第一界「music無」
8なし「亜神と亜人」
世界の腕、疲弊し切った現代世界が腕枕として微睡む為の裏世界。そこでは男が女、女が男としての可能性世界を歩んで行く。とは言え現実ほどの整合性が有るでもなく、他愛もなく連続性の怪しい事象が軒を連ねているだけ。時折自分の周囲に描かれる事象は自分が知覚した瞬間にだけ訪れる後付けの作り物なのでは無いか、と言う妄想が囁かれるものだがそれをそのまま当てはめたのがこの世界だと言っていい。ある種世界の転換点となる様な発明なり偉業なりを達成した人が異性としてのifを歩むとそれの発生確率にブレが生じる訳で、そう言う多元宇宙と言うよりも密接な関係性で裏表の両面とでも言うべき両世界が存在しているとどちらかの世界が描画の後付けに誤魔化された世界となってしまう、と言う物理法則に支配されたのが世界のカイナ、亡き物としての世界である。もはやそうなって来るとこの世界に歴として存在していると言えるのはただ一人、中心として世界が後付け描画をされ続ける人物だけだ。
この両面世界が非科学的な思考が主体であった原始時代から永くに渡り世界の嘘を嘘として封じ込めている人類への罠は、出産の際に男女の認識を間違えてはならない、と言う事。例えば男として期待したならその後男として産まれなかった場合、もう既にそのカップルは微睡世界に子供が墜ちる罠に掛かっている、夢見た間違った期待に基づく幻想をカイナと言う獏に食われてしまう。エコー検査が可能な現代ではその気付きが早期に訪れるのでまた話が変わって来る、早い話がエコーをすると確実に微睡世界での子供の在り方が変わる、と言う事だ。そしてその取り決めとは運命付けられた枠組みとでも言うべきレベルの話だ、今日死ぬ人は絶対的に死に、それを知覚する人は知覚ししない人はしないで日々をそれぞれ過ごして行くと言う様な。受精卵発生の段階で生物学的には性別が決まっている以上、間違った認識を持つカップルは居るしそうでないカップルも出て来る、それは避け様の無い話だ。
この両面世界は「核を発明する文明に未来は有るのか」、と言う事へのアンチテーゼとして存在しているかの様な所がある。核を作るのではない、人そのものを、核と並び立つレベルへ昇華させる。そう信じ切った両面世界の規範への拘束力は強く男女認識の誤りは犯罪と言うより原罪として扱われる、犯罪なのだから現実世界において処罰されると言う事にはならないにせよそう言う社会的な処刑と言うよりもっと単純に微睡世界カイナ側へと子供を否応無く吸収される可能性が出て来る。そして選び抜かれたたった一人のその中心人物はそれと知らないまま、神そのものになるのだ。神が生前深く関わってしまった民に自由に生きる術は無く、微睡世界で神となる者が与えられるべき試練に向かうと順次その後出来るだけ世界に歪を拡大させない形でその命を天寿を全うする前に絶たせられ神の使い、使徒として同じく転生する。存在そのもののステータスは現実世界が上だがこと存在の軸の部位に関しては微睡世界に優位性が有る。
だがここで問題となるテーマがある。「神のそばにいる近しい人物が先に死ぬと歪はどうなるのか」、と言う事だ。答えとしてはどうあがいても死ねない、と言う事なのだがはっきり言ってそれだけ世界に影響を与えられるなら後に死するともその人物も亜人、神に近しい存在である。また神単体においても唯一神と言う発想が有るがその意味では微睡世界カイナの神もまた絶対的ではなく周りに揺さぶられる影響力不足さのレベルにおいて亜神と言うべき者かも知れない。
は7し「希望の忌み子」
微睡世界カイナの神、カイナ・クイナは現状では現実世界で生まれた時点で二度の死が約束された究極の忌み子である。まずクイナの分解字形についてだが91無、入口1と出口9の無い存在。全体的な見方としては入口たる生も出口たる死も無く存在し続ける呪いの掌上に在って個々の存在自体の希薄さも無に等しい神への供物としての亜神の別称である、もし上位存在の究極神が居るとするのならの話だが。ここで更に怖いのは出口側から入って入口へと向かっているかの様な字形、しかもその先には無しかない。ゴールをまず失う所から始まっている徒労のエンドレスロードとでも言えばいいのか、人を核に並び立つ瞬間の祝福された子として誕生させると言う一点に向け多過ぎる尊い犠牲をこの微睡世界は数多くのカイナ・クイナ化人達に強いて来た。
