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紅想歌(くれないそうか)(4)


「呪詛ですと?大納言殿が?まさか・・・」


 夏も盛りを越えた頃であった。

 東宮が体調を崩されたことから、都に、俄かに不穏な雰囲気が漂い始めた。風邪を召されることはあっても、常はすぐに回復なされるものを、この時は、なかなか熱が引かず、呪詛を掛けられているのだと噂が流れたのだ。


「無論、大納言一人の考えではあるまい。左大臣の差し金であろうが。」


 右大臣と反目する左大臣と、大納言は近しい。東宮を擁する右大臣家の勢いを削ぐために、東宮を挿げ替えようとしているという理屈は、一見通るように見える。しかし、敦隆(あつたか)には、事も無げにそのようなことを言う兄こそが、この噂の源ではないか、という気がしてならない。幾度か直に話をしたこともあるが、顕孝(あきたか)の父君がそのような恐ろしいことをする人物とは、とても思えないのだ。


「あの大納言殿が、そのような大それたことをなさるとは・・・。何か、証があるのですか?」

「すぐに見つかるだろう。左兵衛佐(ひょうえのすけ)が、東宮の隠し巫女に近づいたのも、この為であったのであろうな。」

「顕孝が?隠し巫女とは何です?」

「ああ。一蔵人(くろうど)では、知らぬことであったか。」

 嘲るような兄の表情に、嫌な予感がした。

「余計な事をするなよ、敦隆。既に事は動いているのだ。曲がりなりにも、右大臣家の者ならば、敵を利するような振る舞いは控えよ。もっとも、今更何も出来ぬだろうがな。」




(ふみ)を燃やしなさい。」

 遠子の言葉に、長く仕える女房の葉菊は、息を呑んだ。

「ですが・・・」

「これが他人の目に触れれば、あの方の大きな災いとなります。全て燃やしなさい。」

 長にも匹敵する巫女姫に、厳然とした調子で命じられれば、一族の者としては黙って従うのが道理だ。ただ、葉菊は、遠子が抱えている想いを(おもんばか)って、躊躇した。

 当初は困ったような顔をしていた遠子だったが、次第に心を通わせるにつれ、届けられる文を心待ちにするようになっていた。返事を書くことは出来なくとも、一つ一つの文を、大切に、押し抱くようにしている姿を、葉菊は目にしていた。

 遠子は、表に存在を知られてはならず、一族以外の者と交わることは許されない、(とうと)い血筋。本来なら、あの公達(きんだち)との(えにし)は、とうに断っていなければならなかった。それは、側近くに仕える葉菊の務めでもあったが、(ふみ)を見る時の嬉しそうな顔や、あの公達(きんだち)を思う時の穏やかな目を見ると、随分と酷な事のように思えて、ついその役目を押し通すことは出来なかったのだ。


 一つ一つ火にくべられて燃えていく(ふみ)を見ながら、遠子は固く手を握りしめていた。手は袖の中に隠され、周りの者には、何の感情も窺い知れないように見えていただろうけれど、胸の内は、炎の中で灰となっていく(ふみ)と一体となったかのような心持ちであった。

 都を覆う邪気と、それがあの人を濃く包むことに気付いた時には、もう遅かった。出所の知れない邪気が広まるのはあまりに急で、遠子には成す(すべ)もない。左兵衛佐(ひょうえのすけ)から届けられた(ふみ)にもそれが漂うのを見て、これを燃やさなければならないと決めたけれど、込められた想いまで灰になっていくようで、いたたまれなかった。

 自分と関われば、このような事も起こりうる。それは、分かっていたはずだった。だから、踏み込ませてはならなかった。踏みとどまれなかった、(おのれ)(とが)だ。身の内を焼き尽くされるようなこの痛みは、罰なのだ。だから、遠子は、涙を零すこともなく、全ての(ふみ)が灰になるのを、ただ静かに、見守った。




