。
そしてクイナ、彼女は人として未完成で若い。成長痛についても彼女の訴えを現世であれば不自然なペースでよく聞く。眠りがほぼ要らない世界、時間の流れの狂い方がどうなっているか定かではないが歩みこそが時の流れと比例していて、進む事がそのまま加齢なのでは無いだろうか。道半ば果てた亡者だらけの亡霊の中にその考えに賛同する声は無かった。そもそも会話をしている訳では無い、勝手にクリネの心で四方八方伽藍洞の様に響き渡る一方通行な物でしかないのだ、その無軌道さが単なるアクセスに便利な図書館としての意味合いの外側での負担、その体の緑の浸食を広げようと、その心を食い潰そうと蠢く飢えた野獣の姿なのだ。
は7し「浮き立つ風船の心」
昼と夜の変幻を知らない黄昏の空模様が時間法則に拠らず気まま過ぎるので飽くまで体感でだが、現世での一週間程で空腹を連れて来る所の睡魔が限界まで来る。エネルギー喪失を加速させる流血のマイナス要素が無ければこれがいわゆる現世の忙しない一週間サイクルと言う言葉に置き換えられるだろうか。そのサイクルの終わるちょっと前にクリネが実を取りに行く。だが今回は青に沈んだ薄明とそのタイミングが初めて重なった機会で、クリネは下方で無数の蛍が発光しているかの様な川の天の川が如くの壮観さに圧倒された。川向こうの林は下流を辿っても何処までも点々と存在していたのだが、その林に成って居る果実の規模自体は辿り着いたカイナ・クイナの数を表しているのか段々と寂しくなっていた。そんな中二つの実と共に帰りその天上の光景についてを伝えるとやはりと言った感じで睡魔も予断を許さない筈のクイナはそれでも食い付いて来た。
「ねぇ、ひょっとするとクイナが危険過ぎない距離からその天の川を眺められるんじゃないかな? ちょっと近くに行ってみない?」
庭木で言う何度目かの左頬、右頬の緑の一線の剪定作業を経ていて心がやさぐれて来ていたクリネもそれに同意した。死ぬ前にこの世に二つと成し得ない絆の友との忘れ難い大切な時間を育むのも悪くない、それにいい夢を見るのはむしろ覚醒時のみの特権だ、と。果実を共に携えて川の見える範囲に行こうとする二人はまるでピクニックに向かうかの様に足取りが軽かった。
まずクリネが上空へ向かい、川の近くで丘になっている地形を探す事にした。少しでも近付かないで見られるに越した事は無いし景色もまた格別だろうと言う発想からだった。それを眺めながら一個しか無い果実でお手玉をするクイナ。重力が落下させるまで延々と風船の様に浮き上がるので一個しか無くても芸当としては力加減が難しかった。しかも果実のキャッチに失敗すれば地面に激突してしまい食事の機会を喪失するとあってクイナはクリネを気にして見ている分の集中力はそれ程割けなかった。それを何度か繰り返した後気付けばクリネは傍に降り立って来ていてそして羽根の先で丘の位置であろう方角を指し示している。満を持して二人の天の川観覧ツアーが始まった。
「割と空明るいとは言えないのによく丘の位置が分かったね? 天の川の光が助けになったの?」
とクイナは素朴な疑問をぶつける。<いや、こんなコトもあろうかとカエりにミツクロっておいたのをサイカクニンしただけだからね>と冗談めかして言うクリネ。つまりクイナのロマンティックな物に対する欲深さは見透かされていたと言う事だ。
「あっそう…また可愛いの道から遠のいたのかも知れないなぁ」
うーんと唸りながら風船果実を抱き締め50cm位の小浮上を繰り返して進むクイナを尻目にクリネは眠り姫の就寝前のいい夢を演出するべくエスコートを開始した。
6のがたり「薄明の星の川」
クイナが果実をやたらと触っているのはこれが抱き枕代わりとして機能している面があるからだ。体が睡眠を求めている事の証として今夜の相方の成熟し具合を触感で確かめ楽しんでいるのであった。クリネは実は間接キスはともかく抱き枕は自分でもいいんじゃないかとジェラシーに似た期待を抱いていた。
