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氷下輪舞(2)


 フィンランドの休日は穏やかに過ぎていった。フィンランドのクリスマス、フィンランド語で言うところのヨウルだが、それも経験することが出来たし、近所の人やハミニネン家の友人達との交流会のようなものもあった。近所といっても、一軒一軒がとても離れているので、かなり範囲が広いのだが。それから、トナカイを飼っている、サーミの友人という人の所にも連れて行ってもらったりした。

 冷え込んでよく晴れた日などは、昼間からダイヤモンドダストを見ることが出来た。そんな時は、何をするでもなく、ゆっくりと雪野原を歩いて回った。この辺りの雪は水分の少ない粉雪で、ブーツの底でグッグッと雪を踏みしめる感触を確かめるのも楽しかった。透明に近い、薄い蒼の空から差し込む弱々しい日の光を受けて、キラキラと光る輝きの中を歩くのは、なんとも言えず気持ちが良かった。外は氷点下十度を下回る厳寒の世界だったが、この美しい風景の中に自分の身を置く気持ち良さに比べれば、寒さもそう苦にはならなかった。

 そんな時、必ずオルガがエマについてきて、精霊の話をするのである。例えば、光の精霊はダンスをするのが大好きだ、とか、風の精霊はすまし屋さんだけど本当は優しいのだ、とか、森の精霊は結構いたずら好きで、不用意に森に入り込んだ人間を迷わせてしまうのだ、といった具合だ。始めは、奇妙なことを言う子だ、と思っていたエマも、だんだんオルガの話を聞くのが楽しくなってきた。この子にとっては、周りのもの全てが精霊なのだ。

 一度、からかうつもりで、

「精霊ってどこにでもいるの?例えば、ほら、この服とか。」

と言ってみたことがあるが、

「これにはいないわ。人間の作ったものだし、まだ新しいもの。よほど古い物なら、人間の作ったものからも精霊が生まれることはあるけど。」

と真面目に返されてしまって困った。

 精霊を見るにはどうしたらいいのか聞いてみたこともあった。もちろん冗談半分で。オルガは、

「心を真っ白にするの。目を閉じて、ありのままを受け入れるの。そして強く望むのよ。会いたいって。」

と言った。しかしいくら目を閉じて会いたいと念じてみても、エマには精霊の姿を見ることは出来なかった。




 雪の降る日には、家の外の、屋根のある所から、真っ白に染まっていく世界を見ていた。雪雲は雨雲と同じはずなのに、雪を降らせるというだけでずっと明るく見えるものだ。そんな雲から生まれて、木々も大地も家も、空も大気も純白に染め上げて、音もなく静かに降り注ぐ雪は、いつまで見ていても飽きなかった。時にはオルガと一緒に、目の前の雪野原でごろごろ転がって、半分髪を凍りつかせて帰ってきて、イェンニおばさんに呆れられたりしたが、雪で遊ぶよりも、真っ白な空から無限に降りてくる結晶を見ているほうが、エマは好きだった。

 雪は、水と光が一緒になって降ってくるものなんだよ、とオルガは言った。だからあんなに軽く舞うことができるのだと。夢見がちな子供らしい考え方だ、とエマは思った。でも、そういう見方も、素敵かもしれない、とも思ったのだった。


 暗くなってからはさすがに外には出なかったが、家の中は暖房がよく効いていて暖かかったし、薄暗く電灯をつける習慣には始めは戸惑ったものの、慣れてみると居心地の良いものだった。テレビなどの娯楽は少なかったが、ウルホさんやラーヤさん、それに時々はヨルマも加わって、フィンランドの歴史や昔話をしてくれた。

 寒い地方の人は口数が少なくて性格も強張っているものかと思っていたのだが、ハミニネン家の人々やその友人達を見ていると、決してそんなことはないようだった。もっとも、訛りが強くて何を言っているのか分からない人もいた。ウルホさんやラーヤさんも、英語はあまり得意ではないらしく、半分は何を言っているのか雰囲気から読み取らなければならなかった。だが、オルガの英語はもっと片言で、ほとんどジェスチャーで会話していたような気がする。まだ小学二年生なのだから仕方がない。