カイナ・クイナ化と言う言葉通りカイナ・クイナは並行世界に両者並び立って存在していない。カイナ・クイナは14歳の何処かで確実に現実世界で葬り去られる、そして親の夢見た幻の影響で異性として転生し最大一年ほどと目される期間を生き延びる事になる、そう、今まで15歳を抜け出た者は無いと言う事だ。その蝉の様な儚い形態をカイナ・クイナと言う名前が包括していて、しかも転生した瞬間カイナ・クイナ化した人間はその名前に疑問符を抱く事無く自覚的である。
つまり、「世界への疑問符」を抱いたらしきカイナ・クイナは数多の彼らの屍の山の何処にも科学が生じるまでまだ居なかったのだ。疑問符を抱いてすら立ち向かう事の怪しい微睡世界と言う舞台装置、そこではエコーと言う科学が成立するまで一定の約束された死のリズムが世界の裏側で脈打って来た、在り続ける事で素直で純真な頭のカイナ・クイナの各種死に様をコレクションする事しか実現して来なかった。そんな中でエコーがもたらした物として最大の事象なのは親の間違った期待の幻想に揺蕩わざるを得ないカイナ・クイナを夢見の期間を短くさせる事で幾ばくか現実世界サイドに脳を繫ぎ止めるその効果である。カイナ・クイナと言う存在として親の夢見を脳に植え付けられた状態で転生する事を麻薬の服用に例えるならそれが軽くて済むと言う事だ。冴えた頭で立ち向かうなら「世界への疑問符」を感じられるかも知れない、そういった意味ではエコーを受けた現代っ子達としてのカイナ・クイナはある種祝福された子になり得る希望の忌み子である。
だがそもそも微睡世界への適応能力が低いとも言えるその希望の忌み子は苦しみが常時大きい、人としての核たる何かを目指す試練の日々に親の夢見注入と言う痛み止めが薄い状態で挑まなければならないのだから。才能や恵まれた使徒に乏しいケースの現代っ子カイナ・クイナははっきり言って転生後そのまま自殺するレベルであり、むしろ麻薬成分過多で頭がお花畑な原始に近い時代に転生出来たカイナ・クイナの方が多少長生き出来た分だけ幸せと言えるかも知れない。
6のがたり「二人の片翼」
カイナ・クイナは常に供給され続ける。5秒で死のうが一分で死のうが一時間で死のうが容赦なく現実世界でもその間隔で男女認識の誤りの元生まれた子供が転生者として選出され微睡世界カイナに送り込まれる。
この世界はそもそも危険だ、なんせなんとなく夢の世界然としていて空を飛べてしまう。ただ不意に風が止む、と言った気まぐれさで現実世界の物理法則がふらっと顔を出すので例えば2m浮上したら既に命が危うい。5秒の例は決して比喩ではない、実際カイナに到着して自殺の意図無く遊び心や慣れない体への不適応から浮遊してそこからの即時死刑執行を食らったカイナ・クイナも数人ではない勢いで居る。
今代カイナ・クイナが今も細々と命を繋いでいるのには運も有った。使徒が鳥だったのだが彼女はこの地に発現後その愛くるしい存在が空に飛ぼうとした時、同様に追いかけて5m位浮上した。だが使徒は賢かったので人間が突如浮いたと言う不穏さしかない光景を捉えた時に彼女を止めようと舞い戻り<トばないで>を脳に直接伝達した。彼女は驚き2m位に下がった所で重力が彼女を殺しにやって来て落下し足が折れた。それでもこの世界が夢世界然としている部分は乱れた重力現出法の他にも有り絶命に至らなければ勝手に体は修復されるし美しい彼女の巫女服の血も直ぐに乾いた、乾く様な質の液体では血は勿論決してないのだがカイナと言う獏はそれを貪欲に啜り上げた。