 呪詛の騒ぎは瞬く間に大きくなった。どのような証があったのか、噂以上のものは伝わってこず、敦隆(あつたか)にも、確かなことは分からなかった。そもそも、確かな証など、なかったのかもしれない。大納言家の門は固く閉ざされ、中と連絡を取ろうにも、わずかな隙もない。程なく、大納言と、左兵衛佐(ひょうえのすけ)を含めた息子達の流罪や左遷が決まり、左大臣は職を辞した。詳細が分からないことに、本当に大納言が呪詛に関わったのか、疑問視する声もあったが、隠部が絡むため、公にされない部分があることは、公卿の一部しか知らない事であった。


 占部(うらべ)の一部に、秘匿された一族がある。彼らに伝わる特別な能力は、祭祀には欠かせないもので、皇家の威光を保つのに必要不可欠だ。それゆえ彼らは、皇家が占有する隠部とされた。古来より、皇家を支え、時に身代わりを務める、陰の存在。隠部からは、歴代の帝の厄を代わりに引き受ける、人形(ひとがた)が選ばれていた。現在は、東宮にも人形となる隠し巫女がつけられており、それが、どうやら顕孝(あきたか)の想い人であったらしい。左大臣から指示を受けた大納言家は、隠し巫女と情を通じて東宮の護りを弱め、呪詛を行ったと、そういうことにされている。

 敦隆が父を問い詰めるように聞き出したあらましは、そんなところだった。


 敦隆は(ほぞ)をかんだ。

 日頃折り合いの良くない兄が、珍しく親しげに声をかけてきて、酒など飲みながら、気軽な話などするから、つい気を許して、顕孝と糸桜の女の話をしてしまったのだ。その時は、些細な事のように聞き流していたように見えたのに、このような大事に仕立ててしまうとは。これでは、自分が友を売ったようなものだ。

 隠し巫女にしても、兵衛府の顕孝より蔵人所の自分の方が知らなければならないことだった。

 糸桜の女が、なぜ一線を越えさせなかったのか、これでようやく合点がいったが、それでも顕孝は想いを深くしていった。あの二人は、ただ静かに時を共有するだけで満たされるような、穏やかな交わりだったのだ。それさえも断たれねばならないほどの重い罪を、二人は犯したというのだろうか。

 この事態を呼び込んだ自分に、この先、平穏はない。それは、贖罪の思いから出た、確信だった。






 あの二人に任せていたら、何も進展しないに違いない。時間もないのに。

 その焦りは、日を追うごとに強まっている。

 一樹が神野さんの協力を仰ごうと連絡を取ってみると、すぐに話に乗ってくれた。どうやら、上條さんの方でも、メールを送ろうかどうしようか、ずっと悩んでいて、神野さんも呆れていたようなのだ。メールはもういいから、とにかく周りが背中を押してやらなけりゃならない。本当に昔から焦れったい二人だ。

「・・・むかし?いや、会ったばかりだよな。・・・まあ、いいか。」

 とにかくあの二人には、時間がないのだ。






 北山は常から人の訪れが少なく、まして糸桜の下まで来る人間は、まずいない。野分が暑さを吹き散らす季節となったが、都には、人には見えぬ暗雲が垂れ込めている。

 遠子が心を寄せたあの公達(きんだち)が、人間同士の争いで遠方へ送られてから、一年(ひととせ)が経つ。文を燃やし、関係を問い質されても知らぬ存ぜぬを通した遠子であったが、あの者に降りかかる災いを、完全に払うことは出来なかった。他の者には明かせぬ心の内を語りに、ここを訪れることはあったが、以前ほど繁くはなく、このところは、すっかり途絶えている。

 人間のすることは不可思議だ。(よわい)七つに満たぬ幼子が、暑熱にあてられて床に臥すなど、おかしなことではない。

 呪詛など、なかったのだ。

 そう言い立てた者が、意図しての事か、本当にそう信じていたのかは分からぬが、呪が生まれたのは、むしろその後だ。発端となった悪意は、故なき罰を受けた者の怨嗟や無念を集め、幼い東宮と周りの者へと向かっている。