はっきり言って丘に辿り着くまでがピクニックの全容と言っても差し支えなかった。と言うのももう果実を手にした段階で条件反射的に半分クイナは覚醒状態を辞めている、寝入る準備を脳の神経が伝達しているのだ。それでもどうしても眠るのは蛍の圧倒的な光の群れを確認してからにしたかった。その光の記憶をいつもの悪夢の闇を振り払う足掛かりとしたかった。
クイナは記憶の大半を占める男らしい歌を大っぴらに歌うのを嫌っていてそれでも他に選択肢があまり無い以上大体がメロディーラインだけを追うハミングを選択していたのだが、今回はその短い旅程において歌詞付きの歌声を選択していた。女性ボーカルでは有るが女性の歌寄り過ぎない中性と言ってもいい位の平和で牧歌的な一番星についての歌だ、女性要素と男性要素の程良い彼女に似つかわしい選曲と言えそうだ。
クリネはその歌を知っていたが悪戯心でロック調にした伴奏を流した、作曲の才能が有る訳では無いのだが歌に関する記憶のパズルを組み合わせる事でこの夢世界ではそんな事も実現してしまう様だった。クイナは一瞬怒りんぼの顔をして拳を作ったが眠たくなって来ている自分の覚醒を維持するのにはちょうどいい選択でもある事に気付き、そんなクリネの優しい配慮交じりのちょっかいを止めようとした事を少し後悔した。拳は哀れな果実に振舞われ、お手玉の時の様に一時果実が宙を舞った。
丘に着いた時には音遮断の度に歌い直していた歌もぴったり位で終わっていた。起きている部分と寝ている部分が丁度半々位の、まだ視界がぼやけては居ない程度の状態で丘に辿り着けた彼女は感嘆の吐息を漏らした。
「こんな血生臭い世界でも綺麗な物は有るんだね…ちょっと記念写真」
と指でシャッターを切るマネをする。もう一回、とクリネもその指カメラの範囲に収めて再度シャッターを切る。最後にと架空の撮影者に向けてピースサインをしてクリネとのツーショットを収めた体でその戯れは終いとなった。
「ふわぁもう眠くなっちゃった…今日はクリネを抱き枕にしようかなぁ」
と言うが早いか選択の余地無くクリネに覆い被さって来るクイナ。クリネは憧れて居た抱き枕としての喜びを嚙み締めつつ徹底的なクイナの美意識の籠った右頬に彼女が触れる事の無い様にその頬を地面に擦り付けて眠り付いた。
もの5たり「処刑の光景」
クリネは気付くべきだった、亡霊の声の中に天の川観覧の描写が無かった事に。ある種の新発見などと浮き立つ感情論だけで先走ってしまったからこその失態だった、林における果実量の減少も観測されているつまり到達度的に歴代の中でもかなりの部分をクリアして来ているからと言ってこれだけ死者が積み上がっているこの世界で試されて居ない事などそうは残って居ないのだ。
クリネがうつらうつらしながらふと上空を見ると何やら30m程の所に点にしか見えないレベルで人影が有る。鳥ではない人が重力の悪戯を掻い潜って到底到達し得ない様な位置、しかも逆さ吊りで丁度宙返りの上下反対になって居る時の姿勢だ。クリネはこの世界に辿り着いて初めて涙を零した、全てが終わるその瞬間が近いと言う予感に泣いた。全てとは半身たるクイナの行く末だ、遥か上空で逆さになって気を失っているのか眠っているのかのクイナがそのまま重力を取り戻した空によって落下させられ地面に激突するとなったら大型使徒でもなんでも無い自分はそれを指を咥えて見ている事しか出来ない。仮に果実と自分とで一度限りのクッションになろうとしても自分無しではクイナは滅びへの道を早々に歩む選択肢しか取れないだろう。辞めてくれ、もうこの世界で変に楽しもうなどと欲は起こさないから、少なくとも忌むべき緑の華美さを殊更取り立てて騒いだりしてグロンと言う世界神の苛立ちを煽る様な事はしないからと言う意味で彼はか細い一鳴きをしてそして気を失った。
