閑話 平安の巫女
秋の虫が鳴き出した。日が高い内はまだ、蝉が甲高い音を出して土の妬けた匂いを運んで来るが、日が沈むと草の茂みからコロコロと音を出してくる。湿り気を帯びた稲穂の匂いと一緒に。
「セイ様お出掛けですか?」
と、静は本堂まで、涼しくなった時刻に出てきた。
この白彦神社には、宮司 志生と巫女 静の二人だけだ。
麓の集落は、幾つかあり決まった順番で神社の手伝いをする者がいる。集落にも氏神として社があるが山側には、稲荷。海側には、海神を極自然に祀っている。
海側の祭事が順番に終わり、山側の祭事が始まる。そろそろ始めの集落から準備がされていく。
静の目の前には、日に日に大きくなる赤い月が稲光を伴った黒い雲に隠されそうだ。
「ひと雨来るのかしらね」
と、今は虫が鳴いているが、大きい滴が落ち出すと聞こえなくなる。まだ、遠いが海の方はこの赤い月の光りは届いていないのだろう。
『しず、よんだか?』
と、静の目の前に水の様な透き通ったお姿でセイが姿を現す。
「お出掛けでしたか?」
と、静が聞くと、
『ふむ すこしウズのなかをおよいでおった』
と、セイが言うが
……野わけがくるのかしら?
「セイ様、この渦はいつ来るのでしょ?」
と、静が聞けば、
『どうであろうなぁ、うなばらのノミがおるとこにウズがおったが』
……海の蚤? 島? 渦のから見える島?
「海の向こうに島があるのですか?」
『しずのようなひとのこは、おらぬがわれがこのむ、ちがノミのようにあるのだ』
……人が住んでいない島々が、海の向こうにあるんだわ……野わけだとしたら、稲に穂が垂れる前に来るのだろうか?
「セイ様、渦はこちら側に来るのに月が何回空に、登りますか?」
『ウズもきまぐれで、ここにくるかはわからぬぞ。おおきいウズでふらふらしておるわ。つきがみいかようぐらいか』
海側の集落に伝えないと、明日は誰が来るのだろうか? ちゃんと備えるよう口伝してくれる者が来てくれるといいのだが。
「ありがとう存じます。麓には伝を回します」
と、静が言ったら、
『しずよ。ウズがくるのは、りにならってのこと、そのままでよいでないか?』
と、セイが言えば、
「セイ様、理に倣ってのことですが、社が壊れてしまいます。麓の者が儚くなると、静も困るのです。
大きな野わけは、山を削り川を暴れ、海の水を濁らせます。理に倣っていても馴染みの者が儚くなるのは、静は悲しいです」
と、静が訴えた。
『しずよ。はかなくなるのも、りであるぞ』
と、セイが言ってきた。
「そうですね。セイ様の仰る通りです。いずれ静も儚くなりますが、抗うのでなくて備えるのです」
と、静がセイに言って、
「セイ様にお聞きしたいことがあるのです」
と、セイに問う。
『なんじゃ、われはしずのよに、きをはっておらぬぞ』
「世の中の事ではございません。宮司 志生がこの夏に弱りました。まだ気丈な上ですが、静は子を成そうと思っております」
と、静が言うと、
『しずは、そのけがなかったでなかったか?』
と、問う。
「はい、今もございません。静の加護を子に移すとセイ様とも言が交わせなくなるのでしょうか?」
と、返事と問いかけをする。
『いな、しずのちからは、かごによるものではない。しずのこであってもわれと、げんをかわせるかは、ぎらん』
と、セイは答える。
「そうですね。母 志生はセイ様を識しておりませんし」
と、静も答える。
『われもしずのことげんを、かわせればいいのだが、われがしきしてでてきても、みえぬものばかりだ』
と、セイは言う。
「セイ様の慰めになるものが、静の子孫に出てくれば嬉しいのですが」
と、静が言う。
『しずは、ちぎりはやまのものか?みずのものか?』
と、セイが聞いてくるが、
「いいえ、麓の者は血が濃くなっておりますので、朝廷を通して、遠方から眷属とも来てもらうつもりです。山側の者は少し密になっておりますので、先ほど盲子が生まれたと伝がございました」
