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迷いの森(1)

実業家として成功したジェイムズは、霧の中で金色の目の妖精と出会う。告げられた言葉は、ジェイムズにとって意味の分からないもので・・・

19900字、41分


 白い。

 しっとりと湿った空気が丘の表面を流れていく。


(霧が、出てきたな。)

 ジェイムズは立ち止まって、自分の立っている場所を確認しようとした。見る間に白さを増していく視界の端に、ホテルの赤茶色の屋根を認めて、彼はしばらく思案した。ホテルからは、まだそう離れてはいない。霧が出ていても、迷う距離ではないだろう。折角出てきたのだから、もう少し歩いてみようか。

 ジェイムズは、ホテルに背を向けて再び歩き出した。乳白色の柔らかい空気が、幾分白いものが混じった髪や、皺の刻み込まれた顔を撫でていく。早朝の湖畔には誰もいない。静けさが彼を包みこみ、視界を遮る霧が、俗世間の騒々しさや煩わしさから、彼を切り離して隔離する。今の気分には、合っている。

 露を含んでしっとりと濡れた草を踏み分けながら、緩い丘の斜面をゆっくりと歩いていく。湖を囲む丘には、ほとんど木は生えていない。一面の草原と、点在する白い岩があるだけである。それでもこの季節は、緑の絨毯を敷き詰めたような風景の中に、色とりどりの花が咲き誇り、暗い北国に束の間の安らぎをもたらしているのだが、それもこれも、今は深い霧に覆われてしまって何も見えない。足下に、僅かに緑の草地が覗き見える程度である。


 ジェイムズは、ふと足を止めた。何か、聞こえたような気がしたのだ。ビイン、と響く、低い音。次いで、ハープでも掻き鳴らしているような、柔らかく弦を弾く音。その音に向けて、再びゆっくりと歩を進めていく。ゆったりした旋律に合わせるように、ゆっくりと。

 唐突に音が止んだ。ジェイムズも足を止めた。音の聞こえていた方向をじっと見つめている彼の前を、濃淡のある白い空気が静かに流れていく。ジェイムズの細い目が僅かに見開かれた。一瞬だけ薄れた霧の向こうに見えたその姿。白い石の上に腰を掛けてこちらを見ていたそれは―――。

(妖精・・・)

 一瞬だけ見えた、金色の目。すぐに霧に隠れたそれを、しばらく呆然と見遣ってから、ハッと我に返った。

(なにを馬鹿なことを。妖精などと。)


「お帰りなさいませ。ブラッケンベリ様。」

 ホテルのボーイが丁寧に頭を下げる。小さなホテルだが、上流の客を迎え慣れているためか、教育はしっかりしている。貴族の生まれであり、大会社の社長であるジェイムズは、そんな彼らにとっても上客に違いなかった。

「お食事をお部屋へお持ちしましょうか?」

「うむ。頼む。」

「かしこまりました。」

 卒のない身のこなしで、ボーイはその場を立ち去ろうとする。ふと、何の前触れもなく、ジェイムズの脳裏に金色の目が掠めた。霧の向こうにチラッと見えただけの、あの目が。

「君。」

「はい。」

「この辺りに、妖精の言い伝えはあるかね。」

 意外なことだった。考えるより先にこんな言葉が口をついて出てきたことも、こんな質問をしているのが紛れもなく自分自身だということも。しかしボーイは少しの動揺を見せることもなく、然るべき質問に対する当然の返答をするかのように、至極真面目に答えた。

「申し訳ございません。私は存じませんが、もしお望みでしたら・・・」

「いや、いい。気にしないでくれたまえ。朝食を頼む。」

 ボーイの言葉を遮るようにしてこの話を終わらせる。ボーイは黙って頭を下げて去っていった。その表情からは何も窺い知ることは出来ない。まるで、何事もなかったかのようだ。彼が仕事に徹しているためだろう。あれがプロというものだ。何気なくそんなことを考えながら部屋へ向かう。