そして彼女がショックでしゃがみ込み啜り泣いている間この鳥使徒はずっと寄り添って<イタいのイタいのトんでいけ>を伝達し続けた、肉体の痛みらしい痛みはかなり感覚麻痺に近くなっていて親の夢見麻薬が吹き飛ばしてしまうのだが心の衝撃はそうはいかない、この場合の痛みとは大部分心の痛みの事だ。そこで行くとエコー前の時代のカイナ・クイナは割とメンタルの強さと言う意味合い込みでの心の機微も弱かったのだが、この極限世界で人間に近いのは果たしてどちらなのか、死者と言うゴールから抜け出たサンプルがまだ居ない以上そこにまだ答えは出ていない。ただ希望の忌み子と言うふわっとした解ならぬ解が微睡世界と言う落とし穴に落下した彼女を遥か上空で俯瞰しているに過ぎない。
声質で異性かどうかが判別可能なのと同様、脳への直接伝達が発生すると言う特殊状況でも鳥使徒が男性なのが彼女には分かった。カイナ・クイナ化人の生前仲良かった生涯の友と言うのは14歳と言う微妙な年齢からカップル成立の方のケースがある。使徒は基本動物転生で転生の具合を消費し尽している物なので性別までは変わらない、だから今代の二者と違い同性同士だったりそれプラスアルファの異性や同性と言うケースに収まるのだがそれが好転するのかどうかはそれぞれである。但し繰り返すようだが好転要素が有るにせよカイナ下での延命程度の成果しか今のところは目に見えた効果は確認されていない。
泣き疲れて彼女が眠るまで、鳥使徒は寄り添っていた。次にすべき事が彼には分かっていたので眠り顔に安堵すると彼は一旦離れた。彼女がもし起きていたら驚いたであろう程に、遠く、力強く、性別と言う片翼を違えた天使の為に人間と言う片翼をどこかに落とした筈の鳥は飛んで行った。
もの5たり「翡翠交じりの黒曜石」
鳥使徒も重力の悪戯に難儀していた。体のバランスをどこに置けばいいかまるで掴めない、むしろ鳥なりに歩いた方が楽なのではと思わせる程の飛翔感覚の崩れ具合だ。だが彼は飛ぶ事を辞めなかった。これは男の戦いだ、そう思う。鳥として産まれたのなら、彼女の従者として転生したのなら。これを乗り越え彼女では成し得ない重力を統べる雄々しき鷹となるのが一先ずの彼の見据えたるゴールだった。
だが現実に疲労と喉の渇きは襲い来る。彼は眼下に緑色を宿した不思議な水の一帯、川と呼べそうな地域を見つけた。こんな世界で何処かを目指し何処かへ進んでいる水の存在する目的など有るのか無いのか分からないがなんにせよそれがなんなのか彼は一旦調べる必要性を感じ飛翔をゆっくりゆっくり地面に激突しない様終え着陸した。
まず触れる、羽根に含ませたそれを嗅いでみる。そこまで危険な敵意を孕んだ存在には感じない。そして地面を流れているそれを一口。大変に、旨い。何故こんなに旨いのかと疑問を抱かずには居られないレベルで馨しい味わいが口腔と鼻孔一杯を支配する。文字通り脳が、灼かれる程だ…人は食事をし生活の歩を進める儀式のうちに、自己の避け得ぬ死への着実なステップを、そして咀嚼する生命の死への有難みを常に脳裏でも嚙み砕いている。通俗的な脳を焼かれるの意味で重ねて言うなら鳥使徒の彼の感じている今回のそれはもはや死への憧れ、タナトスと言える。動き回る事で己が存在を陸海空に刻み込む動物サイドの生命にとって緑と言う永遠の自律動作の不在を約束された植物サイドのカラーリングはそれを時に必要以上に想起させる、何もかもが現代社会に属すると呼ぶには原始的で素朴な暴力性に満ちたこの世界では殊更その印象は濃い物となる。この仄暗く緑の光を放つ水を飲み続けると気持ち良過ぎて死ぬ、感受性が今や動物で割とシンプルに寄っているきらいのある彼においてすらこう予見させる物なのだ、今眠り姫をしている人間のあの子に飲ませる、いや、ブーツを脱いで足で踏ませるだけでも何が起こるか分からない。もはや彼女を近付かせる事も憚られる危険な誘惑の毒々しさを湛えた川を越える為、彼はその補水欲求をなんとか振り切り飛び立つ事に成功した…いや、成功したと言えるのかどうか。彼の眼の縁には今まで無かった翡翠色の一線が入ってしまった、美しい黒曜石に彼のその悠々たる黒き翼を例えるなら今や別の宝石をもその身に宿したある種の不純物としての鉱物に格が下がってしまった。だが快楽に満ちたる彼はまだその植物カラーの涙の筋が体に入ったと言う補水における負の結末を知らない、元気に起きた彼女からの指摘をそれは待つ事になる。
