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迷いの森(2)


「処理が遅いぞ。何年この仕事をやっとるんだ。」

「はあ。ですがこれは、これが精一杯でして・・・。」

 射抜くような社長の目に、トマスは口をつぐんで視線を落とした。こんな時は何も言ってはいけない。余計なことを言えば、ますます怒らせるだけなのだ。ジェイムズはそんな部下を、苛立ちを露わにして見ていた。少々小太りな分、ジェイムズより大柄に見えるこの部下が、ジェイムズに睨みつけられて縮こまっている。普段なら気にも止めないそんな様子が、今は大いに彼の感情を波立たせた。

「もういい。次の仕事に移れ。」

 苛立たしげに声を荒げて、ジェイムズはくるりと背中を向ける。トマスは、それ以上社長の怒りを買わないように、できるだけ感情を排した声で、「Yes」とだけ言うと、最後まで気を抜かないように、静かに部屋を出て行った。


(・・・やれやれ。)

 社長室のドアを閉めて数歩離れてから、ようやくトマスはホッと息を吐き出した。それからいったん社長室の方に視線を送り、また背を向けて歩き出す。そして社長室でのやり取りを思い起こして、大きな溜息をついた。

「やあ、トマス。どうした、そんな溜息なんかついて。社長に何か言われたか?」

 トマスが疲れた顔で振り返ると、快活な笑顔を浮かべた初老の男が大股で近づいてくるところだった。トマスは苦笑した。

「やあ、ウィリー。お察しの通りだよ。」

 ウィリーと呼ばれた男は、トマスの肩に軽く手を置いて歩くように促すと、並んで歩き出した。トマスとは異なる部署にいる人間だったが、ウィリーも会社の古株で、役員の一人である。

「で?社長にどやされるどんな問題を起こしたんだい?」

「とんでもない。」

 笑いながら問い掛ける友人に、トマスはあからさまに渋い顔を作って答える。ウィリーがそれを見て笑い出す。答えなど聞かなくても分かっているくせに、ウィリーはトマスが不機嫌になると分かっていてわざとつついたのだ。この友人は時々こういう意地悪なことをする。悪い人間ではないのだが。

 トマスは憮然とした顔で、大仰に肩を竦めて見せた。

「私は、自分の仕事はきちんとこなしているさ。何も問題なんかあるものか。社長は何もかもが気に入らないだけなんだ。」

 ウィリーは笑いながらトマスの肩を叩いた。

「分かってるさ。そう不機嫌な顔をするな。」

 誰が不機嫌にしたんだ、と言いたげな目で見るトマスに構わず、ウィリーは顔を近づけて、声を抑えて話を続けた。

「最近、社長はご機嫌斜めじゃないか。」

 トマスは憮然としたまま、ふむ、と頷いた。

「ああ、前からそうだったがね、最近は特にひどい。」

「やはり、あれか?あの開発中の森の件が原因か?」

「・・・だろうな。」

 三十年近くこの会社で働いて、社長との付き合いも随分となるが、機嫌の良い社長など今まで一度も見たことがない。怒っているか、仏頂面をしているかである。

 それにしても、ここまで理不尽に機嫌が悪いところも、見たことがなかった。社長はあくまでも合理的な考え方をする人だから、理屈に合わないこと、経営に差し障りがあることに対しては容赦なく対処したが、決してどうでもいいところで無駄に叱りつけたりする人ではなかったのだ。

 それが、あの森を開発すると決めたあたりから、どうも様子が違ってきた。常に苛々した様子で、些細なことを取り上げては、その場にいた運の悪い者に小言を言うようになったのだ。最近では、普通に仕事をしているだけでも文句をつけるようになっている。