 野分が去り、重陽(ちょうよう)の節句も過ぎて、青の衣に(くれない)を重ねようかという頃、風が知らせを運んできた。

「そうか。・・・()ぬるか。」

 空は高く澄んでいるが、都の空は相変わらず暗い霧が覆う。東宮の人形(ひとがた)であった遠子は、あれを受け止めていた。本来なら、祓うことも出来たやもしれぬが、身の内を焼かれる痛みを抱えた今の遠子には、難しい役目であったのであろう。


 山が鮮やかに色づき、紅に山吹と蘇芳(すおう)紅葉襲(もみぢがさね)とする頃、一人の(おみな)が、錦を敷いた道を訪ね来た。遠子の女房で、確か名を葉菊と言った。この者に我の姿は見えぬが、存在は遠子から聞き知っていて、傍まで来ると、丁寧に拝礼をした。

 それから、遠子が世を去る前の様子を語った。遠子は、山吹の花を常に手許に置いていたという。あの公達が、文の一つに添えて送ったものを、押して取り置いたものだ。それだけは、誰から贈られたと悟られずに済んだゆえだ。


 君待つや 鳥ゆく空を 渡らはむ 雲の通い路 花をさしつつ


『魂が姿を変えて往く空を、渡って行きましょう。山吹を灯として掲げながら、煙となって貴方の元へゆく道を。貴方は、待っていてくださるでしょうか。』


 最後には、そのような歌を詠んだという。

 哀れなことだ。

 人間は儚く、寿命も短い。だから、このような日が来ることは分かっていた。しかし、友となれる人間は少なく、やはり寂しく思えた。




 それから、いくつもの季節を、山の獣や仲間の精霊達と語り合いつつ過ごした。風が冷たさを増し、蘇芳から氷へと衣が変わる頃、薄く雪の降りた道に枯葉を踏みしめて、一人の法師が辿り来た。その法師に見覚えはなく、法師も初めて訪れるように、心許なげであったが、我の下まで来ると、感慨深げに見上げてきた。その法師に我は見えず、また、存在も知らぬ様子であったが、まるで何かと話すかのように語りかけてきた。

 その法師は、あの公達の友であった。あの後、都を流行り病が襲い、幼かった東宮も、右大臣家の主だった者達も、あっけなく失せていった。今はもう、都を覆っていた暗雲は晴れている。欲に捕らわれて悪意を撒き、自らの首を絞めるとは、人間とはまことに、不可思議なことをする。

 病を鎮める為に、呪詛事件で罰を受けた者は赦されたらしいが、あの公達は流された地で病みがちになり、そのまま絶えてしまった。初めの頃は、様々に恨み言も漏らしていたようであるが、最後はただ、一人のことのみを思っていたという。


 うき身世に 露と消ゆとも 見し人を 思ひ思はむ 後の世にこそ


『辛いこの身があっけなくこの世を去ったとしても、妻と思い定めた人を思い続けよう。来世では添い遂げたいものだ。』


 遠子の思いは、あの公達に届いていたのであろうか。そのような術は、なかったやも知れぬ。

 この法師は、友に合わせる顔がないと、会いに行くことはなかったものの、誰からと分からぬように、必要な物を送っていたらしいが、全てが終わった後に出家し、二人を弔い来世の(えにし)を祈る余生を選んだ。


 来世など、必ずあるとは、限らぬものを。

 二人が必ず会えるとも、限らぬものを。

 あの公達も、遠子も、この法師も、それぞれに哀れなことだ。



 降りかかる雪に、鳥も獣も身を潜め、時が静かに流れる中、瞼を閉じて、遠子のことを思い出す。あれは、もっと長く生きるものだと思っていた。誰ぞと契りを結び、子を成して、その子らをここで遊ばせることもあるかと思っていた。そのような遠子を見てみたかった。