その植物の血とでも言えばいいのか、翡翠の涙の一線をカイナと言う獏は今度は舐め取らない。むしろ、してやったり、とでも言う様にそのまま放置しニタニタと眺めている。一線は彼を何処まで蝕む事になるのか、まだ悲しみの連鎖の象徴は鈍い輝きを放ちながら産声を上げたばかりだ。
はな4「意志決定機関」
泣くと言う消費行動の為に亜神の彼女は眠ってしまっていたのだがこの夢そのものである世界での眠りでは基本的に大変な浪費が発生する、寝る時にこの夢世界を支えるエネルギー源だと言わんばかりに空腹が加速しカロリーを根こそぎ持って行かれる。起きるイコール心地良い寝覚めとは言い難い苦痛が伴うケースが大半である、ある種邪魔されずこの世界での十分量を取った場合の証左とも言えるが基本そう言った展開が待っている。
彼女も苦痛の予兆で一回半分だけ起きた。その時目の前に使徒の置いて行った羽根が二、三枚有ったのでそれを確認すると彼女はそれを握り締め再び安眠とは程遠い筈の悪夢交じりの世界へ落ちて行った。このお守り代わりの羽根は鳥使徒の機転によるファインプレーであったと言える。ここで彼女が周りに誰も、安心出来るアイテムも何も無い状況に陥ってる事に恐怖を覚え世界を彷徨い歩いてしまったら再び会うまでの道のりが永く険しい物となって居た可能性が有る。カイナ獏の試練は常に牙を剥いていて次の亜神を取り込む用意、どう追い詰めようかと言う支度を欠かさずに居る。彼女のまだあどけなさの見える安らかな寝顔はそれを幾分かだけでも乗り越えた証としてそこに確かに在った。赤子がお腹空いたとばかり彼女が元気な声を上げるまでの安寧の時間、それはまだ彼女の使徒が見つけた川の流れの様にゆったりと経過する事をこの狂気世界にて一応の約束事として取り付けていたのだった。
整合性の無さは現実と夢の物理法則混濁が担保するとして、その他方の後付け描画と言う概念の根幹はここ、鳥使徒の辿り着いた川向うにあった。彼女に与える為の食事が屍で構成されている、緑掛かった死の一線の入った目の鳥はそれを直感的に理解する事となった。初回位はのんびり目の前にたわわに実る赤と白とその間のカラーリングのグラデーションからなる斑模様の木の実を持って帰って平和に過ごす未来が有ったのかも知れないが彼が興味本位で川に降り立ち補水欲求を満たした事でそれも消失した。要は前に並び立つ者の無い初代のカイナ・クイナはただ死んで餌と化す為に生まれたのだと言う事実がまず厳然と在り、そしてそこから派生するやはり死ぬ以外に何も出来なかったその兄弟姉妹としてのカイナ・クイナ達もまた幾重にも幾百幾千にも歴史の上に連なった。そんな不本意な死を遂げた彼らの墓場と呼ぶにはのほほんとし過ぎている緑の葉と果実の生い茂るこの林の様な一帯は多分、森を目指しているのだ、枯れ木が有る事から全てがこの林サイド有利と言う訳でも無さそうだが、少なくともこれがカイナ・クイナvsカイナ獏の現時点までの結果の一部としての一目瞭然たる光景ではありそうだった。
下手すれば5秒に一回死ぬ繰り返しの世界で何かを使役してその死体の片付けをさせるなどしていたら純然たる「繰り返し」が成立しようがない、カイナ・クイナの死はここにどうやってか自動的に瞬時に集約されている。それはそうである筈の世界と言うより微睡世界カイナがそうであって欲しいと言う状態の世界への後付けでの描画が成されているに等しい。肉体と言う軛の無い者をすら神と呼んでいいとするなら、カイナ・クイナを超える上位意志決定者は確実に居る。それは誰かが作り上げた構築された流れを実践し続けているだけだとしてもだ、その誰かの用意した機械的な反復的な意志決定機関は現に働きを呼び掛け続けている。
3トーリー「花の寝顔」