「社長にも困ったよ。もっと冷静な人だと思っていたんだがね。」

「私だってそうさ。たかが森一つ。そう神経質になることでもないだろうに。」

「その、たかが森一つが、社長にとっては重いのさ。だからって社員までとばっちりをくうのは、堪らないがなあ。」

「それももうすぐだろ?整地がようやく終わるんだったな。」

「ああ、ずいぶんと手間取ったが、ようやくね。」

「それで一段落つくし、社長の機嫌も戻るんじゃないか?ここまで来れば、後はホテルを建てるだけだからな。」

「そう願うね・・・」




 ジェイムズは社長室のどっしりした革張りの椅子に腰掛けて、よく磨かれて艶の出た重厚な机を眺めていた。眉間に刻まれた皺は深く、鋭く細められた目は、ここではないどこか遠くを見ているようでもある。トン、トン、と肘掛を軽く叩いていた指を止め、ジェイムズは、フン、と鼻を鳴らした。

 苛立たしい。何がこんなに苛立ちを覚えさせるのか、ジェイムズ自身にも分からないことが、余計に腹立たしかった。いや、本当は分かっていたのかもしれない。しかしそれは、彼の根本に関わること、何十年もかけて作り上げてきた彼の根幹に関わることだったから、認めたくなかったのかもしれない。

 コンコン、とドアをノックする音がして、彼の秘書である、中年を過ぎた女性が入ってくる。

「社長、お時間です。」

「・・・・うむ。」

 部屋から出ると、役員を始めとした社員が何人か並んでジェイムズを待っていた。今日の視察に共に来る者達だ。若い社員はもちろんのこと、ジェイムズとほぼ同年輩の役員までが、彼と直接目を合わせるのを避けて押し黙っている。その理由は至極簡単なことだった。彼らは、社長の怒りの矛先が自分に向けられるのを恐れているのだ。不用意な発言や態度で、気難しい社長の勘気に触れることを警戒している。

 しかし以前は、ここまでではなかった。ジェイムズはワンマンだったが、経営にとってプラスになることならばどんなに下っ端の社員の意見でも聞き入れたし、何十年という付き合いである古い社員とは、個人的な話をすることだってあったのだ。

 理不尽に苛立ちをぶつけているという自覚は、彼にもある。しかし原因の分からない苛立ちは抑えがきかず、切っ掛けさえあれば誰彼構わず向けられた。社員は皆、いつ自分に向けられるか分からないそれを恐れ、口を(つぐ)んで、自分がそれを引き出す切っ掛けを作らないよう気を配るようになっていた。

 今や、変わらない態度で接してくるのは、秘書のベティくらいのものだ。物静かで落ち着いた物腰の彼女は、ジェイムズがどんなに苛ついている時も、どんなに険しい目をしていても、全く臆することなく冷静に自分の仕事をこなす。彼を恐れずにものが言えるのは、長年秘書を務めてきたこの女史だけだろう。

 いや、少し、違う、とジェイムズは思い直した。ベティは、他の誰よりも素早く彼の様子を把握する術を身につけている。ジェイムズの機嫌が悪い時は、決して目を合わさない。必要以上の事は言わない。必要以上に近づかない。それだけなのだ。本当に彼を恐れなかったのは、彼の目を真直ぐ見ることが出来たのは、ここ数十年ではあの少女一人しかいない。

 ジェイムズの脳裏に、ふとあの姿が浮かんだ。霧の中、金色の竪琴、長い黒髪、深く輝く、琥珀の瞳・・・。夏の休暇のほんの数日間、それも早朝の短い時間しか会わなかったのに、妙に心に残っている。あの瞳が、瞳の奥にある光が、そして彼女の語った言葉が、彼の心の奥深くに楔のように打ち込まれて、時々何かの拍子に思い起こされる。その度に、何か落ち着かないものを感じて、ますます眉間の皺は深く寄せられるのだ。あれからもう、一年以上経つというのに。



「社長、見えてまいりました。」


 比較的年のいった中堅の社員が、恐る恐る声をかけてくる。ヘリに乗って上から見下ろしているのだから、言われなくても目的地が近づいたことは分かるのだが、ジェイムズは何も言わずに首だけを動かして目的地の森を見つめた。