 そのうち、エマは奇妙なことに気がついた。普段はほとんど意味の分からないオルガの言葉が、精霊の話をする時だけは何を言っているのかはっきり分かるのである。いったいどういう訳なのだろう。精霊に関することだけは、ちゃんと英語を覚えたというのだろうか。おかしな子だ。




 クリスマスを終えて数日が経ち、新しい年に向けて静かに日が進んでいた頃のことだった。

 その日は、昼近くなるまで雪が降っていた。午前中、エマは雪の降る様子を屋根の下から眺めたり、時々外へ出て、空を見上げながらそこら辺を歩き回ったりしていた。そしてその側には、やはりオルガがいた。その日は風もなく、空を飛び出した雪の結晶達はバラバラな方向に吹き散らされることもなく、まっすぐ地上まで降りてきた。オルガは、はらはらと静かに落ちてくる雪や、何もいない空中を指差して、あそこで光と水の精霊が踊っている、とか、あそこでは光の精霊がくるくる回ってはしゃいでいる、とか、あそこには風の精霊がいる、とかいう話を楽しそうにしていた。すっかり慣れっこになってしまったエマは、面白そうに笑いながらそれを見ていた。

(あれ・・・・・?)

 一瞬、目の端に人影が映った気がして、空から雪原へと視線を戻す。しかし、この一面の雪野原には、自分とオルガ以外の人間はいない。確かに今、黄色い髪の白い服の人が、踊るように回っていたような気がしたのだが。

 少しの間に、雪は小降りになって、雲の切れ間から微かに青い空が覗き始めていた。少しずつ透明度を増していく風景の中にいるのは、やはりエマとオルガだけ。遠くの丘も、遠く離れる家々も、雪をかぶって真っ白になった林も、そして雪原も、一様に静まり返っていて、他に誰かがいた気配など微塵もなかった。

(・・・・・おかしいなあ。・・・気のせい?)

 エマは訝しげに首を傾げた。オルガの夢想癖が移ったのだろうか。エマがチラッとオルガを見ると、オルガもエマを見ていて、ニコニコ笑っていた。エマはなんだか複雑な気分になった。


 昼過ぎ、町に用事があると言う祖母と一緒に、セヴェリおじさんの運転する車に乗ってすぐ近くの町に出かけた。今回は、オルガはお留守番である。何軒かの店や郵便局に行った後、町の人達の溜まり場になっている店に立ち寄ったヨルマは、昔の知り合いに会ってすっかりそこに腰を落ち着けてしまった。セヴェリおじさんもその店に来ていた友人と話し込んでいて、エマはほったらかしだ。いつ終わるか分からない大人達のおしゃべりに退屈したエマは、先に帰ると断って店を出た。町からハミニネン家までは、歩こうと思えば歩ける距離だ。多少時間はかかるが、寄り道しないでまっすぐ帰るなら、とおじさんも許可してくれた。

 町の出口に立って、エマは町から出ている一本の道と、雪に覆われた白い林を見た。林を回り込む道を行けば、ハミニネンの家へ行ける。ハミニネンの家は林の向こうだ。林を避けて大きくカーブしている道を行くよりも、林を突っ切って行くほうが近いのではないかと思ったエマは、道を外れて雪に覆われた林の中に入っていった。

 林の中は意外と明るかった。葉を落として枝だけになった木々は、仄かに差し込む日の光を遮らない。ほとんどの枝は、雪がついたまま凍って樹氷になっている。常緑樹が混ざっているところでは、雪の重みで緑の枝が低く頭を垂れており、折れて下に落ちている枝も何本かあった。


 林に入ってしばらくした頃、エマは後悔し始めていた。林の中は、今までに積もった雪がそのままになっていて、非常に歩きにくい。入り口の辺りはまだ良かった。クリスマス・イヴの朝に、町の人達がツリーにする枝を探して踏み込んでいたので、そのぶん均ならされていたのである。