クリネが気を取り戻すとクイナはまだそばで寝ていた、自分を抱き枕にしている状態からは離れているがあの凄惨な処刑の光景はもしかして夢だったのだろうか。むしろそうであってくれた方が助かる、自分の記憶には嫌でもこびり付く汚泥としてそれは残ってしまったがだがクイナの平和を宿す心にそう言った軋轢を生む歪んだ思い出は増やさない方がいい、何度も言う様だがこの世界の緑浸食のトリガーはかなりのハッピー野郎と言わざるを得ないので潰せる可能性は虱潰しに潰してやらねば色々と主目的に邪魔となるし間に合わなくなる筈だ。
処刑の光景だが、もしあれが現実の事象だったら意識が無かった事が功を奏した。彼女が恐怖に戦き自己保身に走り2mでも5mでも自力で下降していたら重力と仲良く手を繋いでいるのと同じ事なので、もしかしたら彼女はこうしてクリネの横に戻れず、30m地点からの今回の落下時に有ったらしい重力の再失効前に地面にキスをして死んでいた。自分には頑なに渡してくれないキスを他に明け渡して葬り去られる彼女などたとえ現実だったとしての仮定の話でも想像したくなかった。彼はクイナに歩み寄る。唇を見つめている。楽しい会話を鳴き声しか上げられない自分に紡いでくれる魔法の場所。とりあえず段階としてそこまでは気を許してくれた抱き枕としての立ち位置を彼はまた取り戻す為、彼女のお腹の横で就寝の続きをする事にした。きっとおなかの虫が盛大にアンサンブルを奏でクリネを起こしてくれる筈だ。
はな4「高度飛翔の夢」
「もうクリネと会えない夢見ちゃったよ、せっかく抱き枕になって貰ったのに。まあいつもあまりいい夢は見ないからねぇ」
と舌を出しておどけて見せるクイナ。どうもクリネが見た異様な光景と彼女の夢見はそこまで強くリンクしていない様でそれに彼は心底安堵した。それに差し方が強固だったのか髪飾りの自身の羽根も落ちていない。元より残りの二枚が入っているポケットはサバイバル世界での衣服の機能美としてかチャックが有った。何も、無かった。クイナもいつも通り食事をし笑っている。ただそれだけでいい。空は茜色の場合が多いのだがご多分に漏れずその色合いが支配する状態に戻っていた。
「川は普段はああ言う姿なんだねー、綺麗だけどあれを見た後だと地味だなぁ。…あれ、涙の跡が有る。クリネ怖い夢でも見た?」
クリネ側はいつも通りでは無かったのが見透かされてしまった様だ。いつぞやの暴力的な愛撫を抑えめにしたそれでも少し力のこもったそれがクリネの左頬を包む。右頬も危険な部位を避ける形で少々は指先で拭い取って貰った。
「クイナさ、いつか10m位は飛んでみたいと思ってるんだ。だってここに来た時のあのお間抜けな怪我込みの5m位の飛翔がクイナ選手の最高記録でしたーじゃ格好が付かないじゃない? 勿論今の地形でそれが出来る環境に有るとは思わないんだけど、でもさっき眠る前この丘に上がった時ふと思ったんだよね、いつかは出来る日が来るって」
クイナは慰めの言葉を選んだと言う意味なのか、快活にそう言い放った。クリネの心が曇った例の事象と裏返しの様な話で彼は彼女の直感的な言葉選びの巧みさに感心した。クイナは丘の先端に立ち両腕を一直線に水平に伸ばし何かの体操選手の様に構えを取っている。夢時空としての無重力状態はそんな鳥擬態の姿勢が役に立つ話では無いのだが、先の宣誓への意気込みでポーズだけでもやってみていると言った所か。丘の高低差は丁度6,7m程度で、クイナの最高記録と重ね合わせれば10mは軽く超える。その高さからまた無重力そのものと呼ぶには浮遊が自在な空間が維持されている間に地上へ戻るか、もしくは運悪く落下が始まったとしても10mちょっとの落下の間に重力の再失効が訪れるのに賭けるかすればクイナの当座の夢は今この場で実現しなくもない。だが命あっての物種、そんな簡単に今まで細々と繋いで来た命で割の良くない賭けにベットする程の蛮勇はクイナには無く、体操選手は何もその構えを活かす事無く撫でられた時のままの姿勢でクイナを見ていたクリネの方に戻って来た。