 機内の緊張が少し緩んで、皆がホッと息をついているのを感じる。社の屋上からここまで数十分という短い時間だったが、不機嫌な社長の前では社員が勝手に会話を交わすことも出来ず、皆が皆、ずっと押し黙ったままだったのだ。ジェイムズはそれでも構わなかったが、一緒にいる社員にとっては窮屈だったようだ。


 森は一部分が切り開かれ、畑と農場からぽっかり浮かんでいるような、こんもりとした緑の中に、不自然に切り取られた茶色い空間が見えた。ジェイムズは不思議な気分でその光景を見つめた。この森を、彼は良く知っていた。手に入れたのは、ほんの五年前。しかし彼は、それよりずっと昔に、この森でよく過ごしたのである。もう、数えることも出来ないくらい、多くの時間を。そのくらいここにはよく来たが、こうやって上から眺めるのは、初めてではないだろうか。




 ヘリから降り立つと、現場の責任者と社員だという男が数人、ジェイムズ達を出迎えに来ていた。責任者の男は、愛想笑いを浮かべてなにやら言っていたが、現場監督と紹介された男は、無愛想な顔で軽く頭を下げただけだった。


 不思議なものだと思う。自分に近い立場の者ほど一様に顔色を窺ってくるが、現場に近い者ほど媚こびはなくなっていく。それが不快と感じることもあれば、この男のように頑固な職人の雰囲気を漂わせている者には、かえって感慨すら覚えることもある。


「では、こちらへどうぞ。」


 責任者の男に促されるまま、社員を引き連れてジェイムズは森の中に入った。勢い良く茂った木々から、柔らかい木漏れ日が零れ落ち、心地良い風がそっと吹き抜けていく。工事のためにやや拡張された道は未舗装で、茶色い土が剥き出しになった上には轍わだちの痕が残っている。狩場場として昔から使われてきたこの森には、馬や馬車の通る為の道がこうして一部に作られていた。


 少し、変わったか、と思う。五年前に来た時には感じなかったが。工事で手が入ったのだから、当たり前ではある。何十年も前の、子供の頃と同じであるわけはない。




 そう、子供の頃。父と母と、三人の時間を持つことが許されていた頃。ここは彼の森だった。正確にはブラッケンベリ公爵家のものだったのだが、ここが狩りに使われることもあまりなくなって、この森を好んだ父が、母とジェイムズとの自由な時間を過ごす為に使っていたのだ。寄宿学校に入るまでは、いや、入ってからも長期休暇の間は、ジェイムズはここで両親と過ごした。母が亡くなる十三の年までは。


 それからのジェイムズは、学校では規律に従うことを教わり、休暇の間はあの暗く重苦しいブラッケンベリの館の中で、次第に祖父の色に染められていったのだった。しかしそれを苦痛に思ったり、恨んだりしたことはない。


 考えてみれば、祖父は公平な人だったのだ。厳格で頑固で、優しい言葉をかけたり褒めてくれたりしたことなど一度もなかったが、それは誰に対してもそうだった。兄と自分に対する態度の違いは、後継ぎとそうでない者の範囲に止められたものだったし、義母や親戚一同の冷ややかな視線の中にありながらも、ジェイムズが変に抑圧されずに済んだのは、祖父がジェイムズを孫としてきちんと扱っていたからだった。


 それでも、幼い頃のジェイムズにとって、誰の目を気にすることもなく、自分を完全に解放することが出来たのは、両親と三人だけになれるこの森だけだった。木の根が張り出した斜面を駆け上り、大きな岩によじ登り、大きな木の枝にブランコを吊るし、透明な水を吐き出す泉を眺めながら、母が語る古い時代の話を聞き、大小様々な石に阻まれた水が、清涼な流れを作る川で父と釣りをして、昔多くの騎士や貴族が狩りを楽しんだ森の小道を、父の操る馬に乗って駆け抜けた。ここには、屈託のない笑顔があった。この森には、笑顔だけがあった。少なくとも、ジェイムズの記憶ではそうだった。