 しかし少し奥にいくと、どんどん雪は深くなって、当然のことながら道はなく、腰までは余裕にある雪を掻き分け掻き分け進む状態になっていた。自分の体を使って雪掻きをするなんて初めてだ。人間除雪車になった気分だった。そこで諦めて引き返せば良かったのだが、ここさえ抜けてしまえば野原に出るから楽になるはず、と変に意地を張ってしまったため、更に林の奥へと突き進んでいくことになった。おかげで、雪に嵌り込んで胸まで埋まりそうになったことも、一度や二度ではなかった。


 ようやく出口が近づいて、出口の向こうに一面の雪野原と幾つかの民家が見えてきた頃には、へとへとになっていた。体が重い。一歩一歩を踏み出すのがひどく億劫だ。雪の中を歩くのが、こんなに体力を消耗するものだとは思わなかった。


(失敗・・・したかな・・・)


 よろけそうになって立ち止まり、大きな溜息をつく。今は、すぐそこに見えている林の出口に辿り着けるかどうかさえ怪しくなっていた。さらにそこからハミニネンの家に帰る余力など、全くないような気がする。ちょっと近道、という軽い気持ちで林に入ったことを、エマは本気で後悔していた。


 再び歩を進め始めるが、歩いているというよりも、言うことの利かない機械を無理やり動かしているという感じだ。ブーツの中やジャケットの袖口から雪が入り込んで、足の感覚がほとんどなくなっている。足も手の先もすっかり悴かじかんでしまって、ほとんど感覚がない。それなのに背中は熱くて汗を掻いていて、不快感を高めている。頭の中まで酸欠でぼんやりしてきて、青みを帯びた雪をただ眺めながら、重い足を引き摺るように歩いていたら、雪に足を取られて転んだ。そしてそのまま雪の上にへたり込んでしまった。




「ばっかねえ。こんなとこに来るからよ。」


 唐突に明るい声が投げかけられた。


 エマはちょっと動くのも億劫で、ぼんやりした目で声の方を見た。そこには、明るい蒼の目をした、若い女の人がいた。癖のある長い金髪を上で一括りにしていて、ふんわりした白いジャケットを着て、スッキリした形の黒いズボンと暖かそうな白いブーツを履いている。


 その人はエマを見て笑っていた。すっきりと良く晴れた日の空のように青い瞳と、快活なその笑顔は、今のエマの気分とは不釣合いに明るかった。


 エマはその人に、なぜか違和感を感じた。その人の、明るい青の瞳と、輝くようなハッキリした金髪のせいだろうか。北欧の人は全体的に色が薄く、肌も髪の色も透き通るような白に近くて、瞳の色は少し灰色がかってくすんでいる、というのがエマの持っているイメージだ。北欧系にしては、その人の目は明るすぎ、髪の金色は濃すぎた。特にこの辺りの人は、元がアジア系だから尚更だ。しかしもう少し南の、純粋なゲルマン系にしては、その人の目鼻立ちはもう少しスッキリとしておとなしいように思えた。


 町の人だろうか。それとも観光客だろうか。少なくともハミニネン一家の知り合いではないと思う。大体、その人はいつの間に現れたのだろう。ついさっきまで、人の気配なんて全くなかったのだ。


 だが、今のエマは表に出して不思議がる気力もなくて、地面にへたり込んだままその人の事をただボーっと眺めていた。その人はエマの前までやってきて雪の上に座り込むと、エマの顔を明るい瞳で覗き込んだ。


「すっかり疲れきってるわねえ。返事をする気力もないんでしょ。」


「・・・・」


 その人の言葉を肯定するように、ぼんやりとした目でエマが黙り込んでいると、その人は可笑しそうに笑った。


「軽々しく森に入るもんじゃないわよ。人間が簡単に入り込める所じゃないんだから。冬の森は特にね。こんな所をウロウロしていたら、凍死しちゃうわよ。」


 エマはがっくりと首を垂れた。こんな大変なことだと知っていたら、林の中になど入らなかった。それにしても、この人は一体誰なんだろう。


「ほら、立って。帰るんでしょ。」


(・・・・・は?)