 樹霊の身で、出来ることもありはせぬが、あの法師と共に、我も願ってみよう。

 二人に次の世があるのなら、次こそは、何に縛られることなく、思いを遂げられるようにと。




『遠子、か。』

『これをくれるのか?良い香りだ。』

薫物(たきもの)だ。荷葉(かよう)に手を加えてみた。香袋の礼だ。』

 心浮き立つような、足の軽やかになるような喜び。

 ものを良く知っているかと思えば、思いもよらぬところが欠けていて、ゆかしいと見えることもあれば、幼子のように拗ねてみたりもする。声を聞くだけで、笑んでくれるだけで舞い上がるような心持ちとなる。

 やがて、触れたいとも、(いだ)き寄せたいとも思いながら、望まぬことを無理強いは出来ないと、葛藤する心。すぐそこにいるのに、見えない壁に阻まれるようなもどかしさ。

『濡れ衣だ!東宮を呪詛し(たてまつ)るなど、そのような恐ろしいことをするものか!』

『隠し巫女など知らぬ!何を言っている!』

『まさか、敦隆が・・・』

 覚えのない罪を問われ、誇りを奪われ、(おとし)められた怒りと恨み。

 友と信じた者の裏切り。

 哀しみと痛み。

『いや。敦隆は、そのような男ではない・・・』

 権力を巡る争いは、元々熾烈(しれつ)で容赦のないもの。隙を見せれば負けなのだ。敦隆がどういう人間かは知っているが、その後ろには、右大臣と油断のならない長兄がいる。それを忘れた己への悔い。

 やがて諦め。

 そして、絶望。

『遠子が・・・。間違いないのか、高雄。』

『馴染みとなりました者どもから聞き出しましたが、残念ながら。』

 別れを言うことも出来ず、文の一つもやり取りできずに、儚くなってしまうとは。いずれ汚名を(そそ)いで都に戻るという気力も、これで(つい)えた。

 流行り病で右大臣家の者達が失せたと聞いても、何も思わなかった。都に残した母や、幼い弟妹を案じる気持ちが少し、あるだけだ。

 赦免の知らせが来たときは、ただ虚しかった。






 起きたばかりだというのに、今日は体が重くて、なんだか疲れている。夢の中に彼女が出てきたような気がしたが、よく覚えていない。ただ、気分の起伏が激しくて、疲れる夢だった。

 首や肩をグルグル回しながら、のっそりと起き上がる。今日は、一樹の用事に付き合えと言われている。何の用かも言わない上に、どうせ暇だろう、と決めつけるのだから、失礼な奴だ。俺だって忙しい、と言ってやりたかったが、残念ながら今日は空いている。

 この間は、死んだ魚のような目をしていたのに、神野(じんの)さんとかいう人のおかげか、最近は随分と元気になったようだ。おまけに、身なりの事なんて気にしたこともなかったくせに、今日は身綺麗にして来いと言う。就活でもさせる気だろうか。今後の身の振り方は、自分でも考えているところだが、別に一樹に世話してもらおうとは思っていない。


 待ち合わせの上野公園は、桜の盛りを過ぎても人が多い。

(今更花見でもないだろうしなあ。)

 桜は綺麗だけれど、意味もなく悲しくなるから、和也はあまり好きではない。花見には付き合うが、周囲のように浮かれることは出来なくて、この時期はいつも鬱々とする。だから、わざわざそんなことの為に呼び出されたら、多分怒る。