目の前の気持ちの悪い概念の集合体をある種の見えざる物を感知する魔眼で目にした彼は、吐いた。先ほどの補水した緑の液体、それを汚水だとして吐しゃ物として吐いた。汚水は消化も何もされないのが当たり前だとでも言う様に吐しゃ物をその緑色に彩っているのが確認出来た。体の一部、目の縁が緑になった事を指摘されるまで知らない彼をして、体の中にもその緑が取り込まれたのでは無いかと言う予見を抱かせるに十分な光景だった。あの時感じなかった敵意は敵意と言う形を取らない馨しさや旨さで擬態をしていただけでその実圧倒的に敵意自体は有ったのだ。彼が人であったなら歯噛みしただろう、現に彼は嘴の上下を必要以上にカチンカチンと激しくぶつけている。
あの川に戻って清める必要が出て来た。なんせこの嘴で木の実を咥えて持って行く訳だから穢れ含みの嘴などでそれを実行していい訳が無い。あの緑の水で清めになるのかと言う些末な疑いは有るが今はそう言うジンクス的な話で立ち止まる猶予の有る状況ではない、吐しゃ物交じりの嘴よりは幾分かは清められよう。彼は戻る、戻ると言う動作の中に果実を嘴と両の足で一つずつ持った時の予行演習を加えながら。これからの長丁場、彼女の事を第一に見据えるとは言え自分の不調なり不足なりを重視しなければとてもでは無いが渡り歩いては行けない。割と大振りな果実を二つ一遍にとは彼のあまり大きいとは言えない体躯には似つかわしく無い分量かも知れないが、それは何分致し方のない事だった。
程無く川辺に辿り着いた彼は嘴を洗っている。忌まわしい緑色の液体に緑の吐しゃ物を溶かし込んでいる。吐しゃ物とは言え元は自分の一部、それが彼から離れ何処へとも知れぬ先に流れ行くのを見送るのはあまり気持ちのいい光景では無かったし、いずれ自分が流れ着く先でもっと薄気味悪い物を見るかも知れないと言う前兆めいた物もそこに感じずには居られなかった。暫し立ち止まり流れの先を確認していたが、そうそうゆっくりもしていられまい、彼女の覚醒までにはどうにか間に合わせたい、として彼は然程距離が有るでも無い林を足早に再度訪れると、手際良く手近な木の実を二つ地面に落下させ、それらを嘴と両足で確保し重力による作りかけの蜘蛛の巣が所々張ってあるかの様な歪な常世の茜空へと舞い戻って行った。ここは微睡世界。昼と夜の間を彷徨い続ける朝焼けでありなおかつ夕焼けである物が常からあった、変幻を忘れたうっすらとした茜色がそこかしこに焼け付いている。
彼が立ち去った林に再び絶対の静寂が訪れる。よくよく見れば林には何処にも実を宿す前段階としての花が無い、散り落ちた花弁すらも無い。蕾と葉、落ち葉、枝と幹、そして赤々とかつ白妙に実る数々の実が有るのみ。花は今この時を生き抜こうと輝くカイナ・クイナそれ自体とでも言わんばかりだ。それでは鳥使徒の彼は花にとっての蜜蜂と言うべきだろうか、それともタンポポの綿毛を揺らす風に例えるべきだろうか。今代カイナ・クイナの結実を迎えるその時まで、その明確な回答は得られないのかも知れない。ただ彼に言えるのは、彼女の寝顔は花に値する和らぎを可憐さを兼ね備えていたという事だ。
ス2ーリー「名付けのハーモニー」
カイナ・クイナの死後を自在に操る後付け描画の魔物が眠り姫の彼女を何処かへと既に攫ってしまっているのではと言う悪しき妄想が彼を蝕んでいたが、しかして彼の残して行った羽根のお守りは功を奏した様で彼が元居た場所へ戻った時彼女はそれを握ってまだ眠りついていた。彼が離れた時には握って居なかったから何処かで半覚醒状態が有ったという事だろう。本来なら動かないで居て欲しい、と伝えるべき所だったが泣き止むのと眠りつくのが間髪入れずの動作だった為それはもう一度揺り起こさなければ叶わなかった、それ故の次善策であったがともあれ彼は自らのアイディアが成功方向に結実した事に安堵した。