 エマがその人を見上げると、その人はもう立ち上がっていて、エマの腕を摑んで立たせようとしていた。エマはその人につられて、しぶしぶ重い腰を上げて立ち上がった。


(・・・・・・あれ?)


 その人に腕を摑まれて立ち上がってみると、見る見るうちに疲れが消えていくではないか。ほんの僅かな間に、ついさっきまでの重さが嘘のように体が軽くなっていく。エマは不思議な顔をしてその人を見た。その人は、エマの視線には全くお構いなしで、エマの肩に手を置くと、目的の家を指差した。


「ほら・・・」


 エマがその先にある家を見ると、ふっと景色が歪み、次の瞬間、遠くにあったはずの家の前に立っていた。


(・・・・・・・・・え?)


 何が起こったのか分からず、かなり長いこと身動きもせずに、いきなり目の前に移ってきた家の壁を見つめていたが、それ以上の変化は何も起こらず、ただ静かに時が流れていくだけだった。しばらくしてようやく周りを見回してみると、そこは間違いなくハミニネンの家の前だったのだ。


(・・・これは・・・気のせいじゃ、ない・・・よね・・・・)


 狐に摘ままれたような気持ちで呆けていると、オルガが部屋の中から窓越しに笑いかけているのが見えた。こんがらがった頭を抱えながら家の中に入ったエマを、ニコニコと笑うオルガが出迎える。


「光の王に会ったんだってね。」


「・・・・・・・・・は?」


「精霊たちが言ってたよ。光の女王がエマに会ったって。」


 オルガの言葉の意味を、混乱したままの頭で必死に整理していたエマは、オルガの言う“光の王”というのは、さっき森で会った女の人のことではなかろうか、ということに思い至った。


「良かったね。精霊王に会えるなんて、滅多にないことなんだよ。」


 それだけ言うと、オルガはアイロンをかけているイェンニおばさんのいる部屋に行ってしまった。残されたエマの頭の中は、前にも増して混乱していた。


(・・・何のこと?・・・・・なんで、あの人のこと、オルガが知ってるの・・・?)








 日はゆったりと、だが確実に過ぎて、ヨルマとエマがアメリカに帰る日が近づいた、ある日の夕方だった。朝からずっと空の様子を気にしていたセヴェリおじさんが嬉しそうに笑いながら、


「今夜はオーロラを見に行くぞ。」


と言った。隣でイェンニおばさんも


「今日は良く晴れているし、今夜は新月だから、良く見えるはずよ。」


と言っている。


 そういえばここは北極圏。オーロラを見るのには絶好の場所だということを、エマはすっかり忘れていた。アメリカに帰ってしまえば、次はいつ機会があるか分からない。エマは喜んでおじさんの提案にのることにした。


 夕飯後、ウルホとラーヤを残して、ハミニネン夫妻、オルガ、エマ、それにヨルマの5人は、おじさんの車で少し離れた所にある丘に出かけた。オーロラを見るには、出来るだけ人工の光が無い方が良いのだそうだ。その場所には、意外にも、エマ達以外の観客が何人もいた。最近は観光でやって来る外国人が増えているのだという。昔は、オーロラは不吉だと言ってわざわざ見ようとする人はいなかったんだけどね、とおじさんが教えてくれた。


 九時を回った頃だろうか。周囲のざわめきで空を見上げたエマは、思わず息を飲み込んだ。空の一角に現れた光の帯が見る見るうちに広がり、他の光と一つになって大きくなり、形を整えていく。空一杯に広がった七色のカーテンが、その色を変え、大きさを変え、形を変え、光の強さを変え、大地に覆い被さらんばかりに迫っては遠のく。圧倒された。感覚という感覚が全て切り離され、オーロラに包まれていくような気がした。