 どうも、馬鹿げた発言をしてしまった。妖精の言い伝えなど、このブリテン島の至る所に溢れている。古い時代の信仰がキリスト教に取り込まれ、形を変えて残ったものだ。珍しくもない。だがあれでは、私までもがそれを信じているみたいではないか。妖精など、被支配者層の無力な人間達が信じるものだ。全く、馬鹿馬鹿しい。

 部屋に戻ると、ジェイムズは真直ぐ窓に向かっていった。背の高い窓からは、本当ならすぐ前の湖と周りを囲む丘の風景が見えるはずなのだが、今はまだしっかり霧が立ち込めていて外は真っ白のままだ。良いことも嫌なことも、全て覆い隠してくれはするが、先の見通せない不確かで不安定な世界。こんなだから、ありもしない幻影を見たり、何かを別のものと見間違えたりするのだ。

 ジェイムズは窓に背を向けた。ソファに座ろうとして、目の端に自分の姿を捉える。そちらに顔を向けると、鏡に映った自分の姿があった。ジェイムズは、鏡の中の自分の顔をまじまじと見つめた。年の割には細いままの顔には、だが皺が着実に刻まれつつある。きっちり整えられた髪には白いものが混じり、元は黒髪だったのが、灰色か銀色のようにも見える。太い眉と整えられた口髭。細められた目に鋭く見据える青い瞳。頑固そうに結ばれた口元。

――――『くだらん。妖精の話なぞ。』

(似てきたか・・・。あの祖父に・・・。)

 もう少し顔に丸みを持たせて髪を薄くしたら、そっくりかもしれない。いや、外見だけではない。むしろ、

――――『いつまでそんなことを言っとる。そんなものはおらん。馬鹿馬鹿しい、妖精など。』

そう、むしろ、その考え方。

――――『そんなものは庶民の信じるものだ。』

 代々公爵家という、支配者階級に生まれた父方の祖父は、よくそんなことを言っていた。それというのも、“庶民”だった母方の祖父母が、幼かったジェイムズによく妖精の話をしていたせい、というのもある。


 ドアをノックする音で、ジェイムズの思考は中断された。ボーイが朝食を運んできたのだ。手早くセッティングを済ませると、チップを受け取ってボーイは下がっていった。朝食に添えられて、アイロンで伸ばされた、皺一つ無い新聞がある。いまだにこういうことを望む人間がいるのは確かだが、ジェイムズはさして感慨も持たずそれを手に取る。こういうところは祖父とは違う。祖父は形式や格式を重んじるタイプだったが、ジェイムズは名より実を取る。無論、利用できる名なら利用させてもらうが。

 食事を終え、食後のお茶を飲みながら新聞のページをめくる。その手が、経済面のある場所で止まった。口はいつもよりさらに固く結ばれ、目は細さを増す。そこには、彼を少なからず不快にさせる記事があった。彼は憮然とした面持ちで電話の受話器を取ると、本社で留守を預かっているはずの部下につながせた。窓の外に目をやると、ようやく霧が晴れてきて、夏のスコットランドにふさわしい、爽やかな青い空と澄み透った青い湖面、目に鮮やかな緑の丘陵が姿を見せつつあるところだった。



「いつまでてこずっておるんだ。」

 電話の向こうから、少しくぐもったボスの声が聞こえる。

「申し訳ございません。話し合いは進めているのですが。」

 電話を受けた役員のトマスは、少々緊張した様子で受け答えをしていた。相手が社長だからといって、大きな失敗をしたわけでもなし、ここまで緊張することはないと自分でも思うのだが、社長には相手に有無を言わせない威圧感がある。電話を通してですらこの調子だ。