 時々横を向いて森の中を覗き込んだり、木々の梢を見上げたりしながらゆっくり歩いていたジェイムズの足が、一旦止まった。その視線は、正面に向けられている。


 そこには、森のはずれがあった。道の両側にあった森が切れて、茶色い広場が見えている。再び歩き出したジェイムズの目に、徐々に明らかになる広場の様子が見えてくる。何もない、土だけの大地。何もない、木々の向こうに透けて見える空間。


 そこには、深い緑に囲まれた、広い広い空き地があった。切り出された丸太が所々に積み重ねられ、工事用に運び込まれたダンプやショベルカーが、不自然な印象を与えている。


 ジェイムズは視線を上げた。空がやけに広い。


 ジェイムズは目を細めた。日差しが、やけに眩しい。


 ジェイムズは、真っ更な空き地を眺めた。何かが、足りない。何かが、違う。なぜか、悲しい。・・・悲しい?なぜ?


 隣で誰かが何かの説明をしているが、そんなものはもう、ジェイムズの耳には入っていなかった。ジェイムズは目を泳がせて、何かを探していた。それが何なのか、はっきりと分かっていたわけではない。ただ、彼が無意識に求めた、彼に安心感を与える、何か。しかしその何かは、この視界のどこにも見当たらない。




 そしてジェイムズは、気付いた。何が足りないのか、何が違うのか、なぜ、悲しいのか。


 ここには、見慣れた木々がない。浅く続いた起伏も、生い茂る下草も大岩も、木々の間から差し込む日の光もない。見慣れた風景が、ここにはない。ここはもう、彼の森ではなくなっていた。


―――あの森は、どこへいったのだ。あの森は、どこだ・・・。


 見覚えのある森の姿が、どこにも見えない。それを招いたのは、紛れもなく、自分自身だった。


 この森は、彼の森だった。父と母と過ごした、思い出の場所だった。ブラッケンベリ家がここを手放して、ある会社が所有者となったとき、あらゆる手段を講じて無理やりに取り返したのは、企業家としての計算だけが理由ではなかった。この土地は渡したくなかった、他の誰にも。ここは・・・この森は、彼の心の、故郷だったのだ。




 つ、と流れる涙を隠すように、霧が流れる。ふと気付くと、一瞬の間に、彼は霧の中に包まれていた。頬を伝っていく涙を隠そうともせずに、彼は苦い笑みを漏らす。霧の向こうに、消えたはずの森があった。彼の目に焼きついた、見覚えのある懐かしい森の姿が。


「幻を、見せるのか・・・?」


 泣き出しそうな顔で、自嘲の笑みを貼り付けたまま、霧の中に呼びかけた言葉に、あの少女が姿を現した。金の竪琴を抱え、長い艶やかな黒髪に微かな輝きをみせる髪飾りをつけ、深い緑を身に纏う、琥珀の瞳の少女。その横に、銀色の毛と翡翠色の瞳の狼を従えて。


 少女は静かに微笑んでいた。怒りも悲しみも、責めるような色もそこにはない。ただ、静かな笑みだった。


「ようやく、気付いたのだな。・・・少し、遅かったようだが。」


 少女の言葉は、穏やかだった。ジェイムズは、湖畔の霧の中で語られた少女の言葉を思い出していた。


「迷い、とは、このことか。私が迷っていたのは、この森のことか。」


 ジェイムズは更に自嘲の度合いを強めて問うた。少女の無言の笑みは、肯定を表していた。


「この森を切り開くことを、この森を壊してしまうことを、私が心の奥底では迷っていたと、そういうことか。」


「この森は、お前にとって、かけがえのない場所だったはずだからな。」


「知っていたのに、教えてはくれなかったのか?」


 少女は笑みを保ったまま、軽く首を傾けた。期待していたわけではなかったが、少女の答えは予想通り、甘くはなかった。


「お前が、自分で気付かなければならないことだ。違うか?」


 当然のことだった。自分の行動の責任を誰かに背負わせようとする甘えは、彼は持ち合わせていない。これでも、実業家として数十年、厳しい世界を渡ってきたのだ。ジェイムズは笑ったまま、目を伏せて頷いた。