起こさぬ様慎重に両足の果実を地面に落とし、次いで嘴のそれも地面に安置する。それにしても表情に余裕が無くなっている。流石は微睡世界だけあって微睡んでいいのは私の側であって貴様ら下位存在ではないとでも言いたげな幽世としての造りになっている様で長きに渡る安眠は許可されていないらしい。それでもその安眠に届かない睡眠とて彼女の戦いにおける貴重な癒しの時間だ、それを阻害する意図は元より無い彼は一寸も彼女に触る事をせずにいた。蜘蛛の巣張りの空との格闘で疲弊した翼の毛繕いや音を消した欠伸なんかをして彼女の苦しげな表情をなるべく視界から外しながら時間を潰す。そして不意にゴロリと無造作に置かれた果実の対に目をやる。片方は足で無理やりに持って来たので爪が食い込んで形が悪くなっている。差し詰めまんまるの方が緑に穢れていない彼女、痛々しい歪曲を見せる方が緑に侵された自分か。いや待て、彼女も既に薄紅の血染めの空から落下して足を折っている、穢されていないと言えるのは一体なんだろうと疑問を持つ。心、か。肉体の上では二者とも微睡世界の悪戯に翻弄されている訳なのだが、人の彼女はお守りを握り締める事で口約束をし損なった待ち人としての鳥使徒を強く信じ続けた。鳥の彼はお守りに込めた必ず食事と共に出来るだけ疾く戻ると言う願掛けを見事有言実行した。心と心、その絆は決して折れていない。
そんな自己問答に疲れ段々うとうととして来た彼だったがはたと我に返る。苦悶しているのを差し引いても眠り姫の寝息の断続性が何処か不自然だ。彼は新しいこの世界の歪さを見出した。この世界は夢世界が根幹に有るので現実の物理法則をいまいち支え切れていない。重力の途絶、復活周期とはリンクしている訳でも無いと言う気がするが音が途切れ途切れであるイコール空気振動の伝達が怪しいのもこの薄明が基調の世界のもう一つの病理らしかった。空気が薄い場合があるのかと思ったがそこまでは無いのか、迅速な風となり滑空した彼の運動量を支えるに十分な呼吸は邪魔されて居た記憶が無い、感覚的な言葉で言うなら「無人の惑星には音は有るが音楽が無い」と言う説がしっくり来るか、その心は人の聴覚不在。音の素たる空気振動自体は消えなくとも音楽を解する人間の脳の感覚が遮断されればイコール音楽の向かうべき先も失われる。そういう意味では覚醒しているつもりでも断続的に姫も自分も眠っているのだろうか、現実の感覚を不意に失う瞬間が有るから重力にも足元を掬われるのだろうか。その辺りの謎については結局の所はこの世界の出口に辿り着かないと境界線が不透明だが。
そうこうしている内に、微睡んでいた筈の彼女が起きているのに気付いた。こっちを見つめている、と言うかその先の果実を見ている様だ、恐らく苦悶とは多分に空腹に因る物だったのだろう。彼は食べて欲しいと言う自分の考えを告げるより先に質問していた、<ワタシのナを>と。今代カイナ・クイナが守るべき愛らしい寝顔を発現させると言う働き掛けで有無を言わせずに使役させた鳥使徒はその実うずうずしていたのだ、彼女との関係性の発展に、ともすれば消え入ってしまいそうな命と命のより確かな絆を結ぶ事に。
実は今の脳伝達は音遮断のタイミングに重なり彼女には届いて居なかった上、彼女は今初めて緑の死の一線を瞳に携えた彼を目の当たりにしたので当初考えていた名前を与えるのは憚られた。過去の姿を、そして今の姿を綯い交ぜにした素敵な名前がいいだろうと、クロンと言う名前を棄てた彼女は音が再開した世界へ向けてこう言い放った。誰が求めた訳でも無い筈の鳥使徒の名を、彼女自身も言いたくて仕方が無かったのだ。
「おかえり、クリネ。初めまして、グロン」
黒とグリーンの間の音、そして寝入る事を簡単には許さないこの世界での敢えてのネ、音の響き。元の名は微睡世界カイナを改名させるのに使った、それもクリネと一字も被らない物に姿を変えている。露悪的に言えばグロテスクそのものを表現した形だ、終わらせると言う片仮名最終文字「ン」の想いも込めた。与えられた物ではなく、自分の確固たる意志で作り上げたその響き。鳥使徒クリネも脳伝達では無く初めて上げた綺麗な鳴き声でそれに応じた。この二つの名が傷付けられた彼女と彼の反撃の狼煙、最初のハーモニーとしての行軍歌の歌い出し部分だった。