と、静が説明する。
『はて、ひかりもとおさぬのか』
と、セイが聞いてくる。
「どうでしょうか、おなごらしいのですが」
と、静もその子を気にかける。
『しずによこしまなきを、もたらすのはみずのものであろ、そのおなごがやまのものでよきでないか』
と、セイが言うが、
「どの道、親御は大変でしょう。静に伝したと言うことは、ここで観ることになるでしょ」
と、静が言う。
『りにならっておれば、そのこはいきてはおれまい。ひとのこはあらがうのがこのむのか』
と、セイがからかう。
「まだ、赤子です。親御が手を尽くすのであれば良し、手に遇わぬのであれば、静が参ります」
と、静が言えば、
『しずよ。そなたはわれのばりから、でぬほうがよいぞ』
と、セイが言う。
「またですか?」
と、静も呆れ顔で言う。
『しずに、よんだきをもたらすもので、なければよいが』
と、セイが心配して言ってくれる。
「京からくる者は、汚んでおりますからいつもセイ様の怒りを喰らうのです。静が願いましたのはもっと西側の静とお役目を担う方を願いました」
と、静が言えば、
『にしには、いくつかわれをまつっておる、おやしろがあるが、そのいえのものか?』
と、セイが聞いてくる。
「存じません。セイ様はどこまでのことを仰っておりますか?
この前は海を超えて唐まで超えて、お社に行ってきたと仰っておいでしたよ」
と、静は見たことも聞いたこともない。国の名前をセイから聞いたのだが、
『このくにでは、げんにしずしかおらぬが、うみをこえていくとまれにわれをみえるものがおるのじゃ』
と、尻尾らしきものを横に振りセイは言う。
「静は、心がお優しい殿方であれば良いです」
と、静が言うと、
『しずは、われにもみえぬものまでみえるのが、やっかいぞ』
と、セイが言うが、
「静も見たくて見ているのではないのです」
と、静は人の澱が見えることを、セイは言うのだ。
『ひとのこのみぞ。あのよこしまなきをまとっておるのは』
と、セイは人間の邪鬼が、理を螺曲げて湧く物で、面白くないのだ。
「セイ様、草木や虫にばかりの時代は退屈だとおっしゃたではないですか」
と、静も前にセイが言ったことを蒸し返す。
『しず、そなたはしらぬからいえるのだ。くさきはすごいぞ、かたちはすこしちぢんだが、われのくにからついてきたときには、こんなにふえるとはおもわなんだ』
と、セイが人なら口を滑らせたということになる。
「セイ様、……セイ様、……セイ様が……」
『しずよ。われはいったであろ。このほしがこおっておったまえからきておったと。
ひとのこよりもそこのねずみもおらなんだわ。
ウズでたわむれておったのはそのころからで、このよはウズがすくなくなったぞ』
と、セイが言うことは、静には理解しようもない。
「静が慮っていても思惟のないことでした」
と、項垂れてしまったが、
『にしからくるものが、しずにとってよからぬものならとばすぞ』
と、セイがいつものように言うが、
「今は、西から来られる御仁よりも、京から来るお役人の躾をする準備がございます」
と、静が言うのは、豊穣祭事で奉納舞を舞う神事を、この白彦神社の巫女観たさに役に格を付けて、我が物顔で来る役人を躾るのだ。
『いつでもわれをよぶがよい。しず』
と、セイが言ってくれる。
「京のお役人は、静が躾ますので大丈夫です。体術一つの心得もない御仁ばかりが、屯しても母の志生でも手が空くでしょう」
と、静が言う。
「セイ様には、西からの殿方の品定めをお願いできますか?
眷属の殿方には山側の者に新しい血を入れてもらい、お役目を担う御仁が、心のお優しい方なら静は、子を成してこの地に魂を埋めます」
と、静がセイを見て言ってくる。
『しずよ。そなたのこんは、まだここにあるのか』