「記事にまでなっておるぞ。あまり騒ぎを大きくするなと言っておいたはずだ。」

「は。申し訳ございません。向こうのリーダーがなかなか強情なもので。」

「黙らせろ。長引けば面倒なことになる。」

「承知しております。」

 受話器を置きながらトマスはホッと息をついた。珍しいことだ。滅多に感情を表に出さない、鉄面皮のようなあの社長が苛立っている。休暇中にわざわざ電話を入れてくるとは。

 トマスは目の前に置かれた新聞を眺めた。そこには、現在彼らが行なっている観光開発に対する反対運動の記事が載っていた。ホテルの建設や、景観を良くするための整地に行なう森林伐採に、地元住人の一部や環境団体が反対しているのだ。

 そこは昔から個人の所有地であったため、必要以上には手の入れられていない森だった。正当な手続きを踏んで会社が取得した土地だから、どうしようが他人の指し図を受ける謂れはない、というのが社長の考えだったし、昔からあるべき姿のまま残されてきた貴重な森を破壊するべきではない、というのが反対派の言い分だった。だが、折角手に入れた土地を、何にも使わずにただ遊ばせておくだけならば、始めから購入などしないほうがよい。我が社は慈善事業のために存在しているのではないのだから。

 しかし、昨今の環境団体の発言力は侮れない。問題が長引けば、社のイメージが落ちて何かと不都合が出てくるかもしれない。大衆紙が面白半分に書き立てるだけならまだしも、一流紙の経済面に載るのだから、社長が苛つくのも分からなくはないが、こんなことははっきり言って初めてではない。問題が起こったことは何度もあったが、社長は冷徹なほど冷静にそれらを乗り切ってきたのだ。

 今回のことにしても、違法性は何もない。認可は既にとってあるし計画に沿った準備も進めている。用意は全て整っていて、後は実行に移すだけなのだ。何も休暇先から電話を入れてくるほどのことではないはずだ。少なくともあの社長にとっては。

 何かあの地域に思い入れでもあるのだろうか。そういえば、購入の時からして、随分と執念を見せていたような気がする。あの森が、元々はブラッケンベリ家の所有地だったことは聞いているが、あの社長が父祖の財産というものにそれほど(こだわ)るとは、とても思えない。徹底した合理主義者の社長が、これに関しては妙に感情を見せているような気がしてならなかった。





 また、霧が出ている。

 普段は静かなこの湖も、短い夏の間は観光地に変わる。彼と同じように、夏期休暇でここに来ている観光客が昼の間はこの辺りを歩き回る。必要以上の人との関わりや騒々しいことが苦手な彼は、こうして誰もいなさそうな早朝に散歩に出ることにしていた。しかし早朝の湖は濃い霧が出易いのか、白い大気に覆われて、時々数メートル先も見えなくなる。先の見えない、不安定な静寂と孤独。姿を隠せることへの安堵感。隣り合う、矛盾した感情。

―――まるで私の心を映しているようだな。

 ふと、そんなことを思い浮かべてみる。

―――私の?

 ジェイムズは、フン、と鼻を鳴らしてその考えを振り払った。馬鹿馬鹿しい。


 ジェイムズの足が止まった。

 まただ。ハープを掻き鳴らしているようなあの音。

 彼は足を速めた。音は途切れることなく、彼を誘うかのようにゆったりと流れる。物悲しい、それでいてどこか懐かしい旋律。霧の中から聞こえてくる音を辿り、時々立ち止まって方向を確かめながら丘を上っていく。

 ・・・いた。一瞬薄くなった霧の向こうに、あの時と同じ人影。白い岩に腰を掛け、竪琴を抱えている。長い黒髪につけられた細い金の頭飾りが微かな輝きを見せ、丈の短い白い服の上に、緑の長い布を肩から掛けている。霧の中に溶け込みそうな白い肌。印象的な金色の瞳は、今は竪琴に向けられていて、射抜かれるような視線を感じることはない。しかし一心に琴を爪弾くその姿からは、神々しさすら感じさせる、近寄りがたい雰囲気が漂っている。