 時間ギリギリになったが、そもそも呼び出したのは向こうなんだから、少し遅れてもいいくらいだろう。そう思って歩いていたら、一樹からメールが来た。

『三十分くらい遅れる。待っててくれ。』

「・・・あの野郎。」

 呼び出しておいて遅れるって、どういうことだ。一杯くらい奢らせてやる。

「いや、一食だな。」

 そう呟きながら顔を上げて、目に飛び込んできたものに驚いて、もう少しで携帯を落っことすところだった。

「え?か、上條さん?」

 一瞬、白昼夢でも見ているのかと思ったが、向こうでも驚いたように目を丸くしている。

「え、と、え?なんで?」

「あ、あの、待ち合わせをしていて。あ、この間の、友達と。」

「ああ・・・」

 こんな偶然があるのだろうか。何か言わなければ、と思うのだが、あまりに驚いて、何も出てこない。と思っていたら、いきなり彼女がぺこりと頭を下げた。

「ごめんなさい。」

「え?」

「あの、メール。返しそびれてしまって、日が経ったら、余計に返しづらくなって。すみません。」

「あ、ああ。いや、大丈夫。忙しいのかな、と思ってたし。うん。」

 そう言いながら、ほっとして、つい口元が緩んでくる。嫌われたわけではなかったようで、良かった。

「怒らせちゃったりしていないかな、とか、ちょっと思ったけど。」

「え?全然!全然です。」

「そ、そう?良かった。ちょっと安心。」

 余計なことを言っているような気がしながらも、そんな会話を交わして、もっとましな話をしようとして、詰まってしまった。こんなことは初めてだが、何を話したらいいのか分からない。この間、話が途切れなかったのは、神野さんとかいう人がいたからだ。今、切実に助けが欲しい。

「あ、今、この間の奴と待ち合わせしてたんだけど、遅れてくるとかいうもんだから、ちょっと時間が空いちゃって。」

「そうなんですね。実は、私も・・・」

 これもまた、偶然だ。なんだか誘っているような流れになってしまっているが。いや、むしろいいのだろうか。良ければお茶でもとか言ってみるべきだろうか。しかし、その後どうしたらいいだろう。奇妙な間が空いて、お互い曖昧な笑顔のまま固まってしまう。

「なので、少しそのあたりを歩いてこようかと。」

「あ、ああ、そう。」

 彼女の方から、そう切り出されてしまった。

「じゃあ、また。」

「うん。また。」

 背を向けて去っていく彼女を呼び止めようとして、すぐに思い直す。


 踏み込んではいけない。そう望んでいるのならば。


 そう思いながら、視線は外せず、足は今にも駆け出してしまいそうで、それをどうにか抑え込む。一度会っただけの相手なのに、我ながらどうかしている。

 完全に人ごみに紛れてしまってもなお、その姿を探して、しばらくして、ようやく息をついた。

 これで、いいはずだ。


「和也?」

 なんとなく気分が疲れてしまって、ゆっくり振り返ると、一樹が不思議そうな顔をして立っていた。

「一人か?」

「は?」

 何を言っているのかと思ったら、一樹の向こうに神野さんがいるのが見えた。

「どうも。ここで友達と待ち合わせしていたんだけど、知りません?この間の子なんですけど。」

「ああ。・・・そうか。」

 そういえばそんな話をしていた。ほんのちょっとの時間だったのに、すっかり忘れていたが。

「うん。少し前までいたけど、少し、周りを歩いてくるって、向こうの方へ。」

 そう言うと、神野さんも一樹も、そろって怪訝な顔をした。

「・・・で?」

「で?ってなんだよ。」

 一樹がずいと近づいて、声を低める。

「お前、ここで何やってんだよ。黙って見送ったのか?」

「そりゃあ、まあ・・・」

 思いのほか真剣な表情に、ついたじろぐ。

「何やってんだよ。追いかけろよ。」

 その言葉は、心のどこかにあった声と同調し、押し込めたばかりのざわざわした感情をあっけなく開放した。背中を押されるように、足がひとりでに動き出す。


 何をしているのだろう。

 彼女を一人、行かせてしまった。

 一人で去るのを、また見送ってしまった。


 姿の消えた方に急ぎながら、人ごみを見渡す。すぐに追いかければよかったと焦りながら、目印があるわけでもなく、途方に暮れる。

「あ・・・」

 足が止まった。

 視線の先に、小学生くらいの女の子がいる。薄いピンクのカーディガンを着て臙脂(えんじ)のスカートを履いた、日本人形のような顔の子。どこかで見たような、記憶を(かす)る女の子。