「ああ、その通りだ。」


 答えながら、涙が出てきた。口元は笑ったままだったが、目から溢れ出る涙は、止めることは出来なかった。


 忠告は、してくれた。気付かなかったのは、気付こうとしなかったのは、自分だ。心の奥底で、この森を求め、傷つけることに抵抗していたのも、自分だ。しかし、実業家としての意地で、家の力でなく自分の力で生きてきたという自負を保つために、それらを無視したのも、紛れもなく自分自身だ。他の誰のせいでもない。


 無意識に植え付けられていたコンプレックス。それを覆い隠すため、ひたすら有能な経営者であろうと、冷徹で合理的な人間であろうとした。そのために、本当に守らなければならないものを失ったとしても、気にも止めずに。若くして亡くなった両親との思い出。歩み寄ろうとしてくれていたのに、目を背けてしまった兄との対話。冷え切ってしまった妻子との関係。心が遠く離れてしまった友人達。そしてついに、この森・・・。これは、ジェイムズ自身が、招いたことなのだ。


 ジェイムズは顔を上げた。涙で歪んだ視界に、変わらぬ笑みを湛えた少女がいる。


「なぜ、そんなふうに、笑っていられるんだ・・・?」


 この少女は、おそらく森の妖精。間違いなく、森を守る立場にいる存在だと、ジェイムズは感じていた。だからこそ、不思議だった。森を一つ傷つけようとしているジェイムズの前に現れながらも、謎めいた忠告をしたのみでそれ以上に手を出そうとはしなかった。森を壊してしまったジェイムズの前に今こうして現れながら、ただ静かに微笑むだけで責めようともしない。少女の考えが、ジェイムズには分からなかった。


 少女が、ふっと笑った。


「お前はもう、分かっているから。」


 その顔には、今までには無かった感情が表れていた。それは悲しみなのか、悔いなのか。


「本当に失ったものが何なのかを、お前はもう分かっている。」


 ・・・いや、違う。哀れみだ。少女はジェイムズを哀れんでいた。


「森を傷つけたことで、お前は自身の心の拠り所を、失ってしまったのだ。」


 ジェイムズは苦い笑みを浮かべて、首を振った。心の故郷。それはどんな苦境にも立ち向かう力をくれる支えであり、自身を確立する為の拠り所でもある。それを失うことが、これほど堪えることだとは、こうなってみるまでは、思いもしないことだった。ジェイムズは、力なく首を振った。




「・・長・・・社長・・・・・社長?」


 訝しげに自分を呼ぶ声に、ジェイムズはゆっくりと振り返った。彼に従っていた社員が、不思議そうな顔で見ている。周囲を覆っていた霧も森も、消えていた。彼の頬を伝っていたはずの涙も、消えていた。あの涙も、幻の中のものなのか。顔には出さず、心の中で自嘲の笑みを漏らす。彼は再び、眩しすぎる日差しの下、消えた森の上に立っていた。








 残された森の中を、少女は銀色の狼を従えてゆっくりと歩いていた。普通の人間には、その姿は見えない。森の精霊の王フィリス。それが少女の名だった。ジェイムズの予想は、ほぼ当たっていたのである。


 少女は傍らの木にそっと触れて、その息吹を感じ取る。木々の向こうには、剥き出しになった大地が見えていた。この森も、いずれ力を失う。今はまだ保たれていても、開かれた土地から確実に森は蝕まれていく。木は生えていてもそこに樹霊は宿らず、木の集合体はあってもそこに以前のような溢れる生命力はない。それが、森が失われるということ。


 そっと木から手を離して歩き始めたフィリスの前に、木の影から少女が飛び出してきた。柔らかそうな茶色の髪に黒い瞳、琥珀のペンダントと草色の短衣。それは樹霊であった。森の王が束ねる一族の者である。少女は勝気そうな瞳を、真直ぐに自分達の王に向ける。