 ふと、旋律が途切れた。岩の上の、少女、だろうか。それが、細い指ですっと弦をなぞった。

「来たか。迷い人よ。」

 そして金色の瞳を、ゆっくりとこちらに向ける。口元は、微かに笑っているようだ。

「迷い人?それは私のことか?」

 ジェイムズは僅かに眉を寄せて訊き返した。二人の間を、白い空気の塊が流れていく。

「無論、お前のことだ。」

 ジェイムズは少々ムッとした。不思議と、自分より遥かに年下と思われる少女に“お前”呼ばわりされたことには、腹は立たなかったのだが。

「迷ってなどいない。わしは散歩をしていただけだ。」

 岩の上の少女は、ふっと笑みをこぼした。

「そういう意味ではない。迷っているのは、お前の心だ。」

「・・・私の、心・・・だと?」

 一瞬言葉が途切れ、呆けたような顔になる。が、すぐに不機嫌な表情を浮かべる。

「何を馬鹿な。」

 吐き捨てるように言うジェイムズを、少女、いや、もしかしたら少年かもしれないが、それは表情も変えずに見ていた。かと思うと、(おもむろ)に弦に指を滑らせ、ポオン、と弾く。

「お前の心には迷いがある。ここにいるのが何よりの証拠。ここは失われた森。この霧は、お前の心を映す鏡だ。」

 そうして軽く指を滑らせていく。琴から流れ出る滑らかな音が幾重にも重なって響き、消えていく。眉を軽く上げて少女を見つめるジェイムズの前に、一際濃い霧が流れて少女の姿が視界から消えた。その霧が通り過ぎたとき、少女の姿は岩の上から消えていた。そして琴の音は、途切れ途切れに、近く遠く響いた後、消えていった。


 訳の分からない思いでホテルに向かったジェイムズは、少女の言葉を反芻していた。

―――『ここは失われた森・・・お前の心には迷いがある・・・』

 意外な言葉に、一瞬言葉を失ったジェイムズだったが、次第に正体の分からない不快感が沸き起こってきた。霧の中で行きあった、どこの誰とも分からない小娘の言う戯言、と受け流すべきなのだろうが、なぜか引っかかるものを感じる。それがなぜなのか分からないというのも、不快感を強めていた。

 大体、あれはなんだ。本当に人間か。もしかすると本当に・・・

 そこまで考えて、ジェイムズは顔を顰めた。

(・・・ふん。馬鹿馬鹿しい。)


 ホテルに近づいた時、裏口らしき所で、白髪の老人が何かの荷を運んでいるところに出会った。ホテルの人間かどうかは知らないが、どうやら地元の人間らしい。客であるジェイムズを見ても挨拶もしようとしないところをみると、接客には関係のない者のようだ。ジェイムズは立ち止まって、じっとその老人の動きを見た。

「おはよう。」

 老人が近づいてきたところで、声を掛けてみる。老人は手を動かしながらもじろっとジェイムズを見て、何も言わずに仕事に戻ろうとした。普段なら、自分から声をかけることなどしないのに、なぜか今日は口が動いた。

「この辺りの人ですかな?」

 老人はまた、じろっと見て、すぐに目を逸らしながらも

「そうでがす。」

と答えた。少々訛りが強い。仕事のことや天気のことなど、当り障りのない話からしようとしたのだが、口をついて出てきたのは、別のことだった。

「この辺りの人なら、ご存知かな?・・・この辺りに伝わる言い伝えの類は。」

 老人は、ちょっとだけ手を止めて、ジェイムズを見た。

「失われた森、というのを聞いたことは?」

「・・・・・聞いたことねえですな。」

「妖精の言い伝えは?竪琴を持った、金色の目の。」

 老人は荷から手を離すと、無言でジェイムズに近づいてきた。そして険しい目で彼を見ながら、訛りの強い英語でボソボソと低く囁く。

「妖精の事を気軽に口に出してはならねえ。興味半分で探してはならねえ。妖精の怒りを買ったら、何をされるか分からねえんだが。ええですが、旦那。怒らせさえせねば、妖精は人間を守ってくれるんでがす。」

 それだけ言うと、老人は再び自分の仕事へと戻っていった。


 ジェイムズはホテルに向かって歩き出した。

(妖精を軽んじてはならない、か。)