 その子は、行き交う人の中、一人佇んで、じっとこちらを見ていた。不自然に大きな黒目と、子供っぽくない無表情のせいか、まるで等身大の人形のように見える。

 その子は、(おもむろ)に視線を外し、体の向きを変えて歩き始めた。慌ててその後を追いかけて、人波の中を歩いていく。姿を見失っても、その子はどこかで待っていて、またどこかへと向かっていく。それを何度か繰り返して、たどり着いたのは、桜だった。

 ソメイヨシノはもうほとんど散って、赤い(がく)の色が目立っているけれど、その桜はまだしっかり花がついていて、色も濃い。その下に彼女が立っていて、木を見上げていた。

 それは、懐かしくて、美しい、いつかの光景と重なった。


「いと、ざくら。」


 知らずに零れ出た言葉は、哀しくて、嬉しくて、どうしようもなく遠い何かを思い起こさせる。求め続けて、手を伸ばし続けて、届かなかった、何か。


 周りの雑踏が動きを止め、雑多な音が遠のいていく。ゆっくり歩み寄ると、彼女も気づいて、振り返った。戸惑ったような彼女の顔も、頭一つ分小さな彼女を見下ろすこの感覚も、どこか懐かしい。

 胸が詰まるような気持になりながら、その目を見つめる。こみあげてくる感情が何かは分からず、何か言おうと口を開くが、言葉は舌の先に引っかかる。


 これ以上は、踏み込むな。


 押し留めるものがどこかにあって。それでも。

 言わなければ、伝えなければ。また、すり抜けてしまう。

 その思いが、言葉を押し出した。


「とお、こ。」


 泣きたいような気持がこみあげてくる。失くしてしまったものを見つけたような、何かをつかみ取ったような。

 会いたかった。名を呼びたかった。

 視線を交わし、言葉を交わし、想いを交わしたかった。


「俺と、付き合ってほしい。」


 彼女の目がゆっくりと見開かれ、頬が上気していくのを、固唾を呑んで見守る。その唇が、一度開かれ、また閉じた。




 (くれない)の強い桜の下で、恥ずかしそうに俯く娘と、舞い上がりそうな心持ちがよく分かる青年が、向かい合って立っている。その様子を眺める樹霊は、人波に身を置きながらも、誰に認識されることもない。

(ようやく、成就(じょうじゅ)するか)

 長の年月、只ひたすらに、この時が来るのを待っていた。余程思いが強かったのか、二人は幾度か生まれ変わりを果たしたものの、同じ時、同じ場所に生まれたのは、ただ一度だけ。しかし、どうしても互いに踏み込むことが出来ず、願いは成就されなかった。あの時は、法師の生まれ変わりはいなかったのだが。


 体から力が抜けていく。体が透き通り、光に溶けていくのを認識する者はやはりいない。樹霊の姿が見えていたのは、あの二人と、法師の生まれ変わりだけなのだ。

『よくやったね。』

『頑張ったね。』

 仲間達の声が聞こえる。

『長い間、見守った甲斐があったな。』

「有難き事にございます。王。我儘をお聞き入れくださいまして。」

 寿命を過ぎながら、花もつけず枯れることもせず、引き伸ばし続けたのは、(ひとえ)にこの為。それも、もう限界に達していた。樹霊の願いは、この先の世には届かない。これが、最後の機会だったのだ。

 事が成った今は、ただ満足だった。


今生(こんじょう)こそは、思い合う者と生きよ。遠子。)


 淡い萌葱(もえぎ)色の光となって消えていった樹霊に、気付く人間はいない。ただ、微かな香りを感じた透子が、不思議そうに顔を向けたのみだ。


 その日、京の山の中で、一本の枝垂れ桜が静かに枯れた。




氷の重ねは、表地が光沢のある白瑩みがき、裏地が白


遠子の歌は少し無理矢理ですが、煙を雲と見立て、『(灯を)点す』と『差す(掲げる)』を掛けました。

顕孝の歌は、『憂き(身)』と『浮き(世)』を掛けています。

素人作なので、アドバイスがありましたら、ぜひ。

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