「クイナは緑になったクリネが見ている物を全部は知らない。でも何かを抱えて生きているのは分かる、一緒に寝ているだけで笑っている側と泣いている側に分かれているんだから。だからせめてね、遠くへ飛べるクリネが近くに感じられる様、自分に出来る事はやってみたいんだ。それがさっき口にした高度飛翔の意味のつもり。クリネがくれたカイナって重しの取れた名前に相応しい自分を探してるよ、今もずっと」
クリネは亡霊の声が齎す情報を大体は隠し通していたつもりだったがあまり上手くは行っていなかったのだとその時悟った。逆にそうやって核心たる事を共有せずとも自分を慮る事の出来る相手で本当に良かったと思う。クリネは処刑の時はか細い鳴き声だったが今度は力強い一鳴きをした。バカのハッピー野郎と言う意味だったがクイナには通じたのだろうか、鳴き声が飛んで行った方に無言で拳を突き出していた。
3トーリー「お祭り、その終演」
一度悪戯心でクイナは空が茜の時の川に近付いて行く進路を取った事が有る。クリネは意図に気付いた時表情から何かを読み取ろうとしたがやっぱりなと言う顔つきだった。彼女は鼻歌交じりの事が多いがこう言う鼻歌が男性ボーカル由来の時は何かを企んでいるのだ。魂が元々男性な彼女はかなりお転婆なのに加え近くに居る異性の気を引きたかったのもそう言った行為の裏には有ったのだが、緑の一線の広がり方を調整する時以外触らない様に細心の注意を払っているクリネの右頬をわざと撫でる素振りをする前、いつもは50cm程度に抑えている小飛翔を1mにする前、ポケットの羽根を徐に取り出してクリネをくすぐろうとする前、彼女は決まって鼻歌を変調させる。普段は可愛さを追求する意味で女性ボーカルもので統一されているそれを変えて来るので実に分かり易かった。
暫くして彼女は鼻歌を辞めた。何となく足取りのスキップを交えた軽やかさも失われ憑りつかれた様に平坦なリズムになって来た。段々と小走りになった時このまま行くと危ないなと理解したクリネは先の男性ボーカル鼻歌の伴奏を大音量で彼女に送り込んだ。そこではっとなったクイナは我に返り歩を止めて自分と川の距離感を確かめる。いつか丘で見た時よりも近い。逆に距離は有ったとしてもあれだけの美しさを目の当たりにしたのだ、もう今回の件の火付け役はあの時の光景だったのだと言っても差し支えないだろう。
「ごめんクリネ、どうしても川の水が飲みたい衝動に襲われて無我夢中で走り出しそうになってたよ。無理の無い悪戯に留めないとこの世界は渡り歩いて行けないか…」
と独り言ちる様に呟くと、クイナは進路を正しい川から離れた物に即刻修正すべく踵を返したのだった。
二人はもう旅が終盤に差し掛かっている事を予期するにつれ、旅のお供としての楽曲に勇壮な力強い歌を多くセレクトする様になっていたし、鼻歌よりも実際のボーカル付きを選びがちにもなっていた。行軍における行進歌と言った風情だったがクイナは段々と自身の女性としての可愛さを追い求める哲学にそぐわない違和感が募り出していた。そこで音遮断のタイミングを見計らって時々優しい女性ボーカルの歌を挟んでいたのだがそんな器用に歌い分けられる訳でも無く、音遮断が終わってもそちらを歌い続けてしまうケースも有りメインが勇壮な物可愛い物どちらとも言い難い複雑なメドレー形式になる事が多くカオスな様相を呈して居た。それに付き合うクリネもどんどん急変するパートへ対応する柔軟な伴奏力が研ぎ澄まされて行ったが明らかに能力の無駄遣いだなと自分でもおかしかった。<きっとこのサキにこうイう『カオス』がマっているよ>と脳伝達で彼女に送ると、
「カオスにはカオスをぶつけないとね。ただのストレートな行進歌じゃこの歪な世界には似合わないよ。紆余曲折あってようやく辿り着く果てへの旅路の演出としてはこの上無い物に仕上げないと」