 母方の祖父母も、よくそんなことを言っていた。キリスト教を受け入れてから千年以上経つというのに、ケルトの末裔は頑なに、石のように頑なに、今は妖精という存在に縮められた、前時代の神々に対する畏敬の念を守り続けている。

――――『連中は石のように頑固だ。』

 父方の祖父はよく、スコットランド人の事をそう言った。もっとも、その頑固な血がジェイムズには半分流れている。祖父にとってはそれも、不満の一つであったに違いない。正妻の子ではないとはいえ、由緒あるイングランド貴族の家に、名もないスコットランド娘の血が混じることは、古臭い格式を重んじる祖父には我慢のならないことだったはずなのだ。祖父の眼鏡に(かな)った正妻に子がいて、ジェイムズに公爵を継がせずに済んだことは幸いだった。祖父にとっても、ブラッケンベリ家の親戚一同にとっても、ジェイムズ自身にとっても。煩わしい仕来(しきた)りや無意味な儀礼に縛られることも、爵位を継いだ場合に比べれば格段に少なくて済んだ。

 生きていくには、持てるものを十分に活用する才覚があれば十分だ。会社にしても、元手は家から出たものだったが、それをここまで大きくしたのは彼の才覚だった。今では本家の兄よりも資産はある。そんな自分に、迷いなど。

(戯言だ。あの・・・『妖精』の。・・・・どうかしている、こんなことで煩わせられるとは。)




「それで?」

「住民のほうは片がつきました。団体のほうは手間取りそうですが、土地は会社のものですので、彼らには何もできません。」

「当然だ。法の正当性はこちらにある。」

「はい。マスコミには手を回しておきましたので、これ以上の騒ぎにはならないと思います。工事は予定通り、来週から始まります。」

「うむ。」

 受話器を置いても、ジェイムズの顔は晴れなかった。理由の分からない苛立ちが彼の中にはあった。口を出しすぎているのは分かっている。彼の会社が手がけている事業はこれだけではない。本当なら、多少の反対があったからといって、彼がいちいち口を出すべきことではない。責任者となっている部下は、もう何十年も経営に参加しているベテランだ。ジェイムズがわざわざ指示をしなくても、対処の仕方は心得ている。だというのに、なぜかこの件に関して、ジェイムズは冷静になれずにいた。

 あの土地は、元々彼が父から分けられるはずだった土地だ。かつてはブラッケンベリ家の所有する狩猟場の一つだった。結局は兄が受け継いで、経済的に苦しくなった本家の財産を整理するために、一度は人手に渡ったものだが、それをジェイムズの会社が取り戻したのだ。あの土地は彼のものだ。他人にとやかく言われる筋合いはない。苛ついているのは、きっとそのせいだ、と考えようとしていたのだが、何かスッキリしない思いが残るのは事実だった。

 一息大きく吐くと、ジェイムズは立ち上がって窓辺から外を見た。すっきりと爽やかに晴れた青い空に、羊のような白い雲が浮かんでゆったりと流れていく。そして鮮やかな緑に覆われた丘や、鏡のように青く澄んだ湖面にさざなみを起こして歓声を上げる人々に、その影を落としている。早朝のあの静寂と幻想的な雰囲気が嘘のように、昼の湖は生き生きとした喜びに満ちている。夏のスコットランドは束の間の輝きの中にあった。夏の休暇は、大陸に渡って地中海沿いの地域に行く者が多いが、ジェイムズはこうして湖水地方やスコットランドで静かに過ごすほうが性に合っていた。

 青い空とは対照的に、彼の心はすっきりとしない。いつのまにか、空の一角に灰色の雲が現れていて、だんだん暗さと大きさを増してきていた。

「一雨、来るか。」

 やがて風が変わり、天候の変化を悟った人々が屋内に入って、急に静かになった湖畔に、暗い灰色に覆われた空から大粒の雨が激しく降り出した。窓に激しく叩きつける雨粒を眺めながら、ジェイムズは自分の心も乱れていくような感覚を覚えていた。