「オーロラはね、光と闇の精霊のダンスなの。」


 オルガの声が、どこか遠くから響いてくるように思える。光と闇のダンス。ああ、まさにそんな感じだ。


「ほら、あそこに赤い髪の闇霊がいて、黄色い髪の光霊と踊ってる。あ、あの光霊は薄い緑のドレスを着てる。見て、向こうで闇と光が輪を作って回ってるよ。・・・・あ、風もいる・・・」


 オルガはエマにだけ聞こえるような、囁くような声で話し続けた。エマは段々、オルガの言葉を真実と感じるようになっていった。オルガの見ているものを、自分も見たいと、本気で思った。精霊の姿を見たいと、真剣に望んだ。


 エマは目を閉じた。そして、強く願う。


(・・・会いたい・・・・・・・)


 一瞬、耳が痛くなる程の静寂が訪れた。


 次の瞬間、透明な笛の音が、張り詰めた空気を割ってエマの耳に届いた。空間を真っ直ぐに貫いて響く、凛とした氷の音色。エマはゆっくりと目を開けた。


 そこには、闇の夜空一杯に、七色に光る大舞踏会が繰り広げられていた。赤い髪、褐色の肌、金色の髪、銀色の髪、黄色の服、黒い髪、白い肌、灰色の髪、黒い服。ぼんやりした光からはっきり姿を見せているものまで、様々な姿の精霊が、この澄んだ空間を埋めていた。黄色や紫、所々に薄い青や深い藍の光。その強さも大きさも様々に、ついては離れ、輪になってはまた離れ、それぞれの光を纏って光の粒子を振り撒きながら、夜空を自在に舞っている。夜空に染み込むように吹き渡る透明な笛の旋律と、シャンシャン、と賑やかに響き渡る鈴の音に合わせて、さざめき笑い、彼らは踊る。それは今まで見ていたものより、遥かに美しい光景だった。オルガの言う通りだった。


 精霊達の踊りの輪の中に、一際目立つ存在があるのにエマは気付いた。


(あ・・・・・あの人・・・・・)


 一際強い、柔らかな黄色の光に包まれた、輝くような金髪と快活な笑顔。数日前に森で会った、あの謎の女性。


『光の王に会ったんだってね。』


 オルガの言葉が脳裏に蘇る。


『精霊王に会えるなんて、滅多にないことなんだよ。』


(精霊王・・・光の、王・・・・・・)


 その精霊は、同じくらい強い、妖しい紫の光を纏わせた精霊と踊っていた。凛々しい顔立ちの、黒髪の精霊。力強く、それでいて優しく、堂々としていて安定感がある。少し離れた所では、澄んだ青の光に包まれた、耳の長い薄青の精霊が笛を吹いている。そのガラスのような華奢な体から紡ぎ出される氷の音色は静かに響いて、世界の隅々にまで染み渡っていく。


 エマはオルガを見た。オルガは、いつもこんなに美しいものを見ていたのだろうか、という驚きと、少しの羨望を持って。


 その時、僅かな余韻を残して笛が止んだ。慌てて空を見上げると、七色のカーテンが大きく崩れ、闇空に散らばり、あるいは吸い込まれるように消えていくところだった。


「あ・・・・・」


 エマは初めて声を上げた。天上のショーの終了を惜しむ声を上げたのは、エマだけではなかった。オーロラは現れるのも突然だったが、消えるのも早かった。ほんの十五分程のことだったと、後で知った。後には、冴え渡る大気の中、揺るがない光を放つ無数の星々で埋め尽くされた夜空だけが残っていた。


 地上では、オーロラの感動を語り合う人々が帰路につこうとしていた。人間達のざわめきの中に戻ってみると、ついさっき自分が見たものが、現実だったのか夢だったのか、分からなくなってくる。恐る恐るオルガに見たことを告げると、オルガは嬉しそうに、それは間違いなく精霊だ、と言った。それが彼らの本当の姿なんだ、と。それでもエマは、自分の見たものに自信が持てなくて、大人達には何も言わなかった。