「王。・・・この森は、消えるのでしょうか。」


 森の王は微かに微笑んだ。深みのある琥珀の瞳には、僅かに鋭い光が垣間見える。


「幾らかは残るだろう。が、以前のようには、いくまい。」


 フィリスは再び歩き出し、銀狼がその横に、樹霊の少女はその後について歩く。フィリスの目には、幾分かの厳しさがあった。ジェイムズを許しはしたが、彼の行為の結果を許容したわけではない。森の王であるのだから、森が傷つき消えていくのを良しとしないのは、当たり前である。


「ならばなぜ、お止めにならなかったのです。その気になれば、彼らに災いを与えて止めさせることも・・・」


 フィリスが突然立ち止まり、少女も抗議を中断させて立ち止まる。フィリスはゆっくり振り返り、少女の黒い瞳を真直ぐ見据えた。


「忘れるな。我々は、神ではないのだ。」


 その一言で、少女は沈黙した。精霊は、支配者として君臨しているのではない。あくまでも、世界の秩序の構築者なのだ。自らの作り出した秩序を維持し、その中で生きるものを守る。だが、逆らうからといって無闇に制裁を加えたりはしない。それが決まりだ。精霊ならば、誰でも知っていることだった。王の言葉は、少女にこの原則を思い出させた。


 それでも納得しかねると目で語る少女を、深みのある琥珀の瞳で静かに静めていく。少女の勝気な瞳がうなだれると、フィリスは目の力を緩めた。そして少し声の調子を変える。


「手を出してはならない。それで何が起こったとしても。それが我々の秩序の根幹を揺るがさぬ限りは。・・・だろ?ヴァラル。」


 王の口から飛び出した水の王の名に、樹霊の少女は驚いたように顔を上げた。森の王が視線を送る先の木陰から、群青色の長い髪を無造作に纏めた、藍色の瞳の青年が現れる。水の王ヴァラルである。いつも闊達な笑みを見せるこの青年王が、今は憮然とした面持ちで、不機嫌そうにしている。


「・・・まあ、な。気にいらねえことではあるが。」


 ヴァラルは不満そうな目を空地の方に向けて呟いた。


「あの野郎、泉を潰しやがった。これでこの辺りの水の流れが変わるぞ。」


「・・・・・そうか。」


「森も変わるぜ。」


 フィリスに視線を戻しながらヴァラルが言う。


「水が変われば、森も変わる。そういうもんだろ。」


 フィリスの顔に、ゆっくりと笑みが広がる。望まぬ覚悟を決めた者の、哀しい笑み。


「決まりとはいえ、腹立たしくないか?」


 フィリスは黙ったまま微笑んでいる。ヴァラルは挑戦的な瞳を向けながら、更に、畳み掛けるように言葉を続けた。


「今度のことで悟ったのは、あの男だけだ。他の奴は変わらねえぞ。」


「・・・何が言いたい?」


 微笑んだまま、フィリスが口を開く。今度はヴァラルが口を閉じた。二人の間に、目に見えぬ会話が交わされる。僅かの後、フィリスが、ふっと笑って目を閉じた。


「流れが変わる。知らぬうちに、周りが変わっていく。それが彼らにとっては、災いとなる。全ては、流れのままに。」


 ヴァラルは軽く溜息をついた。予想通りの答えだ。


「消極的だな。相変わらず。」


 フィリスはやや悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「森は奥ゆかしいのさ。水は時々癇癪を起こして暴れるようだが。」


「ほっとけ。」


 軽く膨れて見せて、水王はそっぽを向いた。


「ま、いいさ。俺たちは、神じゃねえ。」


 嘯うそぶいてみせる水王を見て、フィリスは笑った。




 全ては流れのままに。流れゆくままに。それが彼らの秩序の中にある限り、行き着くところは、決まっているのだから。




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