「来たか。」

 早朝の湖畔。霧の丘を登って、ジェイムズはまた、竪琴を持った金色の目の“妖精”を見出していた。“妖精”は相変わらず白い岩の上に腰掛けて、装飾を施された金色の竪琴を爪弾いている。ゆったりと響き、霧の中に広がって消えていく音色。聞いた事のない、それなのに懐かしさを覚えさせる旋律。意味もなく乱れたジェイムズの心すら静めてしまうそれを奏でているときの彼女は、まるで壁画に描かれた人物のように遠く感じられて、中性的な顔立ちからは少女なのか少年なのか判断できない。しかし琴を引く手を止めてこちらに目を向けるや、その顔からは中性的な神々しさは失われて、突然夢から現実へ引き戻されたような感覚を覚えるのだ。

 狼の目のようだ、とジェイムズは思った。金色の瞳から向けられる鋭い視線。常に湛えられている微笑。まるで相手の心を全て見透かしているかのようだ。

「それで?」

 琴を弾く手を休めて、少女は言った。そして黙ったままのジェイムズを見る。

「話したい事があるのではないか。」

 それでもまだ渋い顔で黙り込んでいるジェイムズを見て、少女は笑った。

「どうした。そんなところで黙り込んで。何を恐れている?もっと近くへ来い。話したいことがあるのだろう?」

 ジェイムズは少しムッとしたように、眉を顰めたままで少女の傍に歩み寄った。こんな顔をしていたら、会社の部下なら彼の怒りが爆発するのを恐れて顔色を窺うのだが、この少女はジェイムズを直視したまま微笑んでいる。ジェイムズの怒りや不快など、まるで意に介していないのだ。そんなふうに接する人間には、ここ数十年会っていない。

 近くで見ると、少女の肌は、霧に溶け込みそうな白というよりは、色の白い東洋人といった感じだった。初めて見かけた時から印象の強かった瞳の色も、冷たい金というよりは、深みのある琥珀色であることが分かった。それでも、その中に秘められた鋭さは、変わるわけではなかったが。

「迷いは見えたか?」

 口元に笑みを浮かべて、少女は琥珀の瞳をジェイムズの目に合わせた。

「私に迷いなどない。」

「ほう?そうか?」

 少女はジェイムズから目を離さず、微笑を浮かべている。まるで、全てを知っているかのような表情に、ジェイムズは苛立ちを覚えた。

「何を知っているというんだ。私の迷いとはなんだ。」

 少女は声を立てて笑った。

「そのようなことは自分で考えろ。お前のことだ。お前が一番良く知っている。」

 ジェイムズは憮然とする。

「私に迷いなどない。いい加減なことを言わんでくれ。」

 少女は可笑しそうに笑った。

「ならば何をそんなに苛立っている?」

 ジェイムズは皺の刻まれた顔を強張らせたまま黙り込んだ。霧が静かに流れていく。見透かされたような気がした。自分でも正体の分からない苛立ちの理由。心の奥底に垣間見える、微かな不安。自分のことのはずなのに、この少女のほうが良く知っているのではないだろうか。そんな気がした。

「迷いなど、私には・・・」

 定まらない心をついて出た言葉に、少女は明快に答える。

「あるさ。お前の目がそう言っている。言っただろう。この霧は、お前の心が生み出したもの。お前の迷いを映したものだ。」

 その声は深く、低くジェイムズの心に響く。

「分かっているんだ、お前も。おそらくお前が、一番認めたくないことだ。」

 いつからか渦巻きだした、正体の分からない不安。おぼろげに見えてくるその正体。そう、それは確かに、彼の認めたくないことかもしれない。ぼやけた形のまま押し込めようとするジェイムズの背を、少女の言葉が押し出す。

「そう、だな。お前が今しようとしていることと、関わることだ。」

 ジェイムズは目だけを動かして、半ば睨むように少女を見た。その青い瞳に、誰もが、部下もライバルも、家族すら恐れた鋭さは幾らか残っていたが、実業家として築いてきた揺るぎない自信は、薄らいで見えた。