 ただ、あの例えようもない美しい光景は忘れることが出来ず、もう一度精霊が見たいと、何もない空中に、夜の闇に、蝋燭の灯火に、目を凝らすようになったのだが、それからエマが精霊を見ることは、二度となかった。


 フィンランドの冬休みは、その二日後に終わった。








「それから、どうしたの?」


 エイミはいつの間にか身を乗り出すようにしてエマの話を聞いていた。エマは穏やかに笑っていた。


「アメリカに帰って、それまでと同じ生活に戻ったわ。」


「精霊は、見れた?」


 エマは、フィンランドでの不思議な体験を思い起こし、一つ一つ、言葉を噛みしめるように語った。


「いいえ。あれ以来、一度も見てないわ。精霊を見るのは、とても難しいことなの。ほんの少しでも疑問を持ったり、羨む気持ちや憎む気持ちを持っていたら、絶対に姿を見せてくれない。心を真っ更にしないと、精霊には会えないの。それって、なかなか出来ないことなのね。」


「オルガはいつも見ることが出来たんでしょう?」


「オルガはね。でも、オルガと私とでは決定的に違うところがあるのよ。」


「違うところ?」


「そう。オルガは精霊を当たり前のものと思っていたわ。空気と同じ、周りにいて当然のものだったの。特別でも何でもない。だからいつも心を真っ白に出来る。でも私は、違う。精霊は、特異な存在だわ。いつも、どこかに疑う気持ちを持ってしまう。十五になるまで、精霊というものが存在するなんて、考えたこともなかったからかしらね。」


「でも、エマも見たんでしょう?」


「・・・一度だけ、ね。あの時は・・・あの時だけは、なぜかオルガの言葉をすんなり受け入れることが出来てね。今考えても不思議なくらい、何の疑問も持たずに。・・・今でも時々、夢を見ていたんじゃないかって思うこともあるの。本当に、夢の中の出来事みたいでね・・・」


 そこまで言って、エマはふっと笑みを漏らした。


「“オルガ”というのはね、スカンジナビアの古い言葉で、“聖なるもの”という意味だ、っていう話もあるの。本当かどうかは知らないけどね。でも、オルガの名前を希望したのはラーヤさんだというから、ラーヤさんはそれを知っていて、オルガという名前をつけたのかもしれない。あの子が、ああいう子だということが分かっていたのかも。」


「オルガは今でも精霊が分かるの?」


「そうみたいよ。この間手紙が来たわ。十五歳になっても、あの子は相変わらずね。」


 エマは懐かしむように目を細めた。


「私にも、見えるかな・・・」


 エイミがポツリと呟いた。エマはエイミを見てにっこり笑った。


「運が良ければね。」


 そのとき、車が家の前に止まる音がした。


「帰っていらしたみたいね。」


 エマは、グラント夫妻を出迎えるために下に降りていった。エイミは、エマの不思議な体験談を聞いて、少し興奮していた。


 それからエイミは、時々何も考えずに、ぼんやりと外の景色を眺めるようになった。今にもそこに、何かが現れてくれるような気がして。








 エマは家に戻ると、棚の上の写真立てに写る祖母に笑いかけた。祖母のヨルマはフィンランドから戻ってすぐに体調を崩し、一年後に帰らぬ人となった。どうやら祖母は、命の期限が近づいていることに、気付いていたようだ。それで、長いこと離れていた故郷に行ってみようと思いたったのだろう。自分が育ててきた孫娘と一緒に。


 祖母は、エマに見せたかったのかもしれない。自分の故郷、凍りつくような寒さと、そこに生きる暖かい人々、自然の見せる美しさと厳しさ、そして、不思議な力を持つ子オルガと、その素敵な友人達を・・・


 カーテンを引くために窓辺に近づいたエマは、人工の灯りが幾つも灯る住宅地の夜を眺めた。夜は静かに更けていく。窓辺に灯る灯りの分だけ、それぞれの物語を包み込みながら。



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