と意気込み上々だ。二人は二人で居る限り性別を奪われようが人間の肉体を奪われようが一騎当千の軍神足り得ると、この時二人は強く信じ込めていたのだった。
ス2ーリー「星の無い空と星の川と」
辿り着いた場所、そこは一言で言えば崖だった。川の方にクリネが偵察に行った所川が激しく滝となりそして下方にカイナ・クイナ達の役目を終えた血に連なる物と思しき緑の水が大量に流れ込んでいる。辿り着いた時はその後何が有ってもいい様に就寝して空腹の苦痛で起きて果実を食べるまでのサイクルをやっておこう、そしてそれとは別に蒼の薄明を待とう、なんならその為にサイクルはもう一巡してもいい、としていたのだが後者はもうすぐそこまで来ているのが今までの肌感覚で分かった、茜と蒼の間の色に微睡む空が今現在二人の頭上を覆っていた。星の一つすらそこに映さぬ空。ならばやる事は一つ、と二人は兼ねてからの計画を実行に移す。またギリギリ川の光が視界に届く丘を見つけて置いたクリネの誘導の元そこへと足を運ぶクイナ。これから始まる二人の最後のオンステージの為である。
例の一番星の歌だが今回ばかりはこれから待ち受ける戦いに際しての歌と言う事で以前クイナの覚醒を促したロック調を基調とした男性ボーカル版の体で歌い込んだ。この曲には現世でも男性ボーカル版は無かったので、イマジナリーなオリジナル・ヴァージョン楽曲が幽世のここで完成してしまったと言う皮肉な話になった。歌い終わった時この曲の童謡的な番組におけるミュージック・ビデオにもそんなシーンは無かったのにクイナは人差し指を高々と上げるとても可愛らしさを常日頃追求しているとは思えない人物の振舞いとしてフィニッシュ・ポーズを決めていた。髪を振り乱して歌って居たせいで今まで何が有ろうと落ちた事の無い金の髪飾りも流石に位置がずれていたので彼女は一旦それを元に戻す。クリネの羽根を含め髪飾りは汗で濡れていた。
「あー、泣き虫クリネの羽根が泣いちゃったよー。鬼気迫るボーカルが怖かったのかな? ん?」
と隣でロックの燃え上がる様な伴奏をひたすら付き合ってくれた相棒の左頬をよしよしと一撫でする。可愛いへの道は何処に行ったんだよ、何故鬼気迫るをそんな誇らしげに言っているんだと自分を危機的状況に追い込み兼ねない邪なツッコミが浮かんだがそれはこの中途半端な藍色とも言えない夜空擬きに架空の脳伝達で捨て置いた。
その後は歌の熱演で疲れた二人で寄り添い合い、感傷的なゆったりとした時間が流れた。件の一番星の歌も童謡の枠でテレビ放送されていたオリジナルの穏やかな雰囲気を取り戻していて、彼女が鼻歌で歌い、彼が静かなトーンのジャジーでお洒落な伴奏で流すと言うスタイルに落ち着いた。音が途切れる度、クイナは好き、と言っていた。それはこのクリネと言う相棒の事なのか、この世界の旅の日々なのか、今この瞬間を流れる優しい時間の事なのか。なんにしろそれはクリネが隣に居てこその話ではあった。何度目かのその音遮断の隙を突いてのラブコールは半分だけの”き”が聞かれてしまう事になる。丁度クリネがやった<そのホウが……いい>の逆の失態と言える。クリネにはあの時の質問の鬼の様に詰めて来たクイナを真似しようなどと言う気はさらさら無かったがそれでも聞いてみた。<き? 『何』のコト?>と。彼女はうっかりしたなあと自分の頭を軽く小突くとこう告げた。
「嫌い…って言おうとしたんだよ、この世界グロンが。もう一個の意味は内緒だよ」
もう一個の意味と含みを持たせてくれた事はクリネの希望になった。いつか聞き出せる日も来るだろう、そしてこの死と言う流れ作業しかカイナ・クイナに明け渡して来なかったグロンと言う世界自体をも見返させる様な快演を二人でならばそう遠くない未来、響かせられるに違いない。星の無い空ならば一番星となり輝くのはこの二人なのかも知れない。