「あの土地は、私のものだ。どうしようが他人にとやかく言われる筋合いは無い。」

 言い訳でもするかのように押し出した言葉に、少女の表情が変わった。口元には変わらず笑みが湛えられているが、すっと細められた瞳には、心なしか厳しさが含まれたように見える。

「お前がしようとしているのは、森を殺すことか。」

「殺す?大げさな。ほんの少し手を加えて、ホテルを建てるだけだ。木は切るが、全部ではない。」

「一部でも、切るのだろう?土地をならし、泉を潰して?」

「建物を建てるのだからな、ある程度は手を加える。だが後は、少し整備するだけだ。あの森は、観光地にするつもりだからな。」

「木を切り、泉を潰して水の流れを変え、土地を変える。それで十分、森は死ぬ。」

 ジェイムズは口をつぐんだ。同じ言葉を、別の人間の口から聞いたなら、彼は歯牙にもかけなかっただろう。興味も無い、と冷たく突き放したはずだ。しかしこの少女の言葉は、淡々と流れ出て心の中をちくちくと突き刺していく。押し付けられて屈服させられるのではない。心の奥底の、どこかに眠る感情が呼び覚まされて、それが痛むのだ。こんな、遥かに年下の少女に。そうとすら思わなかったのも、彼らしくないことだった。そもそも、なぜあの森のことを思い浮かべたのかも、不思議なことだ。彼が今手がけているのは、何もあの土地の開発だけではない。それなのに、今しようとしていること、と言われて真っ先に思い浮かんだのが、あの森のこと。私は本当に迷っているのか。あの森に手を入れることに。馬鹿な。ジェイムズは頭を振る。あの土地は私のものだ。誰にも渡さない。だからこそ私が、あの森を切り開くのだ。

「人間は、壊すのが好きだな。」

 ジェイムズは顔をあげて少女を見た。少女の目から、厳しさは消えていない。

「特に森は・・・。人は多くの森を消した。命溢れる豊かな森の多くが、人の手で切り倒され、覆されて消えていった。中には草一本生えることの出来ない砂の中に、飲み込まれた土地もある。」

 ここもその一つだ、と少女は目を伏せた。霧で見えない周囲の様子を、ジェイムズは思い浮かべてみた。この辺りは草花に覆われた丘が広がっている。背の高い木は滅多に見ることがない。ましてや森の気配など、微塵も無い。大体がスコットランドは森の少ない土地で、昔から石の国と呼ばれてきたのだ。

「スコットランドは、石の国だ。」

「いいや、失われた森の国だ。」

 少女は再び琴を弾いた。その音は、静かに乳白色の霧に吸い込まれていく。

「かつてこの地は、豊かな森に覆われていた。お前もケルトの、森の民の末裔ならば、覚えているはずだ。」

 少女の、深みのある琥珀の瞳が、ジェイムズを見据える。

「見えるはずだ。遠い昔に失われた、これがこの森の姿。」

 心地よい琴の音とともに響く、囁くような声に、一瞬気が遠くなるように感じたジェイムズの耳に、小鳥の鳴き声が届いた。その微かな声に意識を引き戻したジェイムズは、確かに見た。薄れた霧の向こうに、あるはずのない光景を。生い茂る木々、静寂の中にある深い森、木陰に感じる獣の気配、高い木々の葉末から零れ落ちる光の帯、その中に佇む、遠い昔の森の民。それは、遠い昔の、ケルトの故郷(ふるさと)

「耳を傾けろ、お前の心の声に。逃げるな。自分自身を、よく見つめろ。」

 それは、少女の声だったのか、幻に見えた遠い祖の言葉だったのか。


 それが最後だった。早朝の霧の中に、少女を見つけることは二度となく、スコットランドの休暇が終わって日常に忙殺される中で、いつしか霧の中の出来事も忘れるようになった。

 そうして、一年が過ぎた。




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